| 聖厳博士自叙伝(勉学と思想) | |
自序
私は身体が病弱だったので九歳の時やっと入学できましたが、十三歳で学校を中退して翌十四の年に山寺の小坊主になりました。受けた基礎教育といえば僅か小学四年のものでした。一般の青少年が中学や大学生活を送っていた時代に、私は小坊主として法会の勤めや従軍報国の毎日で精一杯でした。しかし幼い頃から知識学問の尊さを知った私は、出来るだけ時間を利用して読書に励みました。後に同等の学歴と認められ著作成果によって日本東京立正大学の入学試験に合格し、それから六年の歳月をかけて文学修士と博士号を取得しました。 仏教とは、人心と社会を浄化する知識と方法であることを知る一方、私は常に「仏教の道理は素晴らしいのに、それを分る人は少なく誤解している人が多い」と残念に思っていました。 慈悲と智慧をもって世間を浄化するという仏教本来の姿を、一般の人はそれを世俗化したり、鬼神化したりしていました。それよりはまだましだと思われるのは、学術化されている場合でありましょう。 というわけで、現代の言葉と観点から私は、忘れられた仏教の真義を紹介し、世間を遊化した釈迦牟尼が世を救済する本懐を、この世の中に再現しようと誓願し、世間の群書を読破することに致しました。殊に仏典を専攻し、読書と執筆に絶えず励みました。 私の投稿は少年時代から始まっています。文芸的なものから理論的なものまで、また宗教的、神学的なものもあれば、一般知識となる通俗文章から専門テーマに関する学術的な研究論文です。五十年近くにわたって、中国語・日本語・英語を用いて四十種以上にのぼる単行本が、それぞれ台湾・東京・ニューヨーク・ロンドン各地の出版社で出版発行されました。同時にイタリア・チェコ‐スロバキア・ベトナム諸国語にも訳され、現地で印刷発行されました。 仏教とは、身体をもって実践することを重視する宗教です。人の心に安定をもたらすことで、身体と精神の調和を講じ、自我の人間性を高めエゴを放下することで、他人への思いやりや社会全体を浄化することが望まれます。私はそれを目指して著作の目的を、思想論理と実践方法の徹底と指導に置いているのです。戒行の重視を提唱し、禅の教学や知解の訂正を大原則として進んできました。そして自信も戒・定・慧の三学並重の道に進みました。一般の人がよく称する「律師」「禅師」「法師」にこだわらず、自分のことを常にただの「法師」であると考え、自処しています。それは仏法を以って師とするという意味合いで、最ももふさわしい呼び方と思うからです。 仏教の奥義は高明かつ広大であるため、どのような学問から研究に着手しても、仏教は世界文化史上の一大宝蔵であることを否定することはできません。仏教徒の教育レベルと学術的な地位を高めるためには、まず私自身が仏教の教育事業を広め、仏教学を研究すべきだと痛感しました。そのためには私は相次いで中国文化大学や東呉大学の教授を担任し、また国立政治大学の招きに応じて博士論文の指導教授を担当するようになりました。其の外に専ら仏教学の学術的研究と人材教育を成就しようとするため、台湾教育部(文部科学省に当る)に立案して「中華仏学研究所」を創立しました。特筆すべきことは民国七十九年(西暦一九九〇)から二、三年毎に「中華国際仏学会議」を開催し続けていることです。「伝統仏教と現代社会」を永久のテーマとして、世界中の全仏教学領域における優秀な学者を集め、あらゆる仏教学に関する専門分野で会議討論による学術論文を通して古物今用を実現することを目的としています。 この国際仏教会議の御縁をきっかけに、アメリカのテンプル大学に任教する名教授傅偉勲博士と米籍のカサン教授と知り合いました。お二人には国際会議に二回にわたり出席していただいた上、多大なアドバイスを受けました。殊に二回とも会議終了の直後に、全部の論文原稿を中・英文で別々に編集し、後で推薦されて台北の東大と緑林の二社に出版させ、世界中の学術会で注目を浴びました。 この度、傅偉勲博士は、台北正中書局の編集長鍾恵民女史の依頼に応じ、≪当代学人学思歴程≫叢書の原稿選定を担当に司りました。傅博士に選ばれて、仏教界、または宗教界の学者を代表し書稿を提供することは障害の光栄であると感じました。多忙のため私の原稿は序言なしで提出しましたが、今度出版に当たって編集長の属託に応じて中国大陸の訪問を終え、香港経由でアメリカへ渡る乗りつぢの時間を利用して、謹んで序を書き上げました。 一九九三年四月二十六日聖厳自序於香港麗奥飯店 私の中心思想 私の読み書きの範囲と性質は、厖大で複雑そのものです。しかし南台湾で大蔵経を閲読した段階から、すでに明確な思想路線はできており太虚大師と印順大師のお二人の大きい影響を受けた事を認めざるを得ません。それから日本で論文を書いている間に、?益大師にも影響されました。前文にも述べましたが、?益と太虚のお二人とも所謂「圓融」、即ち仏法を一体化する中国本位を特色としている仏教観です。私は中国人である限り中国仏教に対して親しみを感じないはずはありませんので、彼らの思いは理解できるだけでなく感服もしています。中国仏教は中国文化の特色を具えるのが当たり前だと思っています。ところが印順法師はインド仏教に基いて仏教の発展を見ているので、いくら自分が中国人であっても中国仏教に依怙ひいきするような理解はされません。印順法師の仏教思想の源は≪阿含経≫と≪中観論≫にあります。すなわち「縁起性空」「性空縁起」を立脚点にして、次いで広くインドの大・小乗仏教及び中国の各宗派の思想を広く摂取したのです。 私は実際の修行において原始仏教の精神を取り入れることを主張します。つまり戒、定、慧の三学を均等に重んじることです。私は仏教をより深く探求しようとするときには、戒律問題から着手しました。その後各種の禅数の学に関する禅書を研究し、インドの次第禅観から中国禅宗の頓悟法門に至るまで研鑽を重ねました。事実上≪阿含経≫自体は慧学を闡明すると同時に定学を宣揚する経典でもあります。さもなければ魔境に落ちなくても、世間禅に滞り解脱を得ることはないでしょう。 私は慧学についてもインド仏教の原始聖典の≪阿含経≫から学び始めました。≪阿含経≫に説かれている「此生故彼生、此滅故彼滅」という縁起縁滅の義理が深く印象に残りました。そのために私は仏教の根本教理を解釈し説明する際に必ずこれを原点として説き始め、最後には原点に戻って終わりとするのです。私の弘める禅学は中国禅宗の祖師たちが残した文献によると、如来蔵系統に属する思想です。しかし私はこれを縁起性空の原点に引き戻し、修行方法の指導でも修行理念の疎通でも最も基本としている立場は三法印すなわち「無常、無我、静寂」であることを示しました。もしも三法印の原則から離れれば、外道や常見や断見と混同する恐れがあると思うからです。 私の専攻で、多くの時間と心を書けたことは二つあります。 一つは、大小乗戒律学の探求です。私の最初に書き上げた著作は≪戒律学網要≫でした。第一回と第二回中華国際仏学会議で私が八表した論文もまた戒律と関るものでした。民国五十四年(西暦一九七五年) ≪戒律学網要≫の出版以後私が書き続けてきた戒律関係の文章は、≪学仏知津≫に十六篇≪仏教制度と生活≫に八編が収められています。私は復旧を目指しているわけではありませんが、古制をを尊重しながらも現代に似合う実用性を求めたいのです。たとえば釈尊時代の三帰依五戒は、在家信者の全員が守るべき正しい信念と生活規範であったことに気づきましたが、中国に伝来してから五戒は守り難い条文となりました。その他にも沙彌十戒と八関斎戒はもともと簡単に実行できるのもなのに、中国ではかなり困難になりました。釈尊時代のインドの比丘・比丘尼の戒は実行できないほどに厳格なものではありませんが、中国に来ると清浄に持戒できる僧尼が幾人もないくらい厳格で守り難い戒律だと思われるようになりました。菩薩戒とはもともとは幅広く融通性のあるものでしたが、中国に伝来してから版本の違う菩薩戒経の要求によって徒に形骸化した条文となりました。そこで大・小乗戒律の制定原則と実施順行の精神を把握することができたら現代生活に生かすことも無理ではないと思うようになり、それが私の戒律研究と著作の動機となりました。 その二は、私の博士論文テーマに関わる明末の中国仏教です。当時の特定人物と特定テーマに対する研究は、歴史的なものでありまた思想的なものでもあります。現代化した治学方法による中国仏教の研究は、先進国である日本と欧米の学者たちが著したものが相当な数に上っています。しかし彼らが主に着眼しているのは中国古代の資料です。近代の明清仏教から二十世紀に至るまでの現代仏教を研究する人はまだ少ないのです。実際には明末から清初にかけて、中国仏教界では大師と称される僧俗の学者が多数輩出していました。彼らは現代中国仏教の成長と存続に大きく影響を与えました。禅・戒・浄土・天台・華厳などの思潮を含むため義理の学にしても応用の学にしても、伝統的な立場から現代中国仏教を見ようとする場合、多かれ少なかれ、明末の仏教思想からそれらの消息を除く事ができるのです。私は≪明末仏教研究≫の序文に「この論文を発表するまでは、明末の仏教は学会からの開発を待つ処女地だった」と述べました。現在アメリカと台湾国内には明清仏教に重点を置いて研究する学者はいますが、関係資料が非常に豊富であるため、なお数多くの研究課題を持っています。私のなした事は単なる鯛を釣るための蝦を投げ出したに過ぎません。 私が宗教学の探求に興味を持ったのは、二十五歳から三十七歳の間の事でしたが、民国五十七年(西暦一九六八)以後それを手放したのです。 禅学についての学術研究にはあまり手をつけていませんが、ハーバード大学教授Kenneth Kraft博士の招請で彼が編集するZen Tradition and Transition(禅の伝統と変遷)に、論文<坐禅>を発表しました(一九八八年米Grove Press出版社)。それは歴史の立場から座船の変遷を論じたものです。また≪中華仏学学報≫にも<禅と禅宗><壇経の思想>と題する二論文を発表しました。しかし私は禅学を研究テーマにする専門家ではなく、ただ禅宗の資料を用いて禅法の修行を伝えるに過ぎません。中英文で禅に関する著作を十数冊も出版しましたが、それは全て実用性に着眼して禅の観念と禅の方法を指導する本でした。 その他に≪中華仏学学報≫に<密教の考察>及び<浄土思想の考察>を発表しました。留学中にも<天台思想の一念三千>などの論文を書きました。近年さらにチベット仏教中観応成派の思想に注目し、民国八十一年(西暦一九九二)秋≪漢蔵仏学同異答門≫を出版しました。これだけの著作はあくまでも副業であって、私の専門分野ではないのです。 全体から言えば、私の思想はどの宗派学派にも属していません。ある経典、論典あるいは中国の祖師のある著作を講釈する時には、決して原始仏教の観点でそれらを解釈しようとしません。それらの経典や論典に従って話しを展開していくだけで、要するにそれらの経典や論典の考え方で言おうとしている思想を紹介することです。たとえば華厳の「五教章」を講ずるには、決して≪阿含≫や≪中観論≫の観点で批判することはしません。≪起信論≫や≪圓覚経≫を講ずるには唯識学の観点で説明することもしません。そして≪成唯識論≫を講ずるには、如来蔵思想と混交しないように心がけるのです。 今までの私は無宗派であると言ってもよいでしょう。私のことを禅師やどの宗の法師などと名乗らないのです。もしも我々が仏法の源流を解明し仏陀時代の根本思想に返ることができるだろう、仏教全体に溶け込んで各宗各派の各種仏教思想を理解し同情し承認するようになり、宗派の間に存在する相違へのこだわりに影響されることもなくなるでしょう。言い換えれば町沿いの交差点に佇んで、町景色を楽しく眺めるような心情こそ私の中心思想であると思います。
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私はごく平凡な僧侶です。民国十九年(西暦一九三〇)冬江蘇省南通県の農村で生まれました。翌年長江の大水害によって荒らされたわが家は赤貧となり、一族の移住に随ってわが家も長江の南岸に移ることになりました。