因果因

暁峰さん、紹介ありがとうございます。

本日は、この素晴らしい因縁のお陰で、大善知識の皆様と仏法を談論することができ、大変光栄に思います。

現在中国学術及び宗教界の指導者にご同席いただいています。華岡の高層学者専門家の方々、暁雲法師及び周邦道教授のように、仏学の研究及び仏法の修持をさている高明な方々の前で、この講演をするのは大変恐縮ですが、今回は、皆さんのお話も伺いたく参りました。

今回のように各宗教学者が一堂に集まり、宗教と道徳問題を討論するのは、台湾に於いては初めてのことで、華岡でのみ可能なことだとおもいます。これは中国儒家が受け入れる精神の表現です。華岡に各宗教の研究所を設立することで、各宗教の学者が一堂に集まれ、相互に理解し合い、相互研究をし、それによって長所で短所を補い、共に人類の道徳生活のため最大の貢献をすることでしょう。

二年半前、私は政府の招待を受け、海外学人国家建設研究会議に出席し、暁峰さんを訪れた際、暁峰さんはこうおっしゃいました。仏教は、僧林の生活規範を、大学の制度教育と合わせるべきで、僧林は大学近くの区域に付設し、僧林中の優秀な僧尼にはその修道の生活があり、出家者の宗教情操を育てます。また、正規の大学教育により、出家者が社会後見できる条件を育てるます。この理想は、今まで実現していませんでしたが、それは将来事実となると信じます。

 

今日は、「因果と因縁」から、仏学を紹介したいと思います。因果と因縁の意義は、簡明でわかりやすい説明と、深くて広い発揮を行うことができます。因果と因縁の精義が把握できるなら、全体仏教の教義が把握できます。そこで、教団と教理の二つの方向で討議したいと思います。それを一括して、仏教史の説明ができます。

簡単に言えば、因と果は要因と結果であり、いわゆる瓜を植えれば瓜がなる(因果応報)で、同類の因で同類の果が得られることを言いますし、また、因果の間に相当程度の事実関係がない場合もあります。

因果観念は現実の事象から見ると、普遍的な真理になりえます。例えば、因が果を結び、善が善報を、悪が悪報を招きます。中国の伝統思想に、「積善之家必有余慶(積善の家に必ず余慶あり)」、「積不善之家必有余殃(積不善の家に必ず余災あり)」という言葉があり、これらは、「父慈則子孝(親に愛情があれば、子供も孝行する)、兄友則弟恭(兄に友愛の情があれば、弟も兄を尊敬し親しみを持つ)」の原理と同じです。つまり、良い因を植えれば、必ず良い果が得られるのです。

しかし、世の中には確かに、親は愛情があっても子供は親孝行せず、兄は友愛の情があっても弟は兄を尊敬し親しみを持たない人もいます。また、積善の家が家を滅ぼす災難に遭うこともありますし、一生善を行い徳を積んでも、臨終に際して完全な死体として存在していない場合もあります。そこで、仏教が中国儒家に対して言う「未知生焉知死(未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らん)」の生死不可知論は、満足できません。

仏教は善悪行為の因果論を、現在の一生から、生前と死後の源と行き先を通り、過去の無量生死及び未来の無量生死まで伸ばします。現在のこの一生は、過去の無量時間の過程と未来の無量時間の過程の連接点に過ぎません。過去と未来を通った生死の解釈によって、初めて明白になります。私達の現前一生の時間は、実に短いのです。

現前一生の現象で、因果の道理を説明したいなら、ある作品の中から一文字を引用し、主観的で自分に都合のよい部分だけを引用することで、正確にその著作の全貌を紹介することはできません。三世で因果を説明すると、因果の道理は十分に揃います。

仏教は、「業感縁起(過去世・現在世・未来世の三世にわたる縁起)」を講じ、「業」は心身の行為が残した慣性作用或いは余勢で、この種の慣性は、ずっと継続し、力がなくなるまで続けることができます。人の善悪行為は、過去の業因が感受した業報であり、未来の業界が生まれる原因です。過去と未来の輪廻を通り、現在のこの一生死間の一切の境遇を見ると、いかなる不合理がまだあるとか、報償が取得できないことを感じることはできません。

しかし、もしも仏教教義に絶対信じて服従できない或いは宗教経歴を通して自ら体験することができなければ、容易に理解ができず、この三世因果の観念を受け入れることはできません。しかし、仏教を合理化することで、仏教の能は因果を説き、衆生を済度することで、巨大な宗教団体を形成し、すなわちそれが三世因果の確立です。

因果の説は、仏教の独占的な言葉ではなく、因果と三世を合わせることで講じ、また、因縁で因果を証明し、それが仏教の特質です。因と果の間の関係は、時間の前後で確立され、因と縁の間の関係は、空間の交互影響の離合で確立されます。因果の形成は、因も果も、主因と助縁を離れることができません。主因は動力もしくはエネルギー源の出発点で、助縁は主因を取り囲み、また新しい物事及び現象のその他要素或いは成分になるよう主因を促します。そこで、因果現象の生滅変化は、必ず因縁の道理を要すると説明します。

因縁は仏教の特質を説き、また、釈迦牟尼仏が成仏した時に悟った最大の法門です。仏教の説く悟境とは、出世間の一切の現象、空間的・時間的・心理的・生理的・物理的・社会的・自然的、全ての現象の起滅転換・因と縁の位置的変動・成分の増減・類別の出入り、また、発生の離合・合離及び組成・解散し、解散して再度組成の現象を悟るのです。

そこで、因縁の観点から世間諸法を見ると、幻有的・暫有的・仮有的・本性は空にすぎず、永久に存在し、普遍に存在するものはありません。そこで、人為的であろうと、自然的であろうと、全ては触覚・知覚・感覚を用いて、思弁の一切、全てが仮相で、真理でないということを認識します。もしこの層の道理を理解でき、修行の方法で自らこの層の道理を証得できるなら、仏教はこれを悟・解脱・断煩悩・離苦得楽と称されます。

因果応報の観点に基づき、仏教は教徒の倫理生活の規範及び教団の団体公約の基準を確立します。在家衆は三帰及び五戒を受ける必要があり、出家したばかりの少年少女、或いはまだ聖人教育を受けていない人は、十戒を受けなければなりません。成年の男衆は二百五十条の比丘戒を、成年の女衆は五百条の比丘尼戒を受けなければなりません。

戒律の作用は、消極面は一切の悪を作らないことで、積極面は一切の善を成すことです。悪業の因を植えれば、悪の果報を受け、善業の因を植えれば、善の果報を受けます。そこで、持戒を行うべきかどうかの功過的観念を出発点として、仏教の倫理生活を受け入れます。依然、有為・有相で、世間その他の各派の説で通っており、持戒の功徳は、この世と天国が存在してはいますが、それでも生死を解脱することはできません。

生死を解脱したければ、必ず持戒し、善悪の功労と過失を意としません。つまり、悪果を恐れるため一切の悪を作らないとか、富貴利楽の福報を求めるため一切の善を行うのではありません。なぜでしょう?衆生を済度するためには、無量の苦逼を苦と思わず、持戒で徳を積むため、無量の福報を楽と思いません。なぜなら、苦も楽も、因縁から生まれた仮相であり、非実相だからです。

因果の説から、仏教はまだ解脱していない多くの衆生のために、有善有悪の報応観を確立し、凡夫衆生に得させ、本性に背かず、悪を除き善を行います。因縁の説から、仏教は仏門に入ってもまだ修行中で相当努力している衆生に、「我」の価値を解釈し、最終的な解脱を得ます。そこで、仏は有因有果を説き、これは凡夫に対して言い、凡夫を目覚めさせ、善のために悪を取り除きます。仏は因縁生法は空・無と説き、一般衆生に対して、彼らを功利観念の「我」執を取り除くよう励まし、解脱の門に進入します。

皆さんは「野狐禅(外道禅)」という名称を聞いたことがあると思います。これは、百丈禅師と一人の堕落した野狐身の禅者の話です。禅者は未達空理によって、「不落因果」を信じ、五百世を狐であると誤信し、百丈点を通じて「不昧因果」とし、狐身となってしまいました。

そのため、全て非現実的な話で、ただ口頭で無相無我、無仏無衆生と言い、切実に修行しない人は、仏家は野狐と称しています。切実に修行し、大きな功徳に執着し、成仏作祖を希望し、法論に転じれることを信じ、無量の衆生を済度でき、将来済度する人、仏家では執着漢と称します。不昧因果の理が必須で、「我」の価値の実在に執着しないことが仏法の正しい道理の所在なのです。

再度、仏教教団史の発展からいうと、仏陀の本懐は有因有果の道徳基礎から因縁生法、自性皆空の解脱境界を出しましたが、既成の教団からすると、教団の純浄を保護するため、どうしても仏陀が自ら決めた生活公約を強調しなければならず、また、仏陀がすでに制したものは主張しなければならず、仏陀がまだ制していないものを制してはなりません。そこで、保守的な教条主義を形成しました。事実上、仏陀が当時制した戒律は、人・事・地・時に因し作られたため、私達は律書の中で見られ、仏が各種の僧尼生活に関する規定に対し、何度も改定を行いました。仏滅の後、仏が規定した仏陀の規定に対して改訂を行う勇気がある人はおらず、異なる社会環境に適応するため、各種の戒律の異なる解釈があります。そこで、仏滅後の数百年、多くの主張があり、部派仏教を形成し、各部は各部の自己の律本があり、強調しないものはなく、自派の見解は最も正確です。戒律の異なる意見について、展開は教理解釈の新旧に分けられました。これは自由思想の大衆部と保守思想の上座部の形成の要素です。

因果の立脚点から言うと、それは有であり、仏がかつて説いた一切の教戒を厳守しなければなりません。因縁の立脚点から言うと、仏の一切の教戒は、人によって異なる、事によって異なる、時空によって異なるであり、異なる様々が教化の方便法門を導き、その中は不変不易の規定定則はなく、さもなければ、人との隔たりを求め、また我への角確執を生んでしまいます、それは皆仏陀説法の本懐ではありません。

上座部各派は、既に各自伝承の律書があり、もちろんすでに変動を経過し、たとえ保守的だと見られても、保守の中に、因縁生法を脱出できず、異滅四態の範囲です。

 

教理発展史上から仏教を見ると、大衆部は般若の空慧の学を高揚させ、上座部の部分から名数分析の唯識法相を出しています。これはすなわちインド大乗仏教の空の二系を構成します。唯識は有を講じ、般若は空を説きます。有は仮相を説明し、空は実相を説明します。もし仮相の分析を行わず、理解で実相の本質を判断しない場合、絶対に仮相の分析で理解を得るのではなく、はっきりした修持中に透悟しなければなりません。また、透悟の前に必ず実相の外の煩悩妄想を理解せねばならず、それが何かを理解した上で、次第に煩悩が無くなり、明心見性となり、実相をよく理解することができます。

唯識法相の学は、仏教の心理学と解釈する人もいますが、心理学は、心理活動の分析から、心理状態の正常化に達することのみを目的とします。唯識は、衆生の生死及び生命の源流と波揚の変化に対して、根源をつきとめ、衆流を断つことで、生死の根本にあるもの、即ちその元をたつことができます。

一般人は、不可知論及び唯物論者以外に、多くの人が人の死後、霊魂が残る説を信じています。それに、肉体と霊魂の関係は、家と人の関係のように、家が古くなったり潰れてしまったら、人は新しい家に引っ越し、また、ホテルと客のように、旅の途中の旅行者は、各地で異なるホテルに泊まることができます。旅客自身は変わりません。

唯識の観点から言うと、永遠に変わらない我相・人相・衆生相・寿者相はありません。衆生の生命の持続は、常に移り変わり、その本体は、見たところ同じであるようです。実は多く異なる業力所感の「識」がはっきり現れるため、心身が絶えず活動を続ければ、業力感染で成した識の内容成分も、それに続いて絶えず変化を続けます。

「我」の観念の執着さえあれば、業力の識があるため、「無我」に達します。−−貪欲・瞋恚・無明・愚痴等の煩悩を受けず心が動揺した時、業力の薫染(悪習に染まる)は存在せず、生命主体の識も存在しません。この時、転識成智と称され、凡夫が聖者に変わります。唯其は生命の主体であり、本来は刹那に変化する仮相であるため、それは徹底的に除かれる可能性があります。

しかし、煩悩の識は、清浄の智であり、煩悩を除くことで、智慧の効用がなくなることはありません。そこで、仏教は断滅論者ではなく、智慧に達した後、智慧と煩悩の区別は存在しません。これも正に実相無相、縁生性空の境界です。

仏教が中国に行き、比較的空を好みますが、インドの般若は空を好みません。天台・華厳・禅の各宗は、皆、空と有の調和論者で、常に心と性を講じます。

清浄心と実性・仏性・法性は、全て空が煩悩妄心を取った後も、菩提心或いは寂滅性があり、唯心論の仏教と称され、心を中心にします。例えば、天台は、一念三千を称し、一心を出さない、或いは、自性弥陀・唯心浄土等の観念を称し、皆空と有の調和論に関係し、真空を講じるのと同時に、妙有を講じます。これは、中国の固有文化により、簡朴を好みます。そこで、煩瑣な名相分析の法相唯識学に対して、広大持久の弘揚を行うことができず、また、中国文化により実際の生活を重視し、一空到底の般若の学に対しても、広大持久の弘揚ができませんでした。

 

因果と因縁の意味は、仏法は難しくて分かりにくいのではなく、ただ因果と因縁の原則、仏法の綱領を把握しさえすればいいと、説明しています。因果を知ることで、三塗悪未知に落ちず、因縁を知ることで、我執我見を除くことができます。知因畏果者が人天善法を修し、徹徹因縁者は出離法を修します。因果と因縁の二重観念は、大乗菩薩道の正信及び正行です。

( 1978 年 2 月 18 日、陽明山中華学術院宗教・道徳研究所の昼食会にて)

 

 

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