居士としてすべきこと

一、前書き

在家で仏教を信仰する信者は、通常居士と呼ばれます。では、居士とは、在家の人とどう異なるのでしょう?仏教は中国において信仰者が最も多いですが、誤解する人も最も多い宗教です。例えば、仏像を祭る寺院、死人のために念仏を唱える僧侶、木魚、梵鐘等が仏教を代表するものであるとか、仏教は消極的で現実逃避しているとも思われています。

実は、それらは出家者の仏教であるか、世俗に変質した仏教です。仏教の根本の精神は、すでにほとんどがこの世俗の大波に呑み込まれてしまいました。仏教の信者は、大きく分けて出家者と在家者の二つに分けられ、出家者の本来の職務は修道と伝道、並びに仏教の住持、至っては大乗入世の菩薩精神を表現すること、並びに仏教の外護者となることです。

 

二、三類法門

仏法修学の法門は多く、大きく分けると三類に分けられます。

1.人天道

2.解脱道

3.菩薩道

学仏の主要理念は、解脱道の求取で、学仏が力を入れる点は、人天道にあります。特に、人道は生死と解脱の最大の鍵であるため、仏を学ぶ人は、人天道を離れたり、他に解脱の道を求めてはなりません。

解脱道の求取は、仏果の円成と異なり、生死を解脱する人は、成仏した人ではありません。成仏したければ、人天道と解脱道の双方に配慮を配り、同様に重んじる必要があり、これは菩薩道と呼ばれます。

性質から言うと、人天道は福業の扱い(布施・救済・放生・戒殺・社会公益等)を重視します。解脱道は慧業の修持(持戒・修禅・拝仏・念仏・聴経・看経等)を重視します。最も重要なのは、やはり恋世と出世の区別です。恋世の心があれば、慧業を修しても依然として人天福報です。出世の心があれば福業を扱っても解脱の道とも合っています。

学仏の目的は、人天道にはなく、仏教の態度も解脱道のみにあるわけではありません。自ら解脱を求め、一切の衆生にも解脱を求め、自ら解脱を求めることは慧業で、他人の解脱を助けるのは福業で、福業と慧業を共に修行してこそ、菩薩道です。ここからわかるのは、仏教の主要目的は出世(現実から離脱する、俗世間の煩悩を解脱し悟りを得る)ですが、仏教の方法は入世(現実に参与する)です。自ら解脱を求めるため、世の中の様々な苦悩からの解脱を求め、出世とは世の中の苦悩から出離するためです。衆生救済とは、衆生のため、世の様々な苦悩からの解脱を助けることで、これは出世と言えますが、逃世ではありません。同時に、仏教の解脱は、心に重点をおきます。精神を思うようにさせ、五欲

(粗)の煩悩の束縛を受けないことが、心の解脱であり、欲界、生色・無色界から離れ、ひいては生死からも出離します。無明(細)の習業及び無知な束縛を受けないなら、それは慧解脱で、生死を超脱し、ひいては成仏できます。そこで、解脱した人は、もちろん生死の束縛を受けませんが、生死を受けないというのではありません。なぜなら、衆生を済度するために、彼らも必ず生死があるからです。しかし、彼らの生死は自由の意思(願力)によるもので、一般凡夫の生死とは異なり、煩悩によって作り出された業果を引く力です。まるで、犯罪者の為に刑務所に出向き、講演を行う人のようです。その人は刑務所の中に入り、犯罪者と接触はしますが、彼の心は、法律の制裁を受け獄中で監禁されている犯罪人とは異なります。ですから、すでに解脱した人は、生死に入っても生死による苦しみを受けませんし、生死中にも生死の束縛を受けません。

 

三、解脱道と菩薩道

解脱道を修持することは、仏教の本意です。解脱道の修持に努力するには、出家者の身分が適しています。少なくとも出家者の心配事は在家者ほど多くありません。そこで、出家者は小乗の四果が証得できますが、在家者は最高でも三果しか証得できません。南伝の北道派は、在家者も四果が証得できると主張しますが、実際に四果を証得したいなら、出家する必要があります。菩薩道から言えば、それは間違いなく菩薩道の精神であり、仏教の根本です。菩薩道の修持者は、在家者の身分が適しています。少なくとも、在家者の生活範囲は、出家者より更に広く、群衆に深く入り、触れ合い、教化するのに最適です。そこで、仏経中の菩薩は、極めて少数以外、全てが在家相を現すことであり、至っては最後の一生が兜率天の内院にある菩薩も、天人相を現すことで、出家相ではありません。もちろん、在家相を現す菩薩は、男女の違いがあるわけでなく、三界内の色界天では、すでに男女欲がなく、聖位の菩薩はなおさらです。菩薩が多く在家相を現す原因は、菩薩道の修持者は、在家人の身分が最も適していると説明できます。

解脱道は貴いですが、菩薩道ほど貴くありません。菩薩道の修持者は、自ら解脱を求めるだけでなく、他人の解脱も助けるべきで、解脱道の求証者(もしくはすでに取得した者)も、人天道の実行者です。実質、菩薩は現在家の身ですが、出家聖者と比べても更に偉大です。これも大乗仏教が小乗心行を咎める基本の原因です。

しかし、在家者は、人天道の福業を実践するのは容易であり、お金と力を出すだけで、多くの社会公益の慈善事業に参加できます。解脱道の修持は、比較的難しいです。人天道のみを行い解脱道を修さないなら、それはわずかに人天道であっても菩薩道ではなく、来世の人天界中の福報を取り替えるだけで、生死の解脱も、自主生死も不可能です。これも出家者が在家者よりも尊敬され勝る要素の一つです。

また、同様の在家者でも、仏を信じる者と信じない者は異なることもわかります。仏をまだ信じていない在家者は、例え最も偉大な慈善者だとしても、それはただ世の中と六欲天の福報のみを得、福報を享受するだけで、三塗に堕落し、傍生・餓鬼・地獄の中で苦を受けます。仏を信じる在家者に至っては、例え確実に解脱道を修持できないとしても、解脱道に対して、前向きな心を生ずれば、一歩進み解脱道を修持できます。今生修行が完成できなくても、来世、更に多くの来世で、解脱道の修行を完成させ、解脱の希望を得ることができるでしょう。仏を信じる在家者は、たとえ積極的に人天福業を扱えなくても、積極的に三塗の悪業をするには至りません。ですから、同じ在家者でも、仏を信じる者は信じない者より、前途と希望、また、保障もあります。

 

四、菩薩道の修行に適した居士

ここで、居士の問題に触れてみます。

一般人の多くは、「居士」とは在家の男女信者を指す仏教用語だと思っているようですが、実はそうではありません。

仏教の原始聖典、特に律部において、居士は俗人の通称であり、梵語では迦羅越と称します。仏を信じる、信じないに関係なく、家に居る士を居士と称します。男性は居士、女性は居士婦と呼ばれ、これらは既婚の俗人の通称です。そこで、羅什法師の解釈では、「外国の白衣多財富楽者を居士と呼ぶ」とし、《十誦律》巻六では、「居士者は、王・王臣・バラモン以外は、在家白衣であり、これを居士使者と呼ぶ」と言っています。

中国において、最初に居士という言葉を用いたのは、仏教ではありません。《礼記》の中に「居士錦帯」という言葉があり、それは道・芸のための処士を指します。隠士の意味もあり、中国の古書に、自ら居士と名乗る文人雅士がよく登場しますが、ここの居士は仏教徒という意味ではありません。

仏教で在家信者を居士と呼ぶようになったのは、恐らく維摩詰居士からです。維摩詰居士は確かに居士と称せますが、後代の人にこう呼ばれます。慧遠大師の《維摩義疏》巻一にはこう出ています。「居士には二つある。一つは多くの資産をもつ居財の士で、もう一つは、在家修行を行う居家道士で、共に居士と呼ばれる。」

このように、居士という言葉は次第に仏教の固有名詞になったのです。清朝の彭際清が、一部の在家仏徒の伝記《居士伝》を編集しました。実際には、仏を学ぶ居家の士は居士と呼ばれ、もちろん何もいけないことはありません。もし中国人の観念や、隠士の意味で、仏を学ぶ居家の士を比べるなら、それは妥当ではなく、意義に反しています。なぜかというと、隠士は自分の事のみに取り組み、自分の身の安全をはかり争いを避ける生活を送っている人のことだからです。また、仏を学ぶ居家の士は、菩薩道の実行者であり、衆生を済度するためには、生命も惜しまず、自ら解脱を求め、人にも解脱の助けをします。このため、居士と隠士の意味は異なります。しかし、次々と受け継がれ、やがて習わしとなり、現在はこう呼んでも構いません。

道理から言えば、名実相伴った居士は、大乗の菩薩です。

しかし、名実相伴った菩薩になるのは、簡単なことではありません。太虚大師はかつてこう言いました。「真に祖位に入った者は、大乗仏教を広めることが出来ます。但し、人天の権宜の利益を与え、大乗の善根を植えるだけで、大乗には入りません。」(《仏法導言》)これは禅宗の三関突破に達することで、六根清浄位に相当し、祖位に入ることで、大乗仏教が発揚できます。大乗仏教の菩薩道は、本当に得がたく貴いのです。

しかし、私達は菩薩道が難行の原因によって菩薩道を行わなくなるわけにはいきません。現世で優れた聖位に入った大乗菩薩を成就できませんが、大乗の善根を引き続き植えるなら、最終的には必ず優れた聖位に入った大乗菩薩になれます。

そこで、在家の居士達も落胆することはありません。在家者が解脱道を求めることは、出家者に比べたら一段の差がありますが、菩薩道の実践に於いて、出家者の条件よりも勝っていることも多いのです。

 

五、菩薩道の重点

人天道の主要の徳目は五戒十善(殺生・強盗・邪淫・妄語・飲酒の五戒と、不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄言、不両舌、不悪口、不綺語、不貪欲、不瞋恚、不邪見の十善)です。解脱道の主要項目は、戒・定・慧の三学で、菩薩道の主要の徳目は、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六度です。六度には、三学が含まれ、三学には五戒十善も含まれます。そこで、菩薩道こそが仏教の根本の道なのです。

六度では、布施を初めとし、菩薩道の実践が布施を中心とすることは明らかです。衆生を済度するためには、まず衆生を慰める必要があり、まず、衆生の物質上と精神上に慰めを与えることで、相手は貴方に好感が持てるようになり、貴方の化導を受け入れ、貴方の化導を信任します。

布施には、財施(お金や物を施す)・法施(教えを施す)・無畏施(畏れることなき心を施す)の三種があります。財施は物質に属し、法施と無畏施は精神に属します。理想の布施は、三種を共に重んじるのが一番ですが、一般の衆生は、現実的には、まずは物質の要求に於いて救済します。まず人々に衣食を与えることで、その後、精神の追求について話す事ができます。近世、キリスト教が中国で広まっている理由もこれです。キリスト教の教義が不十分であっても、人々に実際に役立つ物質を与えているのが事実であり、衣食以外に、多くの病院や学校を作っています。一般人は、みな神学家や哲学家として、その教義と内容を研究する事ができるでしょうか?キリスト教では、宣教師の中に、宗教信仰を職業とする偽善者がおり、信者の多くは、盲目的であり(彼らは確かに宗教の慰めを必要としていますが、まだ正確な導きを得ていない)、また、狙いは他にあり、別に下心があるのです。仏教での布施の仕事は、居士は僧尼より更に徹底的にすべきです。律制に基づき、出家者は財産を持てず、貯蓄もないため、物質の布施に対して取り組むことができないためです。今日の僧尼で、完全に金銀宝戒を持得する人は少ないですが、公有の寺院の財産を除き、多くの私産を持つにはいたりません。そこで、出家者は仏法で布施を行い、無畏で精神を励まし、物質で救済することはありません。仏経では、布施の功徳は仏法の布施が最も優れていると言います。しかし、前にも述べたように、衆生の先決条件を導くには、物質での布施を優先とします。衆生の教化と離苦得楽について。−−解脱道に向かって歩むことが仏法の功能であり、この功能は大きいですが、現実の貧困を解除する直接の方法ではありません。同時に、全出家者の中で、仏法と無畏で布施が行える人の割合は、かなり低いです。原始聖典の中で証明が得られます。仏世の出家弟子は、常に千人ほどおり、その中の多くは阿羅漢で、その他は凡聖僧尼です。もちろん他にもたくさんおり、僧団中で僧尼を率いる人は数十人だけですが、弘化の方面では大きく成就し、名前が記載される人もいます。割合から見ると非常に少ないです。聖典の記載は漏れ落ちが多いですが、仏法布施の方面で本当に大きな作用を起こす人は、確実に多すぎることはありません。後世の僧尼は、もちろん言うまでもありません。出家者は解脱道の修持を主とするため、修行以外に余裕あれば、はじめて衆生救済の話ができます。

居士においては、名実共に備わった菩薩道の実行者であれば、三種の布施を全て重んじ取り組むことができます。それこそが自己の財産であり、物質で貧困を救済し、仏法の勝義(最も深奥な道理)に精通し、衆生の教化により衆生を慰め励ますことができます。

そこで、真正の大乗精神は、出家の大菩薩ないし仏陀により摂化されますが、一般凡夫の出家者では十分に表現できません。大心を欲する在家居士のみが菩薩道の理想実行者といえます。

ここで述べた理想の居士は、歴史の記載上ではっきりと数えられます。一般の居士となると、確かに理想の境地を遂げるのは容易ではありません。財産のある居士は、財物で布施ができますが、財物の布施にとどまるだけで、必ずしも仏法の勝義に精通し、仏法で布施できるとは限りません。彼らがさらに菩薩道に対して願い求めるなら、それはますます難しくなります(もちろんないというのではありませんが)。そこで、彼らの布施は、人天福業に限ります。

仏法の勝義を深達する居士は、仏法の布施は行えますが、財産があるとは限らず、それでは意余って力足らずです。大多数の正信の居士は、人天道と解脱道の交差点を徘徊し、解脱道に憧れるだけで、人天業から抜け出すことは出来ません。まさに、人天業の中で、解脱の道を求めるのです。彼らはもちろんまだ幸運で、また尊敬すべきであり、最低限、彼らが解脱道に着けば、真の菩薩道に行くことができます。

 

六、居士が備えるべき条件

上では理想の居士について述べました。理想的な居士は、一般の居士の中から現れ、一般居士の立場で取り組みます。

それでは、一般の居士が備えるべき条件とは何でしょう?

《雑阿含経》巻三三第九二七経等の規定では、在家居士は、五法具足(五つの条件)が備わる必要があるとしています。それには:

(一)信具足

信心が最も重要で、深く正しい信心を築かなければなりません。仏教に対し、まず正確な信仰が必要で、信仰の中心は仏法であり、仏法は私達に苦離得樂に導くため、信仰しなければなりません。仏法は仏が説いたものであり、僧衆結衆(編集)・伝流・住持・弘揚によるもので、信仰しなければなりません。これを合わせ、「仏・法・僧(三宝)」を信仰します。信仰の入門は、三宝帰依であり、三宝帰依は、全体の心身を、無条件に三宝の光輝と恩徳の中に置くことです。三宝帰依の後、三宝の導きの下、人生大道の指帰が得られます。正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定(八正道)。

(二)戒具足

主に、不殺生(動物を殺さず、食せず)・不偸盗・不邪淫(夫婦外の異性行為をせず)・不妄言・不飲酒の五戒を指します。五戒は、三帰弟子の必修項目であり、三宝帰依と五戒受持は、二つの段階の二つの意義と捉えるべきでなく、三宝を帰依し、五戒を受持しないなら、学校に登録するだけで、実際には授業を受けず勉強をしないのと同様であり、それでは善根を植えるだけで現実の利益は得られません。五戒十善は、人天道中の人天業であり、五戒が受持不能なら、人天道中の人天果位は全て保障されず、どうやって解脱生死ができるでしょうか?

出家生活を希望し、また現実の環境が許さないなら、五戒以外に、毎月の陰暦の六斎日(初八・十四・十五・二十三・月末の最後二日)を守ればいいです。受持は一日一夜を期限とする八関斎戒です。いわゆる八関斎戒が指すのは:

1.  不殺生

2.  不偸盗

3.  不淫(一日一夜、異性と性交不可)

4.  不妄語

5.  不飲酒

6.  歌舞音曲を見たり聞いたりしてはいけない

7.  天蓋付きで足の高いベットに寝てはいけない

8.  正午以降は食事してはならない

八関斎戒に関する詳細は、《戒律学綱要》の第四編〈了生脱死の門経〉をご参照下さい。菩薩道を修行する居士なら、他に菩薩戒を受けてもいいです。これは《阿含経》中の規定ではありませんが、大乗仏教の居士は、確かに菩薩戒の受持の必要があります。受戒とは、宣誓に似て、それに宣誓の意義より更に厳粛で、宣誓の効果より更に広いからです。戒の力量は、悪性極強に抵抗する防腐剤です。

菩薩戒の主な内容は、《戒律学綱要》第七編の〈三世諸仏陀的揺籃〉ご参照下さい。

(三)施具足

尊敬心で父母・師長・三宝に供施し、悲憫心で孤苦・貧病に布施し、公益喜捨で社会大衆の福利を促成します。

(四)聞具足

持戒・布施は、福徳の育成と取り組みに重点を置き、仏法の正知正見を要求し、同時に仏法の実行をするなら、聞法から始める必要があります。看経も聞法の一つですが、経義は広くて深く、善知識による「塔寺に往詣し、法を聴くことに専念」の点化講義も必須です。これも居士が寺院に入る最大の目的です。

(五)慧具足

これは、真諦に関する体得か悟りであり、聞法の精神を実践して得た一種の実証経験です。仏陀の時代、毎回、俗人に対して一度法を説き、その度に多くの人が聞法から真諦を見、初果を証得しました。これが慧具足の典型です。

 

七、居士の家庭生活

居士は、三宝に帰依していても、在家の俗人であり、俗人であるからには、俗人の生活規範に従って生活すべきです。それに、仏を信じない俗人よりも更に生活は積極的に、調和を取り、幸せで円満に、活気・活力を持たなければなりません。こうすれば、自分も楽しめ、他人に敬慕してもらえ、更に他人が喜んで自己の影響を受け入れてくれるようになります。

俗人の生活で最も大切な仕事は、睦まじく楽しい家庭を築くことです。両親には親孝行し、子には慈しみ愛し、敬い養い、教え育て、自己の最大の可能性をやり遂げることで、両親と子の責任を尽くすと言えます。夫婦は家庭の中心であり、双方の間は、必ず貞操を守り、相手を敬愛し、相手を思いやり、夫婦間の感情は融和し、例え貧しい生活を送っていたとしても、愛する家庭なのです。

睦まじく楽しい家庭は、主に夫婦間の愛情において築かれます。家庭の幸福は、主に経済収支のバランスが重要です。居士は、各種の正当な職業に従事すべきで、生活の需要を追及するため、屠業(漁業や肉料理店等)・盗業(賭業および密輸等)・淫業(水商売・クラブ・妓楼等)以外の職業や、農・工・商・教育等から選択できます。収入に応じて支出も必要です。《善生経》では、居士の収入を、飲食(家計の生活)、田畑などの財産(営業の資本)、貯蓄(家庭の貯蓄)、耕作商人に与えて生じた利息(貸付利潤)の四つに分けます。このような経済計画で、家庭の経済を計画するのが、実際に最も安全で最も科学的な分配です。

経済の作用は、生活の幸福を促成し、道徳の目的を達成することです。そこで、仏陀は収入が支出を超える守銭奴を責め叱り、彼らを餓死した犬と喩え、更に支出が収入より多い人を責め叱り、彼らを種の無い優曇果と喩えました。

まず、家庭経済の基礎を強固な物にしてから、家庭正常生活の必要以外にも、余力があれば、家庭以外の福徳に用いるべきです。−−三宝の供養及び公益慈善等の事業に取り組みます。そこで、《雑阿含経》の中では、居士の財産は、三つの用途に分けるべきであると説いています。それは、両親を養うこと、妻・子供を養い、親族・友達・従僕等を助けること、沙門・婆羅門(三宝はこの中に入る)を供養することです。

居士は、常に三宝の近くにいるべきですが、家庭に配慮せず、両親・子供・夫婦の責任を放棄し、三宝だけに近づくというのは、仏が希望することではありません(既に家庭の責任を尽くしている場合を除く)。居士は、無条件に三宝に供養すべきですが、両親の需要に答えず、子供の栄養を減らし、夫・妻の生活費を節約し、使用人の給料を減らすなどして、三宝に供養するとすれば、それも仏の希望することではありません。相手に黙許されていたり、各々自主的にする場合は別です。

居士は、仏を信じることで家庭の和楽を壊すことは出来ず、仏を信じる縁故により、家庭に更に和楽を与えるべきだからです。さもなければ、家族は、貴方が家庭を顧みず、三宝だけに配慮することに不満を持ち、貴方に対して反感を持つようになるだけでなく、同時に仏教に対しても反感を生むようになります。こうなると、貴方自身は三宝を敬うことで、家族を三宝の反対者にさせてしまい、とても不幸なことです。居士は理想の菩薩道の実行者であり、菩薩は衆生を救い済度することを重要な仕事としています。現在、貴方は自分の家族と、三宝から離れる千里以外で、何が衆生を救い済度するか、話していますか。

 

八、居士の社会生活

人類は社会の動物であるため、人の生活は社会を離れてはいけないと言う人もいます。いわゆる社会の定義は、「組織のある団体」であるべきです。そこで、私達の社会は、最低二人から、最大全人類といえます。

そこで、家庭は社会の基礎であり、社会は家庭を大きくしたものです。家庭は夫婦二人のみでも可能で、社会は全人類の組織の大きさでも可能です。更には未来の宇宙空間の時代には、宇宙間の人類もこの中に含まれまれることとなり、社会の定義は、空間と時間の制限を受けません。

仏教の立場から言うと、在家の居士の活動範囲は、出家僧侶よりも更に広く深く、属する社会も、出家僧侶よりも更に複雑です。そこで、居士として社会生活を語ることは必須です。居士は、家庭の中で、多くの身分があります。例えば、父母にとっては子供、子供にとっては父母。弟妹にとっては兄姉、兄姉にとっては弟妹。配偶者にとっては夫婦。父母に対する父母、子供に対する子供、更には親族に対する親族など、皆各々の異なる身分があります。家庭が大きくなり家族となり、そこから家族以外にも広がる社会となります。先生にとっては弟子、弟子にとっては先生。長官にとっては部下、部下にとっては長官。政府にとっては人民。団体にとっては団員・党員・社員・会員。それ以外に、友達の友達、関係者の関係者など、全てが社会形態を形成する要素です。居士の生活はこのように複雑な社会関係の中にあります。理想的な菩薩道の実行者は、喜んでこの複雑な社会関係の中で修行します。関係があることで接触の機会があり、接触の機会があることで彼らを解脱道の唯一の場所に導くことができるからです。−−仏法僧の三宝。しかし、衆生を済度するのに、宗教に対する熱狂的な意欲も役に立ちません。宗教への熱狂は、もちろん人々に水火も辞さない(どんな苦しみや危険も恐れない)勇気を与え、宣揚・弁論・突撃・敵陣に突入・戦闘・犠牲ができますが、それでは絶対に長い間続かず、深遠な良好な影響を与えることもできません。

仏教は、社会に服務することを菩薩道の特徴とします。仏はいにしえの無数の生で、様々な身分・様々な形態・様々な方式で、様々な族類群の中に深く入り、往々にして王の地位につきました。いわゆる王とは、指導者のことであり、その指導者の地位は、戦いで勝ち取ったものではなく、全てが大衆へ服務することによる道徳価値に感化された結果です。そのため、ただ真正のみが大衆に幸福を与えられる人であり、それでこそ大衆の指導者になる資格が十分で、最も大衆に受け入れられる期待ができ、心底から悦服できる人です。さもなければ、それは王ではなく、賊・盗・匪(強盗)・梟(強暴で野心がある者)です。

理想的な居士は、常に指導者の姿勢が必要ではありませんが、少なくとも常に人々に受け入れられるべきで、ひいては、いかなる場合においても人々に尊敬されるでしょう。残念なことに、居士の中には、仏を信じ学んだ後、社会と疎遠・冷淡・隔たりを生み、至っては、孤独・冷淡・近づきにくい変人に見られる人もいます。彼らは、心からの信仰心により、一心に解脱道の出世生活に憧れ、社会との関係は徐々に外れていきます。しかし、これは居士のしかるべき態度ではなく、修行中の居士もこのようにすべきではありません。出家者であっても、名利物欲に対しては冷たく、社会公益に対しては熱心に取り組まなければなりません。事実上、仏教史上において、大成就し、大果位を証得した人は、社会の大衆に対して、熱心でない人は一人もいません。このような熱心さこそ、悲心−−菩提心の現れです。仏を信じ学ぶことは、菩提心であり、仏を信じ学んだ後の居士が、菩提心を手放すというのは、食い違っていませんか?最低限、居士は人に嫌われる対象であってはなりません。さもなければ、それは尽くすべき義務を尽くしておらず、さらに職務を辱められます。職務を尽くさず、職場上の待遇や権利を享受するなら、それは一種の債務であり、犯罪であり、因果です。それでは絶対に居士の本来の姿ではありません。実際には、人には生活の権利があり、必然的に生活の義務があり、例え出家者であっても、例外はありません。仏教徒の本来の姿は、義務を出来るだけ尽くし、権利を少なく享受することで、他人の尊敬を得ることができます。

そこで、仏は一切の団体(社会)の要求を統轄し、四種の徳目(四摂法)を説きます。摂とは、統轄や摂取のことであり、指導や化導の意味でもあります。いわゆる四摂法とは、指導者に不可欠な四種の処世の方法で、切実に四摂法の仕事を行うことで、群衆を感化でき、更に群衆を導くこともできます。四摂法とは:

(一)布施

布施の重要性はとても大きく、仏教は社会大衆に関係する徳目であり、居士は布施を重視しなければなりません。そこで、《優婆塞戒経》の中では、特に布施に関して繰り返し触れられています。布施さえあれば、社会の貧富差に適切な調節ができますし、仏教の慈悲精神がよく表現できます。一般人は、布施の原義を誤解しています。例えば、施主の名称は、居士の寺院における専門用語であると思われています。事実上、三宝のために出資し、貧病孤苦のために救済することが、名実ともに備わる布施です。居士は財物で布施するので施主と呼ぶことができます。僧尼は仏法で布施しますが施主と呼べないのでしょうか?末世の僧尼は、多くが居士に請い寺院に出資してもらい、積極的に仏教公益事業を行うよう励ましますが、仏法による布施は多くありません。これは今後の中国仏教の一大課題です。

もちろん、布施は一種の福業であり、仏は福業の対象を八類(八福田:仏・聖人・和尚・阿闍梨・僧宝・父・母・病人)に分けます。この八種の福田の中で、居士在家は父母を最も重んじ、次に仏・聖人等を重んじます。父母を養わず三宝を供養するのは、仏の望んでいることではありません。しかし《梵網経》の中でこう説いています。「菩薩は常に一切の病人を供養すべきで、八福田の中で看病する福田が第一の福田です。」これは皆に多く慈善事業に取り組むよう奨励しているのです。三宝を供養することは当然重要で、生死を彷徨う貧病者を救うことも重要です。平素、父母以外に、三宝の供養を第一とし、特殊な状況に陥っても、余力があれば、危険や困難に直面している人を助けることを第一とします。これは居士達が必ず理解しなければならないことです。

(二)愛語

いわゆる愛語とは、恋愛のことでも媚びへつらうことでもありません。また、優しい態度で他人と話し合い、悲心による自然の現れです。菩薩は衆生を見て、自分の家族でない者も、大善知識でない者も、未来の仏でない者は一人もいません。そこで、敬愛することだけで他がありません。仏教が説いた愛語は、談話の技巧だけでなく、一種の誠実丁寧・穏やか融和・心から感動する談話です。これは、仏化実益を得た後の一種の受用・智慧・修養です。例えば、苦難者の慰問、敗者の激励、成功者の賛美、愚劣者の激励(必要な時は注意して激励の目的に達成させる)などです。一種の優しく丁寧な談話は、いつも人々に受け入れられ、この種の談話は、社会の和楽・進歩・安寧を促成させることができます。紛糾を仲裁する最適な人は、指導者に最適な人であり、少なくとも人々に最も受け入れられている人です。万一道理を説いても受け入れない人に出会っても、相手の好きなようにさせて、無理強いする必要はありません。

(三)利行

いわゆる利行とは、団体公益の追求と促進を指し、社会サービスとも言えます。国民に選ばれた議員達は、選挙の時はいつも国家・人民・地域のためにと言いますが、実際もこの通りにすべきです。いかなる団体において、一番に団体の利益を考え、人々の困難を解決できる人は、必然的に衆望を担う人であり、偉大な指導者は、必然的に社会に対して貢献します。

(四)同事

同事とは、自分を捨てて相手と同じ心・境遇になり、仏心をはたらかせ、社会が必要な人になることです。釈迦世尊は菩薩の段階で不同の類に随って応化し、観世音菩薩の三十二応身は、全て同事の典型です。しかし、自己が社会に溶け込むというのは、社会に感化し、自己を消失することとは異なります。社会に溶け込む目的は、社会を導き、社会を感化するためです。そこで、日本の道元禅師は同事の定義をこのように解釈しました。「自分自身とも食い違うことがなく、他人とも食い違うことがない」(《正法眼蔵・四摂法巻》)つまり、四摂法は社会生活中に不可欠な徳目で、一家族の小さいものから全人類の大きいものまで、非常に大きな範囲の実践が可能で、非常に大きな効果が必要です。居士は、分相応で取り組むべきで、非信徒に仏教徒は消極的な逃世者だと誤解されることなく、一歩進んで社会を導き私達の社会を浄化することができます。

 

九、居士の宗教生活

原始聖典の阿含部及び律部中から見ると、居士の宗教生活は、三帰・五戒・八正道・五法具足・四摂法等の生活であり、居士と一般俗人の生活の異なる部分は、これらの徳目の実行中に現れます。

解脱道修持の問題についてですが、解脱道は、戒・定・慧を離れず、私の著書〈怎様修持解脱道?〉もご参考ください。ここで一つ簡単に概要を紹介します。

居士は日常生活において、毎日最低限の時間を割いて、全心身を信仰に向ける必要があります。毎日定時・定数、毎日最低二回はするようにします。このようにすることで、修持の作用を得ることができます。自分の生活環境に合わせて、拝仏・静坐・読経・念仏(騒がしい環境では、観想黙念でも可)・懺悔(反省し、誠実に過ちを悔い改める、三宝恩徳の感仰も含む)で、一・二種を選定し、これを日課としますが、懺悔一項は必ず行います。ただ絶えず懺悔する中で、絶えず過去を改めて未来修行を修めることができ、絶えず成仏の道に踏み出すことができます。ただ毎日すべて「今は是とすべきものであり、昨は非とすべきものである。」の新境界中の生活で、最も気質が変えられる人で、最も新しい希望や新しい発見のある人です。古人の宗教経験は、往々にして懺悔の中から得られたものです。懺悔は必ず儀式が必要とは限らず、跪いたり、座ったり、立ったり、全て可能です。しかし、功課の時、万縁を手放し、一心に帰命する必要があり、例え毎回最低数分でも、修行を長く行い、日々長く続ければ、必ず相当な効果があり、少なくとも、人生の境界に対して極めて開朗闊達です。これはつまり、解脱道の実践に努力するのです。

時機因縁が許すなら、寺院の比較的長期の法会に参加し、全力で修行します。しかし法会に参加するだけではいけません。それでは努力が長続きせず、力が得られないでしょう。

居士が精進料理を希望するのはとてもいいことですが、まず家族の理解を得なければなりません。毎月の六斎日に八関戒斎の受持を希望するなら、まず先に配偶者の同意が必要です。さもなければ、仏を学ぶことで家庭の和楽を失い、これはすべきではありません。

つまり、居士は菩薩道の実行者でなければならず、まずは自分の気質を変え、家庭を仏化し、その後社会を仏化します。居士は三宝を擁護し、誹謗してはいけません。

 

 

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