| 無名が無明を問う |
時間 2003 年 9 月 6 日 場所…台北市政府親子劇場 司会…葉樹珊 ( テレビニュースキャスター ) 座談人…聖厳法師 ( 法鼓山創設者 ) 李連杰 ( ジェット・リー )( 国際派有名俳優 )
葉樹珊 ( 以下「司会」とする ) … 先ず、はじめに聖厳法師に私達の為に「無名」と「無明」の説明をしていただきたいと思います。 聖厳法師 ( 以下「法師」とする ) … 無名、それは名前がないということです。事実上、私達は生まれたとき名前を持っていません。名前とは仮名や記号であり、本当の私達一人一人を代表することはできません。そのため、虚名を求めることは本当に愚かなことだといえます。しかし皆がすべて無名というのも困るので、結局名前は必要といえます。ただし、それを見せかけの幻像と認識しなければなりません。また、無明は煩悩という意味もあります。智慧と慈悲心がないため、常に自縄自縛になり、自己も他人も害するのです。 満足し恩を感じ、名利から解脱する 司会… ジェット・リーさん、貴方は皆に知られる「有名」な人です。今までに「名」に対して体得したことをお話しいただけますか? ジェット・リー ( 以下「リー」とする ) … 幼いころから、先生やコーチに、「有名になりたければ努力してチャンピオンになれ。」その後、映画界に入ってからも、「努力して成功を追及しろ。」と言われてきました。そのため若いころの私の唯一の目標は、成功して有名になることでした。 その後、年齢を重ね私は反省を始めました。実は「名」というのは聖厳法師がおっしゃられるように、ただ人に与えられた一つの記号であり、もし逆にこの記号に縛られ、その中で陶酔すれば、いずれの場合も名のために生涯を巻き添えにすることになります。特に芸能界では、マスコミと観衆の支持により、無意識のうちに社会における高い地位が得られますが、容易にそこから下りられず失敗したり、また、世論の圧力に直面することにかなりの勇気を要することになります。 仏法に触れてはっきりと分かったのは、全ての人の人生には、必ず浮き沈みがあり、私たちはあるがままの広い心で無常に向き合うべきということです。だから私は失敗をとても楽観的に見ますし、失敗も恐れません。但しこれは受動的でも消極的という意味でもなく、物事の結果に拘らず、それを放っておいたということです。 私はいつも友人に、「私は常に天国と地獄の間を行き来している。」と話しています。例えば、最近私はプロモーションで日本に行く機会がありましが、スターという身分での登場でしたから、相当な礼遇を受けました。しかし上海に戻ったとき、誰も出迎えはおらず、私たち夫婦は子供を抱えながら、タクシーに乗りました。しかし私はいかなる差別も妨げも感じることはなく、両方の待遇を同じように楽しむことができました。これは仏法が私にくださった智慧と力です。 四十歳を過ぎる頃から、自分の精神と体力はすでに二十代の頃と比べることができなくなり、私は「体の大切さ」の意義を深く体得しました。現在は、経済的には問題がなくなったので、今後、多くの時間を修行や弘法に費やそうと決めました。 法師… リーさん にお伺いしたいのですが、先ほど貴方は経済上問題がないから、時間を使って仏法を広め、仏教の勉強に取り組みたいとおっしゃいました。しかし多くの若者は現在有名でもなく、お金もありません。それでも仏教を学ぶべきでしょうか? リー… 成長する過程の中で、父兄や先生はいつも私達に、努力をしてこそ知識・前途があると伝えてきました。しかも私たちは常にこの努力のもと培った価値観で人を評価します。その結果、私達は常に比較したり、周りについての愚痴をこぼしたりします。例えば、私達は両親にこう言います。「なぜお金がないの?なぜ私をブリジット・リン(林青霞、台湾女優)のような綺麗な女性に生んでくれなかったの?」 実は物事自身には価値を区別する能力はありません。私達は自分でこれらの物の上に名前、或いは都合のよいレッテルを貼っているのです。ある人は数千元で喜び、ある人は数千万を稼いでもまだ満足しません。何が正真正銘の価値なのでしょうか?重要なのは心の中で如何に自分の価値を見出すかです。 誰でも満足している時は、うれしくて仕方がないでしょう。嬉しいということは物質に取って代わることができないもので、自分の心の内側から来るものです。しかし、もし自分が満足していなかったら、天に昇るその日までやはり自分の名、お金、権利の不足を愚痴るでしょう。ですから権力や声望については、まず仏法の智慧から生命の価値を理解する必要があるのです。 法師… とても重要な点をご指摘いただきました。それは、人は名利のために生活しているのではないということです。人の快楽というものは自分の名利の大きさからではなく、内心の満足から来るものです。満足というのは個人が何を所有しているか、どのくらい所有しているかとは関係なく、すべてが快楽なのです。何も所有していなくてもいい。重要なのは己の生命の品質を向上させることです。仏法を学ぶ人が名利を排斥出来るとは限りません。しかし仏法を理解しなければ、お金があってもなくても、すべてが苦になります。 私の人生はとても楽しいです。孤独のとき も 、困難に出会ったときも、私は「上には上が、下には下がいる」というような考えを持つことはありません。私は人と比べることも、過去と未来を比べることも、自分自身と比べることもしません。そして私はこう思います。「今の私はなかなかいい。私はまだ生きていて、呼吸している」と。また、常に自分に言い聞かせます。「全ては、最後には結果がある。すなわち、いかなることでも終わった後振り返ってみれば、どうにかなっているということです」。 これは、私が常に言っているように、どんな問題にぶつかっても「它と向き合い、它を受け取り、它を処理し、它を手放す(它は「それ」の意)」方法を用いるのです。過ぎ去った事は既に過去であり、未来はまだ来ていないのです。今私が出来る事に取り組み、一生懸命努力し、解決出来る事は解決し、解決出来ないならそれを受け入れるのです。このように私は生命に直面しているからこそ、終始とても楽しいのです。 司会… 私達は満足する事も、恩を感じる事も、今を把握する事も知っています。しかし、やりたくても実力が伴わないと常に感じています。そこで、修行する上でいくつか具体的な提案をして頂けないでしょうか? 法師… 一般に私達は念仏・誦呪・礼拝、或いは仏法と関係のある事柄を討論することこそ修行であると考えるようですが、実は気持ちを素直に持ち、欲張らず、欲しがらず、はっきりとその時を生きることができれば、何をしてもそれは修行と言えるのです。 したがって、 修行はただ外見的な行為だけではなく、私達の心を使って体験するのです。心を常に明るく安定させれば、私達の行為にずれはなくなります。自分に快楽をもたらすばかりでなく、他人にも安全と安定を与える、これが修行です。たとえば家の中で、妻や子供たちを楽しませ、自分も楽しいと感じることが出来る、これも修行なのです。 心は常に明るく安定させ、環境によって変わらないことが大切です。つまり、何か問題が起こった時、環境の変化によりすぐに心が動かされないように心がけます。最も簡単な方法は念仏と誦呪です。もし禅修の方法を用いるなら、最も基礎的なものは観身受法(身を見て受ける)という方法で、例えば観呼吸と観心があります。観呼吸とは鼻孔から空気が出入りしている感覚、観心とは己の心が感じることを観察することです。意識を体の感触と感受に集中させれば、心は安定してくるでしょう。 リー… 基本的に私も生活に禅を取り入れた修行方法を採用しています。私は仕事の待機中や、飛行機や車に乗っている時は、いつも誦呪か念仏を唱えています。このような時、同じ一時間でも、ただ待っているだけでは時間が過ぎるのはとても遅いと感じますが、誦呪や念仏を唱えていれば、時間はとても早く過ぎて行きます。これはすべて、心が安定しているためだと思います。 それから、時には生活の中で一人一人の顔を見てみると、生活の無常がもたらす喜怒哀楽が、皆の顔に表れていることに気づくでしょう。無常とは、ただ仏経に書かれる道理にとどまらず、私達が仏法を学ぶことと日常生活とを別々のものと見ているからにほかならないのです。 実のところ、生活とは修行であり、修行とは生活であります。仏法はこの世から離れておらず、また物事をどう見るかによって、貴方は毎日の生活のあらゆる事から仏法を感じることができます。物事自体は変わることがなく、またそれは良くも悪くも変わらず、ただ貴方の情緒によって絶えず変化しているのです。 今のこの時を把握し、菩薩の道を成就する
司会… お二方のうち、お一人は宗教界、お一人は武術界と、全く違った分野に属していますが、武術のトレーニングにしても、宗教の学習にしても、十分な意志を持って自分自身を鍛える必要があります。お二人は、長時間に渡って、鍛錬をされてきたわけですが、その過程をお聞かせいただけますでしょうか? 法師… 私は何も鍛錬していません。ただ私は初志を貫き、決して諦めなかっただけです。「初志」とは、最初の願い、或いは人生最初の方向と目標を言います。 私の人生の目標は、十四歳で出家した時に確立したものです。それは、僧侶の役割をしっかり果たすという一つの目的です。どのような僧侶になるべきか、今まで予想したことはありません。全ての人に福徳と因縁がありますが、一部は過去がもたらした福報で、一部は自己の今生の努力と環境や周りの状況によって決まっています。したがって、何かを始める時に、自分がどの程度までできるかを、口で断言することはできません。ただ、困難な状況や名利の誘惑にぶつかった時、それにどのように向き合い、どのように対処するべきかは考えることができます。私のような出家の身分から言うと、女性の誘惑にも気をつける必要があります。私はこれらの誘惑を一つの赤信号だと見なし、この問題に触れないよう注意しなければなりません。これらが私が守り通りしていることです。 リー… 私は常に変わっています。八歳で武術を習い始めたとき、武術とは何か全く理解していませんでした。先生は私に才能があると言ってくださったので、練習に励みました。両親にチャンピオンになるように言われたので、努力してチャンピオンになりました。後にチャンピオンには賞金があると気づき、賞金があれば家族を養えるので、私も喜んでそれに励んでいました。 映画の世界に入った時、武術とは中国の文化であると考え、しかもどんな種類の宗教・政治理念や皮膚の色でも、みな健康な体が資本であるということに気づきました。そして私は映画で武術を全世界に広めたいと思いました。 しかし後になって、私は改めて気づきました。人がもし強い体だけを持ち、自分の心の障害と煩悩を解決できなければ、かえって体に害になります。だから今私は美しく健全な心こそ最も重要であると思っています。人は一つの健康な心、一つのすばらしい理念を持っているからこそ、身体・家族・社会にとってはじめて利益をもたらすことが出来るのです。 司会… 武術から仏を学ぶ過程において、生命に対して体得したことと乗り越えたことをもう一度お話しいただけますか? リー… 幼い時に全中国の武術の「全能」チャンピオンになりました。しかし、武術にはすでに何千年の歴史があり、私はどうして全能なのか?といつも疑問に思っていました。そこで、私は様々な武術の師匠を尋ねましたが、師匠を訪ねる度に、「一生かけて学ぶ必要がある」と言われました。このままでは、本当に全能になるまでには、何度生まれ変わっても達成するのは困難だと思いました。そこで私は師匠を尋ねることをあきらめ、自分の心に問いかけ、理解と理論から武術を探ることにしました。 武術の話となると、自然と陰陽学に触れることになります。陰陽を分かりやすく言えば、私達の相対的な世界です。後に陰陽の相対的な理論を自分の生活の中に当てはめてみたら、この世界の各種の矛盾と困難に対して、基本的な理解が生まれました。私が仏を学ぶ以前に、すでに相手の立場に立って状況を見ることができていたので、その後の考えは更に広がりました。これは私のより良い人生に、大きな影響を与えています。 しかし、更に大きな突破口と言えば、やはり正式に仏教徒になった後でした。私はもともと 1997 年に演劇業界を引退し、修行に集中し、仏法に深く入ろうと思っていました。しかし私の師は、断固として私の引退に反対し、これからもずっと映画界で頑張って欲しいとおっしゃいました。彼は私には大きな責任があると言っていましたが、その時、私はこの責任が何であるかは分かりませんでした。仏法を学んで 5 年が経過したとき、多くの徳ある名師にお会いしましたが、その時、私は皆と喜悦を分かち合うべきなのだと、心の底から感じました。 私にはとても素敵な家庭があります。各映画の評価は良かったり悪かったり、まあまあだったり、それぞれ違った評価がありますが、仕事の結果には、特にこだわっていません。重要なのはその過程であり、そのため私は毎日楽しく仕事に向き合っています。この様に仏法は私の人生に大きな影響を与えています。 法師… 伝統の認識においては、修行とは出家であり、寺に篭り木魚を叩き、座禅を組むことだと思われています。これも確かに修行であることに違いありませんが、実際には修行は解脱の道と菩薩の道に分かれています。解脱の道というのは、己の修行で煩悩を断ち切り、世間の煩悩から解脱することです。この種の修行は長い時間を必要とするので、人の群れを離れ、賑やかな社会環境から離れなければなりません。 もう一つは菩薩の道で、即ち菩提心のはじまりです。大きな慈悲の心で菩薩の道を学ぶことは、難しそうですが、多くの誘惑・刺激・混乱という大きな環境の中で、自分を把握し、環境の影響を受けず、逆に環境に影響を与えるということは本当に容易ではありません。 リーさんの場合は、恩師が仕事を続けるよう望んだわけですが、その修行はまさに菩薩の道であります。しかし映画界で活動する目的は名でも、利でもありません。また、自分の影響力を通して皆に仏法伝え、仏法で己が助けられればと思います。 仏法は確かに良いものですが、弘法する人がいなければなりません。弘法とは体で模範を示すこと、或いは我が身を持って説法することです。自己の生活形態と心で、また、人と付き合うときの態度で取り組みます。これは最も容易に人を感化するもので、まさに真の弘法と言えます。 現在中国大陸の仏教徒は多くありません。しかしリーさんはアジア、特に華人社会で大きな影響力を持っています。同時に、西洋人がリーさんの映画を見た時、彼が仏教徒であると知り、彼の影響を受けることになるでしょう。ですから貴方の任務は、この世界の人々に弘 法利生( 正法を弘めて人 々 を救済 する ) をすることです。 司会… 聖厳法師は四十歳の時、非常に重大な決定をされました。法師は当時何を決定したのか、当時の考えお話し頂けますでしょうか? 法師… 私は三十九歳のとき日本へ留学することを決めました。日本に行ってから、経済支援がなかったのですが、僧服を脱いでまでアルバイトに行きたくなかったので、いつ台湾に戻ってもいいという心の準備をしていました。このような状況で一年あまり耐え忍び、四十歳のとき修士の学位を取得し、台湾に帰る準備をしていました。 しかし指導教授は私を激励し、このように言ってくださいました。「過去、日本人が中国へ渡り仏法を学ぶのはとても大変でした。現在、中国仏教の人材がとても少ないので、貴方は全ての研究を終えてから帰るべきです。そうすれば、中国仏教が起死回生できるのです。このまま続けて勉強すれば、貴方ならすぐに博士の学位を取得できるでしょう。金銭のことも生活のことも心配しないで下さい。どうしても必要な場合、私は貴方を連れてお布施を請うてもいいと思っています。」 当時、教授がおっしゃった一言は今でもまだ深く私に影響しています。それは「道義心の中に衣食は有り、衣食の中に道義心はない。」という言葉です。この意味は、菩提心、願心、衆生への奉献心さえ有れば、衣食生活に問題はなく、物質だけを追い求めるなら、願心と奉献心は生まれてこないということです。 司会… 過去とは幻で、未来とは妄想です。ですから、今こそ把握出来るのです。リーさんが今、最もしたいことは何でしょうか? リー… 過去の中国の武術映画のヒーローはみな全知全能で、暴力でもって暴力を制しています。しかし私は本当のヒーローは暴力でもって暴力に反抗するべきだと思います。この理念、即ち私が仏法を学んだ心得をどのように映画の中で表現するかが、私のずっとやりたかったことです。しかし現実社会でこの理念を推し進めていくことは非常に困難であることも承知しています。ただ仏法で云う「一心に念仏を唱える」ことを「一心に物事に没頭する」とも言うことができます。その言葉によって私達があることに直面した時、一心に専念し、結果の良し悪しを推測すべきでないことに気づくのです。ですから、私はできるだけのことはしますが、私の全ての映画が仏教の思想を満たさなくてもいいと思っています。ただ、私は世界各地に行く機会を利用して、様々な状況やメディアにおいて、仏法が私に与えてくれた影響を皆と分かち合っています。 司会… 対談も最後になりましたが、お二人が観客の皆さんに一番伝えたいことは何ですか? リー… 人それぞれ 違う宗教を信仰していますが、実際仏教を信じても信じなくてもいいし、全く無宗教でもかまわないと思っています。なぜなら最も重要なことは「諸悪莫作、衆善奉行」であり、私はどんな社会においてもこの言葉は通用すると思うからです。 法師… 今日この対談において、リーさんの仏法を学ぶ過程と心得から、身をもって仏法を学ぶ良さを伝えて頂きました。仏学とは迷信ではありません。その良さは私達自身が仏法を用い自己をも他人も助けられるということです。自己を助けることを修行と言い、他人を助けることを弘法と言います。リーさんのお話から、私達はもう一つの違った角度から仏法を見、正確な仏法とは何かを認識できたことに感謝しなければなりません。今日はとても価値と意義のある対談ができました。ありがとうございました。
質疑応答
質問… 名師と明師にはどんな違いがあるのでしょうか?大乗菩薩の角度から見て、有名である以外に、更に智慧があってこそ、衆生に対してより大きい利益を与えることができるのではないでしょうか? リー… 仏教徒にとって、師、先生は非常に重要ですが、名師とは俗世間の尊称に過ぎません。仏教には名師や高僧などの名相もおらず、重要なのは師弟間の互いの心との通じ合いです。ですから、名師に執着しない事です。どんなに有名な法師でも貴方を仏にすることはできず、私達に心の道を示してくださるだけだからです。やはり自分の力で修行しなければなりません。 今回、聖厳法師にお会いしたのは、私は五年間修行してきましたし、智慧ある法師に、私の歩いてきた方向と道は正しいかを指導していただき、どこを注意し、どこを変え、何をすればいいか、教えを請いたかったためです。 法師… 名師或いは明師を求めるというのは、私達凡人の執着で、有名な人が必ずしも高明という訳ではなく、また高明な人が必ずしも有名ではないことを知っておかなければなりません。そして、人との間の縁を重んずるべきで、もし縁がなければ、たとえ貴方の目の前に一人の明師が現れたとしても、気付かずに通り過ぎてしまうかもしれません。いわゆる「師父の手引きで入門しても、修行のいかんは個人にある」という事です。修行の成就は師父がどれだけ手助けできるかではなく、顕教でも、密教でも、何を学んだかに関わらず、自分の努力が非常に重要なのです。努力を怠るなら、良い老師が居ても役には立たないのです。
質問… 仏法に触れたばかりの人は、どのように善知識(人に正法を説いて仏道を導く高徳の人)を選ぶべきですか? 法師… 善知識を選ぶには二種類の状況があります。一つは善知識が貴方を選ぶ、一つは自分の縁でもって善知識に出会うということです。もし業障がとても重ければ、たとえ善知識が貴方の目の前に居たとしても、その人は明師だと知らずに、通り過ぎてしまうかもしれません。もし貴方の善の根が厚いなら、苦心して探さずとも、明師は自然と貴方の目の前に現れるでしょう。 どのように明師を探すのでしょうか。最良の方法は、まず自分の罪や過ちを悔い、多く仏を参拝し、多く人付き合いをすれば、業障が減り、善の根が厚くなり、因縁は自然と身を結びます。ただ明師を探したいと頭で考えているだけでは、探し出すことはできません。たとえ探し出せたとしても、恐らくただの名のある師であり、あまり役に立つとは思えません。 リー… 私は善知識を探す前に、深く仏法を理解することがより重要だと思います。例えば、たくさんの仏法の書籍を読み、それから出会う老師の思想と立ち居振る舞いが仏法に合っているかどうかを判断します。ただし、修行の過程で、師父が各種の方法を用い貴方を啓発し、修行の方向を示してくれるのに気付くでしょう。ただし、もし貴方が誤った理解をするなら、それはもう善知識の問題ではなく、貴方自身の問題になります。
質問… 武術の精神と修行の関係を教えてください。 リー… 全ての物事は基礎から始める必要があります。武術における最高の域にルールはありませんが、もし学び始めにいきなり最高い水準に行こうとルールなしの域まで手を出せば、失敗してしまうでしょう。武術を学ぶことは家を建てるようなもので、基礎をしっかり築き、手足体からゆっくりと心の感受を把握することが大切です。身体の基礎を築き、多くの武術を最後まで練習を重ね、宇宙万物を胸の中に収めることで、自ずと独特の武術が形成されるのです。 これは一つの過程であり、容易に失敗しない為にも、初めから最も高い所に飛ぶ事はできません。身を持する事も基礎から始めなければなりません。社会において人として最善の努力をすることを始め、そして、ゆっくりとたくさんの本を読み、たくさんのことを聞き、心の向上を求めるのです。 法師… これはまさに仏法中の「有相」と「無相」のようです。「無相」を話すとき、必ず相対性の「有相」が出てきます。有相があるからこそ、貴方は無相を体験できるのであり、これは仏法の「空」といいます。 その為、「無相」は目で見たものが見えない、耳で聞いた音が聞こえない、或いは食べ物を食べていないと言う、こういう事ではありません。即ち見る・聞く・嗅ぐ・味わう、または身体が如何なるものに触れて起こる全ての現象において、これは一つの暫定的な仮相であり、実際に存在するものではなく、永遠に変わらない存在でもないのを心の中で直ちに認識していることです。そのため、有に即して空に即する、有相に即して空相を知るということを「無相」と呼びます。このようになることができれば、完全に世の中と仏法を会通して見ることができますし、一つの事を理解すれば、いくつもの事を理解するようになるのです。 司会… 「無名が無明を問う」のテーマについて、今日のジェット・リーさんと聖厳法師との対談を通して、かつての固執と自己の中に隠された智慧が開かれるよう願っています。最後に、自分の幸せを祈り、また皆さんの幸せをもお祈りしましょう。 |








