| 仏教の修行方法 |
一、前書き まず、当記念堂の理事長、呉侠民氏にお礼申し上げます。私は、トロントの華僑同胞の皆様に仏法を話す機会を持つことができ、大変光栄です。また、《醒華日報》の編集長の簡許邦氏に翻訳いただき、感謝いたします。本日は月曜日で、観客は昨日ほど多くありませんので、なるべく前の席に詰めていただき、皆様と近づきたいと思います。仏教徒が法師に教えを請い学習することを、「善知識に親近する」と言い、尊敬されている人に親切に接近することを意味します。
二、修行の意味 今日の講演のテーマは「仏教の修行方法」です。修行とは出家者が山の中に入ったり、寺院の中にこもったりしないと修行できないと思う人も多いでしょう。事実、修行の二文字は元々仏教用語でしたが、人々の日常生活の中でも使われています。「修」とは、修理・修正・修持です。私達の家が壊れたりしたら修理の必要があります。家具が壊れたりしたら修理の必要があります。同様に、私達の生理行為や心理行為を常に点検しないなら、次第に悪人になっていくでしょう。 中国の曾子が説いた「吾日三省吾身(吾日に三たび吾が身を省みる)」は、毎日自分の行為を点検すべきだということです。毎日このように反省すれば、間違いを起こしても、容易にいつでも直せます。 「修持」とは、修正・修理、根気良く続け、毎日常に、修行することです。人によっては、間違いを起こし、その日に気付いて悔悟しても、次の日にもまた間違え、勇気を持って自分を改善する事ができず、それは修行とは呼べません。修行は、必ず自己の過ちを見つけ、修正・修理を行い、適切に過ぎた行為を修正し、継続して努力することです。そこで、私達は修行は自己の反省だと言います。すべきでない事は再度行わず、すべき事でまだ行っていないことは、これから開始すべきです。
三、修行の器量 仏教の立場から修行を講じると、大器と小器と、大修行と小修行に分けられます。中国の孟子がかつてこう説きました。「窮則独善其身,達則兼済天下(窮すれば則すなわち独り我が身を善くし、達すれば則すなわち兼ねて天下を善くす)」人の立場から見ると、自分の修行のみに専念することは悪くなく、真にこの程度に達せるのは容易ではありません。しかし、私達の仏教から言うと、これは小乗です。 いわゆる小乗は、大乗に対して言うと、大乗は自己の修行を要するだけでなく、天下に善を尽くし、あらゆる人が修行できるよう助けます。例えば、現代の交通手段は、とても多くの種類があり、自転車から飛行機、水陸から空中まで、大小様々です。しかし、自転車には一人しか乗れず、また速度もとても遅いです。電車は速く、かつ沢山の人が乗れます。時には、船や飛行機に乗る必要もあります。そこで、大乗と小乗は、事実上は自修自度する人は、小さく遅い乗り物に乗り、自他を済度する人は、大きく速い乗り物に乗ります。 自己を済度することさえも容易でないのに、ましてや他人を済度することなどなおさらです。例えば、自己を済度せず他者を済度する人は、まるで泳げない人が、溺れている人を見つけて、水中に助けに行くようなもので、結果は人を助けられないだけでなく、自己も溺死します。そこで、大乗を行っても、小乗を行っても良く、最も基本的な原則は、適切な修行です。 小乗の修行は、飛行機が買えない人でも、お金があればまず先に自転車を買うように、小乗の方法をまず学び修行します。小乗か大乗に関係なく、修行が第一です。
四、修行の層別 私達が一瞬の間、大乗菩薩をすることは、できることですが、大乗が小乗と対立することは無く、大乗の中に必ず小乗を含み、同時に凡夫の人と天も含みます。そこで、大乗自身、五つの層別(人・天・声聞・独覚・菩薩)を有します。修行とは、一歩一歩進むもので、大乗は小乗よりも一段と優れているというのではなく、それは発心における偉大さです。彼らの修行は衆生を済度するためであり、自己の解脱を求めるだけではありません。 世界には多くの宗教家と思想家がおり、全てが自己の立場に立ち、他の宗教や他の思想は人と世を害する邪説であると批判します。仏教はいかなる宗教や思想に反対する必要はありません。仏教の立場から見ると、一切の方法は道徳上で有効でありさえすればよく、ただ深さと高さの違いだけです。ある人が、道教も仏教も信じており、仏道は同じものだと思っており、同時に修行してもいいか聞いてきました。仏と道の基本立脚点は同じであるべきですが、修行の方法と最終目的の証果とは異なります。 同一の立脚点ですが、方法が異なることで、出発後の力量が異なり、得る結果も異なります。同じく善を勧め善を行い、人々に福をもたらす立脚点上から、仏教は一切の宗教家・哲学家・政治家・軍事家・科学者、更には、一切の業界の一切の善人を認め、全てが仏法の一部分です。仏教はそれぞれの価値を認めますが、それぞれが用いる方法は、対象が違い、程度が違うため、結果も異なります。大乗仏教の特徴は、先に広く発心するように教え、発心後、程度によって修行を行います。まず先にそのような方法が自分の興味と性格に合っているとか、自分が受け入れられるものであると、はっきりと認識する必要があります。貴方には、そのような方法が合っており、高低と関係なく、全てが大乗の法門です。 では、五つの修行段階を一つ一つ解説します。 (一)人 私達は各々、現在の立場と現在の程度を持っており、高望みをすることも、自分を軽蔑することもしてはいけません。「放下屠刀、立地成仏(悪事から足を洗えば、すぐに悟りを開いて仏の境地になれる、成仏できる)」という言葉を聞いたことがありますか?沢山の人や家畜を殺した人が、殺生をやめれば、成仏できると信じますか?本当にこのようなことがあるなら、仏教は信仰に値せず、仏も尊敬が足りません。 しかし、この言葉は確かに間違っていません。なぜなら、「立地成仏」は、悪事から足を洗い、その後殺生しなければ、この時から一歩ずつ仏に近づき、少しずつ成仏が可能になるという意味だからです。 他にも、「苦海無辺、回頭是岸(苦しみは無限であるが、ものの見方を変えれば悟りがある)」という言葉があります。そこで、私達は成仏できるよう発心し、まず私達の現在の立場と程度から始めます。私達は人間であり、成仏は人の本位から開始せねばならず、人が善事を行うことができないなら、成仏は当然不可能です。 (二)天 「天」は、各国・各民族・各時代の全宗教が信仰する対象及び憧れの境界です。宗教は昇天を求めないことが少なく、中国道教の言う「白日飛昇」・「長生不老」・「羽化登仙(仙人となって天に昇る)」は、全てが昇天を要求し、西洋のユダヤ教・カトリック教・キリスト教なども、昇天を求めます。しかし、人が善事を行わないなら、本当に昇天できるのでしょうか?確かに、ある宗教は神のみを信仰し、幸運にも神に選ばれたのであれば、例え悪事をするとしても、神に罪を許してもらい昇天できます。この種の説法は、論理に合わず、こう言うべきです。善事を行い、更に神を信じるなら、これでこそ昇天が可能です。多くの人は、仏教は出世を主張すると言います。実は、仏教は更に入世を重視し、入世の基本道徳の訓練を受けていなければ、出世は不可能です。多くの人は、和尚を見て、こう問います。「人々が全て和尚になるなら、人間はこの世界上から消滅してしまうのではないでしょうか?」こう聞かれると、通常は彼にこう問い返します。「この世界上で私達のような出家者は何人いると思いますか?」全ての人は出家が不可能ですし、出家に適さない人もいます。仏教はもとより出来るだけ一切の衆生を済度し、離苦得楽、生死解脱を願いますが、事実上、全ての人が出家するのは不可能です。 そこで、仏教はまず優れた在家者がいることで、その後優れた出家者を生むと考えています。父母が父母の責任を負わず、子供が孝道に従わず、教師が師道に従わず、友達が友道に従わなければ、これらの人々が仏教徒の資格を持つのも問題であり、出家は更に問題です。正しい人間になる基本要求を完成させ、更に出家して修行するかを考えます。そのため、正しい人間になることが昇天の基本条件であり、また成仏の基本要素です。 (三)声聞 「声聞」は、出世、身を持し、しっかりやり終えた後、出世の道に上がることです。しかし、出世は必ずしも出家とは限らず、そのため、声聞の中には四つの異なる段階があり、初果須陀?(七返生死)、二果斯陀含(一返生死)、三果阿那含(不還生死)、四果阿羅漢(解脱生死)と呼ばれています。第一果から第三果まで、在家者も皆、達成可能で、第四果は在家者でも達成可能です。しかし、この段階に達して、自然と世俗一切の名利権勢等の欲望から逃れ、出家し、この時、一切の煩悩と貪欲心・怒恨心・善し悪しが不明な心も断ち切り、真に出世を遂げます。それは世間の物欲・財産・家族、更には自己の生命に対して、既に我と我が所有する束縛心が無くなります。この時真に阿羅漢の境界に達するのです。 いわゆる解脱の意味は、いかなる思想も物質行為の影響も受けず、生活は、心身自在で、生と死が一体となっている境界の中にあります。そこで、「ある日人々が第四果に達せば、世界上には人がいなくなる。」の心配はありません。仮に私達全員が、煩悩も苦痛も無い阿羅漢だとしたら、悪くないでしょう?しかし、これを現実にするのは全く容易ではありません。 (四)独覚 「独覚」は、事実上、独覚と声聞は同一の意義ですが、入門修行の違いから、呼び名も異なります。声聞は、仏の説法・僧の説法、或いは経典中の生死離脱の方法を聞き、証果修行をすることです。独覚は、仏教がない時代、仏経が見られない時代、仏法を説く人がいない時代、自然界のある種の現象の導きにより、仏法の真理と開悟解脱を得たことです。この二種共、出世間の道とも、出世の仏教とも言います。一般人にとって、実に容易なことではありません。 (五)菩薩 「菩薩」は最も偉大で、崇高ですが、最も親しみやすいです。なぜなら、一般人が最初から仏教を信じ、仏教が説いた成仏の方法に沿って行うことが、初発心の菩薩だからです。そこで、菩薩になることは羅漢になることより容易です。しかし、菩薩は五十二段階に分かれ、最初の一層から最高の一層(仏の段階)まで、五十二の層別を通る必要があります。最初に、私達は善人になり、他の人々も善人になるよう望みます。貴方が本当に力があって他の人に幸福を与えられるかは関係なく、ただ貴方の心にこの希望がありさえすれば、この種の心は菩薩心です。 では、皆さんにお聞きします。例えば、この建物で火事が起こり、警報ベルが鳴り、煙が充満したら、どうしますか?ある人は、まずどのように逃げるか、自分の安否のみを考え、他人を顧みず、このような人は菩薩と呼ぶことはできません。ある人は、まずいかに老人、体が不自由な人、婦女、子供を火宅から離すかを考え、自分の安否を気に掛けず、このような人は心が温かく菩薩心があります。 地蔵菩薩がかつてこう言いました。「地獄不空、誓不成仏(地獄地獄で責め苦に遭う者を悉く済度させねば、成仏せぬことを誓う)」またこう言いました。「我不入地獄、誰入地獄(私が地獄に入り済度せねば、誰が地獄へ入ろうか)」彼の最大の願いは、地獄に行き人を助けても、自分の成仏は考えないということです。この点はとても重要で、最初に仏を信じた人は、成仏は必要であると望み、仏を信じ、修行を通して相当の基礎を得た時、成仏の考えは一方に置くように教えます。なぜなら、成仏の考えはいいですが、依然として「有我」の妄想であり、そこで貴方が自己の成仏を望むなら、永遠に成仏はできないでしょう。 有我の観念は、利己心であり、利己心があって成仏可能とは、それはもってのほかです。菩薩はまず自己を忘れるよう試みて、専ら他人のために、続けて終日他人のために取り組み、かえって助ける自我、助けられる対象、人を助ける智慧と物事も全て忘れました。これこそ真の菩薩です。
五、修行の方法 修行者にとって、優れた師父は不可欠であり、彼は遠回りをしないように、また間違った道に進まないように導きます。修行の準備では、五欲の抑制は非常に重要です。五欲とは、五官の媒体から生まれた様々の不良の心理活動で、これらの五官の反応で生まれた様々なものは修行の障害になります。いわゆる五官の反応とは、眼で見たもの、耳で聞いたもの、舌で味わったもの、鼻で嗅いだもの、体が触れたものであり、これらは心に喜怒哀楽の様々な情緒を生ませ、これを五欲と呼びます。そこで、修業をする人は、日常物質上の生活に対して無欲になるべきで、音・色等の五欲に惑わされないことで、その後主要な修行方法に取り組めます。 大乗菩薩の主な修行方法は、六度と呼ばれます。六度とは、六種の方法を用い、生死と煩悩のある凡夫の側を生死と煩悩のない側に移すことです。また、生死の苦海から涅槃に到達し、煩悩を持つ凡夫が菩薩になることです。これは、六種の器具設備を持つ船に乗り、向こう岸の成仏の道にあがるようなことで、これを六度と呼びます。 (一)布施 六度の第一は、「布施」で、布施は最も容易な方法です。お金があればお金を出し、力があれば力を出しますが、金も力も無い人はどうしたらいいのでしょう?口から二つの言葉を発すればいいのです。では、口が利けない人はどうしたらいいのでしょう?心中でこれが善事だと思うだけでいいです。能力があれば必ず行い、人々が善事を行えば、私も心から喜びます。ある人がお金も力も出さず、善事をしたり、人を助けるように誰かに頼んだとして、これは布施と呼べるのでしょうか?事実、彼は人に良い行いをするように勧めており、これも力を出した布施です。 世界上に、善行で布施をする人は、全員がお金持ちとは限らず、いわゆる「同病相憐れむ(同じ病気や苦労、悩みを持つ人たちが、お互いにいたわり合うこと)」の感情で、苦痛や困難を体験すれば、人にも手を差し伸べたくなり、他人が苦痛や困難に遭っているのを見ると、誰かに手を差し伸べて欲しいと思います。お金を出して善事や布施を嫌うお金持ちがいますが、それは、「為富不仁(金持ちには血も涙もない)」と呼ばれます。実は、金持ちのお金は、それが悪銭でなければ、お金を少しずつ貯め、それを蓄えてお金持ちになったのです。お金を全部使い切ってしまったとしたら、お金持ちにはなれません。そこで、お金持ちに布施をするよう勧めるべきですが、皮肉を言ってはいけません。 布施には二つの対象があります。一つは、貧しい人に布施を行い、救済を求める人を助けます。もう一つは、宗教団体(仏・法・僧の三宝)に布施を行います。 以前、ニューヨークの学生に、「三宝にできるだけ多く布施をすべきだ」と言ったことがあるのですが、ある一人の学生は笑いました。私は、「貴方は笑っていますが、それは私が三宝の中の出家人だからですか?私は皆さんに布施を勧め、貪欲にならないように勧め、その結果、私にお金を渡しましたか?」聞き、彼は、「はい」と答えました。 皆さんはなぜ三宝に布施をすべきか考えた事がありますか?仏教において、三宝に布施を行うことは貧しい人に布施を行うことよりも、功徳が大きいです。お金を使って人を助け、少しのお金で十人を救うのと、少しのお金で一人も救えないのはどちらがいいでしょう?三宝に布施し、三宝が行うことは、救済を求める人々に仏法が得られるよう助けることです。なぜなら、人類の真の苦しみは、物質不足によるものではないからです。仏教の重要な点は、心で苦しみと煩悩を解決する手助けをする、これが徹底的に苦痛を解決する方法です。三宝に布施すれば、三宝は更に多くの人を助け重大な問題を解決します。そこで、三宝に布施することは、貧しい人に布施するのより、功徳は大きいのです。 またある人はこう言います。出家者は仕事をせず、また人々に布施をするお金もなく、布施の功徳を修めるのでしょうか?皆さんに教えます。布施は全てがお金を用いるとは限りません。それに、お金での布施は小布施だけにすぎず、仏法の智慧で布施を行うことこそ大布施といえます。人身の困難を救済するのは小布施であり、人心を救済し生死の苦痛を解脱することは大布施です。昨日と今日、私がここで行っているのは大布施です。 (二)持戒 「持戒」とは、規則や戒律を守るだけの意味ではありません。持戒の本当の意味は、全てのすべきでない悪事はやめ、すでにやめた悪事は再度すべきでないということ、まだしたことのない善事は取り組むべきで、すでにした善事は続けて行うべきであるということです。要するに、「諸悪莫作、衆善奉行(諸々の悪しきことをせず、諸々の善いことを実行せよ)」です。 (三)忍辱 「忍辱」とは、一切の侮辱を耐え忍ぶだけでなく、一切の苦痛を耐え忍び、更に手に入れた快楽を耐え忍ぶことです。もしも苦痛を耐え忍び、快楽を耐え忍ぶことができるなら、それは「八風吹不動(風吹けども動ぜず:周囲の環境に惑わされることなく自らの信念を貫け)」の境界です。 (四)精進 「精進」とは、私達の肉体の生命と仏法の法身慧命のためです。いわゆる肉体の生命とは、血の通った肉体の生活現象を指し、仏法の法身慧命とは、私達の継続する信仰に頼った活動現象です。神聖な悲願のため、私達は最大の努力を駆使する必要があり、気落ちせず、尻込みせずに行います。これが精進で、もしも精進の精神がなければ、竜頭蛇尾(全てが初めは盛んだが、終わりは振るわない)だったり、努力が長続きしません。それでは、日常生活、身体の維持、信仰生活の修持に関わらず、中途でやめたり、元気が無くなったり、目的に達することはできないです。 (五)禅定 私は「禅定」を教えます。これは三つ段階に分けられ、三種の異なる境界に達することができます。第一は、心身平衡で、第二は物我合一で、第三は物我双亡です。 心身平衡:健康な身体と健全な心理が持てます。やり遂げれば、私達は正常で健康な人です。物我合一:一般宗教が経験する到達を願う境界です。我と世界万物が合わさって一つとなり、中国と西洋の歴史上の大哲学家と大宗教家は、皆この一段階に達する可能性があります。物我双亡:禅さえあれば、この目的に達することができます。 禅は、「無」の境界に達するよう教えます。無とは、物が無いということでなく、一切の物事が存在しないということで、また物我合一でもありません。物我双亡は、真の開悟に達した後、私達のこの世界は完全に偽りであり、偽りであっても、世界はいつも通り存在するとわかります。この三段階の中で、私達は三つの名詞を使って説明できます。 心身平衡は、小我の段階で、平常に感じる正常な心理状態での平静安逸の自我感です。物我合一は、大我の段階です。この我の存在と宇宙万物の存在が合わさり一つとなり、天帝が我心の中にあるか我が天帝の中にあるかは関係なく、全てが大我の観念です。物我双亡とは、無我の段階です。小我も大我もなく、明白・自然・活発・無碍に存在します。 禅定を修行する際、静座が必須というわけではありません。禅定の修行には多くの方法があります。静座は一種の基本的な方法であるだけで、禅の開悟は、開始するとき、静座だけでなく、静座の基本訓練が必要なだけです。実際、念仏・読経・懺悔・礼拝・祈祷は、必ず心力を集中させ、禅の初歩においては、いかに心力を集中させるかの訓練です。いわゆる「精誠所至、金石為開(誠心誠意思う念力は岩をも通す)」で、「誠」は心力の集中です。心は他のことに気を取られず、ただ一つの念頭を持ち、その念頭に集中するのが、禅定の初歩です。そこで、禅定の範囲を小さく見過ぎないでください。禅定は、一切の修行方法が含まれており、禅は大小三乗及び顕密二教に通じます。 (六)智慧 第六「智慧」、智慧には三つの項目(聞慧・思慧・修慧)があります。聞慧は、眼と耳で見たり聞いたりした一切の修行方法で得た啓悟です。思慧は、物を見たり聞いたり学んだりした後、慎重に考え、はっきり区別した努力です。修慧は、修行の前から説いた布施・持戒・忍辱・精進・禅定の五つの方法の中で得た悟境です。以上の六種の修行方法は、一体であり、その重心は智慧上にあります。しかし、真の智慧が得たければ、必ず他の五種の方法も修行しなければなりません。他の五種を無視し、その中の一種だけを修行するなら、たとえ開悟できたとしても、悟は深くありません。どうして六度は智慧を最後に置くのでしょう。なぜなら仏教の一切の修行方法は、言うまでも無く、修行者の最終目標は智慧であり、智慧を得た後、開悟し、開悟によって人々の煩悩を無くします。智慧を得たいなら、必ず自己の煩悩を解除し、煩悩を解除すれば智慧は自然に生まれ、智慧が生まれたら、煩悩は解除され、これは循環し相互因果です。そこで、修行は深ければ深いほど悟境は高くなり、智慧が深ければ深いほど煩悩は薄くなります。 最後に、皆様の心身の快楽と法喜充満をお祈りします。 ( 1977 年 10 月 24 日 カナダトロント市中山記念堂にて。簡許邦居士録音、張劉佩珍居士記録、本文は《仏教入門》に収録)
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