| 在家居士がいかに仏を学ぶか |
一、仏学(仏の学問)と学仏(仏を学ぶ) 多くの人は、仏学は理解が非常に難しいと思っています。専門用語・経典・論書・教理思想の派別が非常に多く、仏門の初心者は、前途の遼遠さにため息をつき、何が必要か否かの見極め方を知らず、よく困難に陥ります。仏学研究を専門とする学者であっても、全ての仏学に精通している人を探すことは難しいため、仏学は、一般人にとって確かに奥深い学問と言えます。 実は、釈迦牟尼仏(仏教の教主)は、自身で成仏の方法を証明し、仏法を教えました。彼の方法で一切の人々が修学できるのを目的とし、教義が一派哲学の体系と見られたり、学者達に仏法は一つの学術と見られたり、研究室や図書館にずっと放置された状態だったり、誰かに科学的に研究されることも望みません。そこで、仏教の根本理論から見ると、学仏はあり、仏学はありません。 学仏は、仏教信仰の目的で、ただ学仏だけが、凡が聖に転じ、成仏が可能です。仏学は、研究する一門の人文科学で、私達に仏教が形態と地域上での変遷を告げることが可能です。また思想上の発展において、仏教の教団史と教理史で、各種角度の分析と考察をし、仏教の考古学・社会学・文学と哲学とみられ、人々に信仰と実践の責任を進めることに責任持ちません。 一般人は仏教は理解が難しいと言いますが、それは学仏ではなく、仏学を指すのでしょう。釈迦牟尼仏が当時弟子たちに説いた仏法が、理解が難しければ、彼の教化は各階の層まで普及しなかったはずです。今でも原始の仏経と比較して、釈迦仏陀の教義はとても質素で、一般人の生活行為と密接な関係にあるとわかります。そこで、学仏はとても容易に理解でき、皆さんが思う理解が難しいというのは、仏学を指すのです。 一般の歴史の長い事柄は、積み上げられたものは必然と多くなります。これらを整理し、ここから最も簡単で最も根本的で最も質朴な方法を探し、皆に実行させるのが学仏の仕事です。しかし、探し出すことは普通の人には成し遂げられません。これは私達法師の責任であり、理解が難しい仏学の中から、理解が簡単な学仏の方法を見つけ、多くの大衆と仏教徒達に教えます。 そこで、仏学(仏の学問)は難しく、学仏(仏を学ぶ)は易しいということをはっきりさせる必要があります。仏学の研究は、釈迦仏陀の目的ではありませんが、文学の立場に立ち、仏学に対して学術性の研究を行うことは、依然として激励に値します。しかし、多くの信者にとって、仏経は研究するものではなく、教えに沿って実践するように教えるものです。仏の教義を実践することを、学仏と呼びます。
二、成仏の学習方法 仏教は、もちろん唯物論の宗教ではなく、無神論の宗教です。他の一神論の宗教と異なり、各種道徳生活の教訓がありますが、それは神の愛顧と救済を求めるためであり、信徒達は神の啓示を守ります。経典中に記載される神は、宇宙間唯一の、至上の、極めて大きい、至尊の神であると信じられているためです。人々は神の啓示を受ける以外に、他の選択がありません。そこで、彼らは神の権威を信仰すべく道徳生活の教訓を守り、道徳生活を守るため、神と同等の地位を求める権利がありません。さらに神に天国へ救済要求する権利も持ちません。 これは仏教において異なり、私達の周りの自然環境は、生活環境中の一人一人の業力を感得すると仏教は考えます。つまり、私達が過去の無数の生死の中で、同様同類の行為を行い、その結果、接受と生存との自然環境を形成します。そこで、仏教は宇宙間にいかなる絶対権威を持つ神を承認しません。 仏教は同様に、釈迦仏の説く法信仰の重要性を強調します。成仏の方法は、絶対に正確かつ真実です。しかし、信仰後、仏陀の示す方法に照らし、日常生活中で実行すべきです。そこで、仏教徒は仏陀を崇拝の対象を見なし、生活と密接な関係であり、むしろこれが仏陀の教法と言えます。仏陀の示す生活方式で取り組めば、徐々に一切の心身苦悩の解脱に達することができます。 仏陀は、一切の心身苦悩の中から解脱を得、至高・至大・至敬の超世界と超宇宙の偉大な人格を持ちますが、仏陀の偉大さは、時間と空間で満たされていても、固定の時空位置を占めないため、皆成仏ができるのです。 釈迦仏陀は生前、場合に応じて開示し、機に応じて教化し、説いた仏法は非常に多く、まとめると、戒・定・慧の三項目になります。私達にとっての学仏とは、実はこの三項を学ぶことなのです。世間で学べるものは非常に多く、それらは苦楽相対、有限、得失交替、変動無上のものです。そこで、仏教はそれを有漏の学と呼びます。戒・定・慧は三無漏学であり、この三項を学ぶことで、所得成果の漏失を防止し、引き続き仏の程度まで学ぶことができます。戒・定・慧は、三つの項目に分けられていますが、事実上は連鎖の関係にあります。三つが支えあい、一つも欠けてはなりません。智慧を得たければ、まず禅定の時間が必要であり、禅定の時間を得たければ、まず持戒の宗教生活が必要です。持戒の宗教生活が清浄であればあるほど、程度の高い禅定が可能で、深定の中で、超人の智慧を生むことができます。後ろを振り返り、智慧の判断と選択で、持戒の宗教生活を指導し、禅定時間の深浅や邪正を鑑別します。
三、戒 戒の定義:有所不為(しないことがある)、有所不得不為(どうしてもしなければならないことがある)。それには訓誡・規勧・警告・指導の意味を含みます。通常の人は、仏教の戒は消極的に犯罪を防止するだけだと思い、事実上、それは有所不為(しないことがある)の一点だけと言います。この点はもちろん重要で、大乗仏教の立場に立ち、有所不得不為(どうしてもしなければならないことがある)の積極的な態度も更に重要です。損人利己(他人に損をさせて自分の利益をはかる)と損人不利己(他人に損をさせて自分の利益もはからない)の行為は、仏教徒はしてはならず、これは消極的な要求です。自他を利し、自分を損させても人に利益をはかる行為は、仏教にはなくてはならないもので、これは積極的な要求です。 仏教の初信者は、第一点の要求に達するべきで、仏を信じ仏を学ぶことが比較的長い人は、第一点(止悪)から第二点(行善)まで進展せねばなりません。止悪は自利で、行善は利他であり、自利の基礎を持ち、利他の事業を推進しないのなら、仏陀の目的を達成することができません。戒の内容は、「貪」・「瞋」・「癡」の凡夫の行為から、「喜捨」・「慈悲」・「智慧」の聖者の行為に浄化転換します。 仏教の戒は、出家と在家の区別があり、繁・簡の異なる要求がありますが、在家居士に対する不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒の五条は、五戒と称されます。これは他宗教と同様で、宗教信仰を誓った人は、仏教信仰受け入れ開始と同時に、仏教徒の行為の標準である五戒も受け入れます。この五戒は、「貪」・「瞋」・「癡」の三種の心理行為を戒め、身体の四肢と口舌行為によって行われた具体的な表現です。在家の戒ですが、実際これも一切の仏戒の基準です。仏の人格は完璧で、完璧な人格なくして基礎を作り上げようとしても成仏はできません。そこで、仏教の五戒も人類の道徳生活の共同要求です。 (一)不殺生:仏教の戒殺生は、菜食主義と関係がありますが、菜食主義と異なります。仏教は、動物の肉をあまり食べないか、もしくは全く食べないように勧め、これは戒殺の要求に基づきます。自分の手で殺したのではなく、自分が肉を食べるために誰かに殺すように命じたのではなく、自分が肉を食べたくて誰かが殺したのではなければ、それは禁止ではありません。それに、仏教の戒殺は、もちろん一切の生命のためにあり、愛護の慈悲心を与えることで、主なものは殺人をしないことです。貴方が将来殺人を考えず、殺人犯罪を望まないなら、この殺戒は受持すべきです。 (二)不偸盗:生計を立てる正当な方法や、利潤報酬の合法取得以外に、不義の財を貪らないこと、これが不偸盗の定義です。警策のために、つまらないことに欲を出したり、金銭方面で他人ともめたりしてはいけません。また、公金を着服したり、賄賂を受け取ったり、他人の財物横領等の犯罪を行ってはならず、この戒は受持すべきです。 (三)不邪淫:正式の夫婦間以外に、正常の性関係以外、例えば、近親相姦、他人の家庭を破壊、他人の妻や娘を犯す、社会の風化を乱す、これらの行為はしてはいけません。要するに、男女の性関係を、夫婦間の責任と義務と見なすことが、不邪淫の定義です。家庭の和楽・子供達の幸福・社会の安寧・自身の健康を守る、これらの戒は受持が必須です。 (四)不妄語:これは大小二類に分けることができます。通常の嘘や無益な言論は、小妄語です。名聞利養(名声と利益と供養)のため、自分は聖者ではないのに、聖者と名乗ることは、大妄語です。在家居士が聖者と偽称する可能性はとても低いですが、各位居士もこの戒を受持することができます。また、他人と悶着を引き起こしたり、他人に信頼のおけない人であると思われたり、言葉を選ばない人などにならないよう警戒心を持たせます。そこで、この戒も受持すべきです。 (五)不飲酒:酒自身は罪悪ではなく、飲酒する人も悪人とは限りません。至っては、世界には、酒を人と神の媒体とする宗教が多くあります。禁酒は仏教の特色の一つです。原因は、飲酒により人の精神は混濁し、多く取りすぎれば、獣のように狂ったり、泥状態の如く愚痴ったりするためです。 仏教は智慧を求めることを強調する宗教で、酒性と智慧は反するため、禁酒を主張します。事実上、飲酒しない人は、常に頭がはっきりとしています。今日の社会において、落ち着いてはっきりした頭脳を少し持てば、成功の可能性が増えます。車に乗る前には飲酒はせず、重要な会議の前には飲酒せず、重大な戦略や方策を決める前には飲酒しないことから始め、酒を断ってみてはいかがでしょう? 戒・定・慧の三無漏学に対する、三毒と呼ばれる貪・瞋・癡は、この三毒に害されることで、善行が難しく、例え善を行ったとしても、長く持たず、純潔の程度に達しません。三毒は三個の漏れ穴の如く、善行の功徳を漏れ落とし、この大きな漏れ穴を補修する唯一の方法は、三無漏学の修学です。最初に修学の処から取り掛かり、五戒を持し、少なくとも三毒の毒炎を押さえ、その後、禅定と智慧の水で、三毒の火を徹底的に消します。 五戒は、五項の悪行を戒除し、五項の悪行と三毒の相互関係、すなわち、身・口・意の相互関係を、一枚の図表で説明できます。 貪・瞋・癡の三種の心理行為から、身と口の動作として現れるのが、五種悪行です。五戒の功能は、外見の身と口の動作から禁止し、三毒の心理活動で、外への表現の機会を得ず、同時に禅定の工夫を用いて、それを平静にさせます。また智慧を用いて観察・分析を行い、次第に喜捨・慈悲・智慧の活力に変えていきます。これは戒の定義で、「有所不為(しないことがある)」は「有所不得不為(どうしてもしなければならないことがある)」の程度です。その前後関係も、図表で説明できます。 四、定 貪・瞋・癡の特性は、心理活動によって身と口の動作で表現し、更に身と口の動作によって、人・事・物等の対象に当り散らします。戒の功能は、身と口の動作を制限し、定の功能は、外に向かって散漫した様々な心理活動を内心に戻し、安静にさせて物我合一に至り、さらに物我双亡の心理状態に至ります。しかし、定の工夫は、日常生活中から始めるべきです。そこで、定の修学は、九つの要点と二つ層別に分けられます。 (一)第一層別−−通常の生活で努力する 1 堅固な信念 何を行うのも、信用がないなら立場がありません。自己の立場と能力を理解した後、誰ができて、誰ができないかが明白になるでしょう。できないことは、妄想してはならず、できることは、自信を持ち、勇敢に突き進むべきです。同時に、するに値するか、する必要があるか、その事自身を考慮し、他人の忠告も聞きます。その事に対して理解が深いなら、必ず完成させなければなりません。完成できることで自信が生まれます。自信を持ち信念を信じれば、一切の難関を突破でき、不撓不屈に自分の事業に取り組めます。至誠をもってすれば、感動しないものはなく、堅固な信念が、非常に強い力量を生むことができます。 2 冷静な思考 仕事や任務につく前、しっかり準備すべきです。《中庸》には、「前もってすれば成功でき、前もってしなければ成功できない。」と書かれています。通常、いいスタートは、成功の始まりと言います。いいスタートのために、入念な準備が必要です。準備の段階で、実行のステップと発生する可能性のある状況を考慮すべきです。仕事をする過程に達したら、いつでも細かく観察し、欠陥を点検し、誤りを修正します。良い状況は更に良くなるようにし、悪い状況は改善させるようにします。この種の判断力と決断力は、皆冷静な思考と関係します。 3 落ち着いた言行 人品と徳性があり、尊敬と信頼を与える人に見られたければ、言論と行動に慎重に取り組まなければなりません。よく考えないで軽々しく狂言を発したり、行動する人は、良い評価が得られません。もちろん偉大な事業を成就させたり、崇高な社会の地位を得ることもありえません。 4 精神の集中 何をするにも、精神を集中していないなら、例え成し遂げられたとしても、傑出はできません。中国には、「三百六十行、行行出状元(どんな職業でも優れた人物は出るものだ)」という諺があります。この意味は、仕事と職業には、高低も善悪の区別がなく、仕事か職業において、全心全力で取り組み、心身全体を集中していれば、きっとこの業界で最も傑出した人になれるということです。 (二)第二層別−−座禅の原則と秘訣 1 堅信修行の方法 実際に座禅をする前、学んできた方法に対して、絶対の自信を持つべきです。仏陀が私達を騙したりしないと信じ、指導する座禅の老師を信じます。自ら経験を積んだ人は、その道に詳しく、老師に従えば、絶対に問題はありません。もちろん、誰が信頼に値する老師であるかが重要で、その人に対する確信が足りず、指導方法に対して半信半疑なら、貴方に対して有害無益なため、このような人からは学んではいけません。 2 思考修行の状況 修行禅定は、点検と考察の工夫が必須です。毎回座禅する時に、生理と心理上の現象の発生に注意します。あるものは貴方を心地良くさせ、あるものは辛くさせ、あるものは喜ばせ、あるものは恐れさせます。これは、座禅初学者の身上に現れる可能性が高いです。この原因を十分理解するのが大切ですが、理解していなければ、いつでも老師の指導を受けてください。老師は貴方を助け、安心して修行が続けられます。 3 調身 定の工夫の表現は、身・口・意の三方面において、身定・口定・心定と称することができます。この三定の目的に達し、それらの「調(調える)」に着手します。調身とは、姿勢を調えることです。 4 調息 座禅時の呼吸は、細く、長く、均等に行います。 5 調心 外に向いた衝撃や動揺・散乱の心念を抑えるためには、まず心を調えます。このような工夫は、口で言うのは容易ですが、実際に得るのは容易ではありません。 一般人は、第二層の座禅の工夫から、第一層の四点の功力を得ることができます。第二層中の工夫でなければ、第一層の功力は強くなりません。それらを二つの層別に分けて説明しましたが、実は一体の両面です。同時に、禅を学ぶ人によく強調しているのは、静座は三つの有利な点があります。身体を健康にさせ、頭をはっきりさせ、人に開悟させることができます。入定と開悟は、もちろん容易なことではありません。少なくともそれは身体を強健にさせ、心力を堅実にさせ、努力する事業を助成します。 「座禅の心得」を紹介します。静座を学びたい方はご参考ください。
五、座禅の心得 (一)座禅の準備 1 座布団 正方形の大きくて柔らかいもの、及び円形で高さが 4 寸の座布団各一つ。 2 場所 清潔・寂静・厳かな室内。 3 時間 精神が満ちた朝、起床し顔を洗った後が最適です。毎日定時に行い、毎回 20 分から 4 、 50 分行います。暴飲暴食、性行為、激しい運動の後、疲れて眠い時、正午・深夜は、座禅は適しません。 4 飲食 毎回の食事は腹八分目にし、食後 30 分程休憩した後、座禅を開始します。 (二)座禅の方法 1 調身法 (1) 座法:結跏趺坐(けっかふざ) (a) 吉祥座 − 右足を左腿の上に乗せ、左足を右腿上に乗せる。 (b) 金剛坐 − 左足を右腿の上に乗せ、右足を左腿上に乗せる。 半跏趺坐 − 右足を左腿の下に置き、左足を右腿上に乗せる。 交足坐 − 左右の足を随意に交差させて平らに置く。 椅子坐 − 椅子の上にきちんと座り、両足を自然に垂直に置く。 日本坐 − 両膝を地面につけ体を上にまっすぐ、両足を後ろに真っ直ぐに伸ばし、足のつま先を重ね、両足の上で腰を真っ直ぐにします。 (2) 手式:両手の手のひらを上に向け、左手を右手の上に置き、両手の親指を軽く相接させ、中間を丸形にします。 (3) 身姿:左右に数回振り動かし、座姿の安定を確定し、背筋をぴんと伸ばし、あごは内側に締めます。 (4) 視線:目を閉じる − 精神が満ちている時。 正面一メートル先もしくは壁の一点を注視する − 少し意識が朦朧とする時 閉目と注視を交互に行います。 2 調息法 腰を下ろした後に数回深呼吸して、最後に一度下腹部に吸い込み、通常の呼吸に戻します。 3 調心法 数息観は調息後一から十まで数え、何度も黙って呼吸を数えます。 出息観 入息観
六、慧 慧は、知識の範囲の「認識心」と「検択力」を含み、知識は慧の内容をカバーしないため、知識から慧の領域に進みます。仏教は知識の宗教ではありませんが、知識を使って智慧を高める宗教です。なぜなら、世間の知識の肯定以外に、超知識の「悟」の経験を更に重視することによって智慧を得、智慧は、悟から得た超知識の「認識心」と「検択力」です。しかし、慧の獲得は悟においてですが、慧の追求は、依然として知識を離れることができません。それには、「聞」・「思」・「修」の三つの一連性のステップがあります。 ( 1 )聞慧−−虚心学習 仏教とは成仏の方法を修行し、これを称して学仏といいます。煩悩が絶えない以前の人を、「学地」にとどまる「学人」と称します。また、毎日「衆生無辺誓願度(地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するという誓願 )、煩悩無尽誓願断(煩悩は無量だが、すべて断つという誓願)、法門無量誓願学(法門は無尽だが、すべて知るという誓願)、仏道無上誓願成(仏の道は無上だが、かならず成仏するという誓願 )」を唱えるべきです。つまり、成仏の願望があるなら、一切の煩悩を断ち切り、無数の衆生を救い済度します。どう煩悩を断ち、どのように衆生を済度するのでしょう?様々な方法を学習しなければいけません。仏教徒が成仏できなければ、学習します。最初に学習に興味がない人であっても、仏教に対して信心が生まれれば、学ばないはずがありません。 耳と目などの官能を使い、聞慧の学習をします。開示する仏教を聞く、経論を講釈するのは耳を使います。自分で仏教の経論を読み、仏教道場の荘厳神聖と僧尼の威儀斉整には目を使います。心身に若干の利益が得られることは、皆、聞慧と称されます。また、悟性が高い人や仏法を修学し相当の工夫のある人は、自然界の各種現象との接触から、仏法を学習します。特に、中国禅宗の記載に於いて、この種の例は特に多いです。そこで、仏法は仏経の中だけとは限らず、世間の一切の物事や現象こそが、真実の仏法です。しかし、人々が最初に仏法を理解し、仏経の説明を通して説明する必要があったのです。 (二)思慧−−周密な研究 既に聞いたもの、見たものに対して、研究の努力をすべきで、それらを消化し、各方面から学んだものを、まだ処理していない材料と見なし、その後、理解の程度によって、分類研判し、自分のレベルに合うものと当面用いたものを受け入れます。疑わしいもの、理解できないもの、もしくは重要ではないと思うものは、それらは参考程度にします。ある段階まで進んだ時、現在役に立たないものや不合理だと思われるものも、その段階において、最も有効で合理的なものであると感じるようになるでしょう。そこで、仏教徒の学習態度は、精密でかつ客観的です。 (三)修慧−−実際の体験 実際に役立てるために学び、学んだものを日常生活の中で運用します。慧の表現は、全て心身の実際体験で、慧と知識の最も異なる点は、知識は現金で売買でき、一般の知識者は、学んだ知識を学生に伝えることができます。慧は心身に内在するもので、言葉や文字ではっきりと表現することはできず、いわゆる「如人飲水、冷暖自知(水の冷暖は自分で飲んでみて知るように、真の悟りは修行を積み重ね、自分で会得するもの)」であり、慧の獲得方法は伝授できても、慧の本心は伝授できません。また、いわゆる「大智若愚(大知は愚のごとし)」で、慧は知識ではないため、説明できません。そこで、大きな智慧がある人は、おそらく弁論が下手な人かもしれませんが、完璧な人格を持っているでしょう。「慧」がどんな形態かを認識したければ、徳行がある士の実際の生活の中から、若干の印象が得られるかもしれません。 修慧では、いかに慧を得るかの方法を修習します。聞と思から得た慧は、私達を持「戒」と習「定」に導き、修慧の具体的な内容であり、持戒と習定から、更に強い慧力を生み、絶えず循環します。最後は、最高・至尊・無上の人格(仏陀)の完成です。 ( 1976 年 5 月 9 日、アメリカ仏教会仏誕法会にて。本文は《仏教入門》に収録)
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