| 仏を学ぶ基礎 |
一、宗教の常識 世界には、世界規模で長い歴史を持つ宗教が三つあります。インドが発祥の仏教と、中東が発祥のキリスト教とイスラム教です。キリスト教とイスラム教はユダヤ教から派生した宗教です。ユダヤ教は民族性の宗教に属し、現在に至っても変わりません。東方の中国にも道教、インドにもバラモン教とヒンズー教という民族性の宗教があります。現在に至っては、インド人以外でバラモン教とヒンズー教を受け入れる人はほとんどいません。中国の道教は二つの系統に分けられ、哲学に属する系統は、道家と称される老子と荘子で、道術に属するのは金丹派と符ロク派です。金丹派は煉丹(道士が辰砂などで不老長生の丹薬を作る)と煉気(呼吸を整え気を練る)において、内丹と外丹に分けられます。 内丹は錬気功、外丹は錬金術で、金属を精錬して丹薬とし、金丹を食べれば、天に昇り長生不死であると信じられていました。符ロク派は符ロク(護符)を利用し、鬼神の力量を追い払い、この世の問題を解決します。これは道教と称されます。中国の道教は現在に至ってまだ世界的な宗教となっていませんが、世界的な学術上には道家の思想もあります。 仏教は 2500 年前、インドで生まれ、釈迦牟尼仏の死後約 250 年後、世界的な宗教となりました。アショーカ王の縁故により、アジア各地に伝わり、ひいてはヨーロッパまで伝わりました。 東洋世界において、最大の世界的な宗教は仏教であり、現在、世界的に認められている東洋宗教は、仏教のみです。 世界的な優れた宗教は、三つの条件(教主・教理・教団)を備える必要があります。仏教において、教主は釈迦牟尼仏で、教理は仏の説いた経教で、教団は一代一代に伝承する弟子達で組織される僧団です。キリスト教の教主はイエスで、教理は《聖書》で、教団は弟子・信者です。イスラム教の教主はモハメッドで、教理は《コーラン》で、教団は信者です。 世界的な宗教の歴史が長く続くには原因があります。歴史の過程で出現し、滅んでいった宗教の数は知れません。人間が出現してから、無数の人々が、地域性・民族性・部落性・時代性のものなど、無数の宗教の要求と現象を起こしてきました。それらの宗教が生んだ現象は、神霊の神秘経験から来たもので、西洋の古代社会においては、魔女や悪魔として見られ、普及が許されず、東洋においてはよく仏教であると偽称され、そこで正統な仏教には附仏法外道と呼ばれ、それら自身は元々理論も制度も無かったため、現れては消え、現れては消えました。 欧米・日本・台湾・香港・中国大陸の全地域で各種の新興宗教が起こり、信者の数は数十人・数百人・数十万人・数百万人と様々です。 ある程度時間が経ち、その創教者の死去後、その宗教に向けられた関心は次第に弱まり、信者は徐々に減っていきます。このような宗教は、アメリカの華僑社会にも多くの発見があります。
二、仏教の歴史と現在の情勢 ( 1 )インドが発祥の仏教 仏教はインドで生まれ、インドの仏教は合わせて三つの時期に分かれます。まず、釈迦牟尼仏がこの世にいた時期と、釈迦牟尼仏の入滅後のしばらくの時間であり、原始仏教期と称されます。それは非常に地味で、質素な仏教でした。釈迦牟尼仏は祭祀の迷信と偶像崇拝に反対し、人々は教えと戒律に沿って取り組むべきで、個人を神として崇拝するのではないと主張しました。仏は常に「私は指導者ではなく、私も僧の一分子です。」と言い、素朴な理念と方法で、衆生から心身の苦難を解脱すべく助けました。仏経の対象は人であり、人を済度するためにあります。 仏滅後三・四百年頃、仏教の思想は徐々に地域性と思想性の変化を生みました。インドの異なる気候・言語・民族により、伝わった仏教は思想形態において様々な変化を生みました。異なる師が各地で布教を行う際、当時当地の社会大衆の要求に合わせて、異なる思想と異なる形態の流派、いわゆる部派が生まれました。部派仏教の時期は、理論の整理と観念の究明を重視し、個人解脱を重視する傾向がありました。そこで、部派仏教は、その後の大乗仏教に「小乗」仏教と評価されるようになりました。それ自身はまた大きく分けて、比較的保守的な上座部と比較的開放的な大衆部の二部派があります。 小乗は、自己一身の解脱のみを求めるという意味ですが、小乗仏教も人々に修行を勧め、仏法を広めます。例えば、自分は小さな車を所有しており、他人にも小さな車を差し出します。受け取った人はこの車に乗り、涅槃(寂滅)と生死を証明し、他の人にもこのような車に乗り、涅槃と生死の証明を勧めます。そこで、小乗法は大乗法の基礎といえます。 大乗仏教は、仏滅後五百年から千年の間で次第に仏教の形となりました。仏教が最初に強調したのは、広く衆生を済度するため、また仏道を成就させるため、大きな菩提心を発すべきだということです。大菩提心の意味は、「衆生の離苦を願い、自身の安楽を求めず」です。 インドの大乗仏教は、般若の思想による中観学派、唯識の思想による瑜伽学派、唯心の思想による如来蔵学派の三派に分けられます。この三大学派は二類に分けられます。第一は空で、中観派と呼ばれ、第二は有で、唯識の有と唯心の有に分けられます。唯識の有は瑜伽派と呼ばれ、唯心の有は如来蔵派と呼ばれます。 ( 2 )仏教はインドから北方に伝わる 仏教はインドから北方に伝わり、中国の中央地域の漢民族の文化圏と、中国の辺境のチベットとモンゴル文化圏の二系統に分けられます。仏教が初めて中国に伝わったのは西暦 67 年前後で、迦葉摩騰(かしょうまとう)と竺法蘭(じくほうらん)の二人の仏教僧が、勅命によって洛陽白馬寺で訳したといわれています。最初の一部の仏教が中国に伝わり、漢文に訳されたのは《四十二章経》です。 一千年を隔てた漢文の伝訳により、中国の漢民族仏教が形成されました。漢民族の仏教は外国にも伝わり、まずは韓国に、続いて韓国から日本に伝わり、日本が韓国を経由して中国の仏教を得たのち、法を学ぶため中国に使を派遣しました。隋唐から宋明に至り、日本に中国の仏教の各宗各派が伝わりました。中国の多くの仏教経典は、三武一宗教等での教難の後、破壊されましたが、日本にはそれらが保存されており、この点では私達は日本に感謝すべきです。韓国と日本以外にも、ベトナムにも大乗仏教がありますが、これも中国から伝わったものです。 中国の仏教は、通常は大小乗十宗として知られています。小乗仏教には倶舎宗と成実宗の二宗があります。その後、倶舎宗は唯識宗に、成実宗は三論宗に併入され、大乗八宗(天台宗・三論宗・華厳宗・律宗・浄土宗・密宗・禅宗・法相宗)のみが残りました。この八宗派の中で、現在、勢力が最も強いのは禅宗と浄土宗です。実際には、中国の寺院の多くは禅宗に属しますが、禅修行のみで、念仏を唱えない寺院がとても少ないため、禅浄双修の法門ができました。天台宗・唯識宗・華厳宗の大半は学問の研究に属し、専修の寺院と信者は多くありません。全出家者は受戒が必要で、現在では律宗寺院でのみ伝戒が可能というのではなくなり、僅か少数の持律・学率の僧侶がおり、特定の不変的な律寺はありません。 1949 年以前の中国大陸には、真正の律宗寺院はわずか数箇所しかありませんでした。密宗は唐朝に中国に伝わり、その後中国から日本に伝わった後、中国の密宗はなくなりました。中国人が密宗を好まない理由は、中国の儒教の思想と関係があるかもしれません。密宗の加持・神力・咒力等の観念は、中国儒教思想の角度から見るととても特異な現象だったため、漢語文化圏の中国では流行しなかったのです。 西暦七世紀、インドから北方に伝えられた後期大乗仏教のもう一つの系統は、チベットに伝わり、その後モンゴルに伝わった、チベット・モンゴル文化圏の仏教です。当時のインド仏教は、すでに密教の盛行期で、チベットに伝わった後、次第に当地の人達の要求に適応し、原住民の宗教信仰と結合し、現在のチベット密教になりました。密教はインドにおいては、唯心系統の仏教に属します。 ( 3 )インドから南方に伝わった仏教 紀元前 240 年、仏教がインドから南方のスリランカまで伝わり、もう一つの系統になりました。その後、ミャンマーに伝わり、そこからタイや東南アジア地区のラオスやカンボジアにも伝わりました。これは上座部の仏教に属します。元々当地には優れた宗教がなく、また哲学思想の文化背景も無かったため、仏教が伝えられた後も大きな変化はありませんでした。そこで私達は、比較的地味な仏教を理解することで、南伝地区において若干の形跡を見つけることができます。 ( 4 )仏教は欧米と全世界に伝わる 仏教は欧米にも伝わり、最初に伝わった仏教は南方上座部系に属します。特別なのは欧州キリスト教の宣教師達が、植民地主義の政治の勢力に従って東南アジアと西南アジア地区にわたり、当地の仏教に接触し、その時期に仏典がヨーロッパ言語に翻訳されました。例えば有名な《世界仏教聖典》の翻訳は、南伝のパーリ文の三蔵(仏教経典の経・律・論の総称)を主とします。優れた仏典なので、皆さんも是非ご覧下さい。 次に欧米に伝わったのは日本の禅です。日本の仏教も多宗派があり、その中の浄土真宗と日蓮宗が日本本土の文化の宗教となっています。ただ、日本の禅宗のみが中国が伝えた風格を比較的保っており、欧米人が受け入れを希望しているのは日本の禅です。初期にアメリカに伝わった日本の禅で、最も貢献した人は鈴木大拙氏です。彼はまずコロンビア大学で禅の講演を行い、その後彼の禅の思想は全米と欧州を風靡しました。日本の多くの禅師がまずサンフランシスコに上陸し、その後東部に移動し、現在では中西部にも伝わっています。現在、日本の禅はヨーロッパにも伝わっています。 次に欧米に伝わった仏教は、チベット系の密教です。 1953 〜 1958 年の間で、ダライラマは数万人をチベットからインドに率いました。若いラマ僧達は、非常に努力して英語を学び、世界各地に移民したため、欧米の多くの場所にはチベット人の形跡があります。これらの移民したラマ僧達の多くは、長時間修行・訓練をしてきた優秀な人達です。彼らは 7 、 8 歳から修行を始め、規律層の仏教教育を受け、 20 歳を超えたラマ僧はすでに法利生を説くことができました。私がアメリカに行ったばかりの頃、当地の言語学会に参加していた移民したばかりの若いラマ僧を見かけて、恥ずかしく思いました。なぜなら私の英語は彼らの英語に及ばなかったからです。 チベットのラマ僧の適応力は非常に強く、また、彼らが海外で宗教を伝える主な対象は現地の人達です。 70 年代以降、チベット仏教は徐々に世界の舞台で注目される一派となり、チベットセンターが多くの場所で設立されており、ダライラマが世界各地を回り、至る所でセンセーションを巻き起こしています。イギリス留学後にアメリカに渡った、 Trungpa というラマ僧は、コロラド州デンバー市に NaropaInstitute というチベットセンターを設立し、 4 、 5 年の間に、アメリカ国内に 130 余りの支部を設立しました。しかし、 1988 年の彼の死去後、これらのセンターは徐々に衰退していきましたが、彼の著作は今でも相当な影響力を持っています。 漢語系の仏教はお恥ずかしいことに、アメリカに移民した仏教徒は、今なお華僑社会の中で活動し、ヨーロッパまで布教に行く人はいません。それは中国仏教には系統と計画の教育(基礎の教育・段階の教育・高等教育)がないからです。中国の仏教は、私達出家者が無能というのではなく、実際に優れた教育を受けていないのです。そこで、私達が仏教教育を行い、弘法利生(正法を弘めて人々を救済)の人材を育成する必要があります。私達の中華仏学研究所において、日本語と英語は必修科目であり、研究所の卒業生に、国際言語を活用してもらいたいと思います。世界的な布教から言うと、中国仏教はまだ開始したばかりです。 歴史から仏教を見ると、かつて宗分派がいくつかに分派した経歴があります。現在、各宗各派の仏教徒は、皆が自分の地域を出ようと試み、共同の世界に向かって歩むようになり、次第に再び一つに集まろうとしています。かつて、小乗仏教は大乗仏教を罵り、大乗仏教は小乗仏教を罵り、小乗仏教は大乗仏教は仏教でないと言い、大乗仏教は小乗仏教は利己的だと言いました。また、チベット仏教は顕教(天台・華厳・禅・浄土の諸宗)は修行を理解せず、修行の方法が無いと罵り、漢地の顕教はチベットの仏教は神鬼を利用した仏教だと罵りました。このようにお互いを罵る現象がありましたが、これが改善されつつあり、お互い理解・学習をしようという傾向があります。チベット仏教には私達の仏教にない物が多くあるため、私達の研究所において、専門的なチベット文字の訓練を行っております。計画は、チベット文の仏典を一つ一つ漢文に翻訳することです。台湾の妙林仏学研究所では、南伝パーリ文三蔵の漢訳を行っています。
三、仏教と基本的な教義 ( 1 )仏教は三宝を中心とする いわゆる三宝とは、仏・法・僧を指します。仏教は「仏」より名前を取り、釈迦牟尼仏は無量世の修持を通し、最終的に成仏しました。彼の成仏の過程・修行の方法・修行の道理を説いたのが、「法」宝です。仏がいなければ法はありません。しかし、仏は一人しかおらず、広く衆生を済度することは無理でした。それに仏がこの世を去った後、凡夫は仏の存在先を知らなかったため、仏法を学びたければ「僧」から学ぶ必要がありました。僧には、聖僧と凡夫僧がいます。初地以上の菩薩と初果以上の出家者が聖僧で、一般の出家者は凡夫僧で、仏法の住持は凡夫僧を主とします。聖僧は凡夫群の中から現れ、凡夫身・凡夫相で凡夫に接触し、凡夫を教化し導きます。そこで、仏教史上、菩薩・仏・聖僧と呼ばれた人物は、全て彼ら自身が名乗ったのではなく、彼の弟子が言ったか後代の人が言ったのです。インドの馬鳴・龍樹・無著・世親は皆、後代の人に菩薩と呼ばれていましたが、彼ら自身は自分を聖者とも菩薩とも名乗りませんでした。中国の天台宗の智者大師は、その後東土小釈迦と呼ばれましたが、彼自身は自分が六根清浄を得ていない凡夫であると言いました。永明延寿禅師は、その後阿弥陀仏の再来だと言われ、彼の誕生日の旧暦の 11 月 17 日を、阿弥陀仏の誕生としています。しかし、永明延寿禅師も決して阿弥陀仏と名乗りませんでした。事実上、ある人が自分を聖人や仏と名乗るなら、それこそ問題です。 ( 2 )仏教は四聖諦を基本教理とする いわゆる四聖諦は、苦の事実、苦の原因、苦滅の方法、苦滅後に得た結果です。人生はこの世に生死あり、苦あり楽ありです。しかし、楽は苦の代価であり、苦の開始でもあります。いわゆる苦が過ぎれば楽が来るなどの言葉は、楽自身を説明し、苦でもって変えられ、楽の状況は長くは続かず、仏法では壊苦と称されます。また、その他の生・老・病・死などは、苦苦と呼ばれ、人生の事実自身は、苦果です。苦の種類はとても多く、苦苦には八種類(生・老・病・死・愛別離苦・求不得苦・怨憎会苦・五蘊熾盛苦)あります。五蘊熾盛は心身相互の圧迫と生死の連続を指します。 苦の原因は「集」と称され、自己が世の中の一切は全て偽りと考え、厭苦欣楽を理解しないため、楽を手に入れ、安全を求めても、永遠に安全と感じません。それは欲張りで飽くことを知らないのです。地獄の沙汰も金次第ということで、懸命に金儲けをします。お金持ちがお金を使おうとしないなら、貪欲な人がそれを死に物狂いで追いかけます。これらは全て苦の原因です。生きている間、苦を避け楽を求めようと、殺人・盗み・邪淫・妄語等の様々な業を行い、因縁によって様々な報いを受け、善有善報、悪有悪報となり、これが苦の原因となります。下に、私達が講じる苦滅の方法を書きます。 苦滅の基本方法は、八正道です。私達は離苦し、正道を修すべきで、正道を修す際、正知正見を供える必要があります。世間の一切の現象は皆、因果の定則であると深く信じます。世間の一切の現象は皆、因縁により成り立つものであると考えます。因果は、小さな得をしようとか自分の行為に対して無責任ではないと信じます。また、真に離苦し成仏するには必ず自分で努力する必要があると信じます。世間一切の事物は全て縁によって生起し、無常なもので、勝っておごらず、敗けてくじけずです。また、成功は全ての人の助けから、衆縁により成り立ったもので、全ての成就も、常に変化します。例えば、私達は現在、煩悩の凡夫であり、将来は成仏する可能性があります。仏は、大慈悲・大智慧で、一切の衆生自身の善因縁・善福得を啓発し、衆生を済度します。因果を信じ、因縁を理解することこそ、正知正見と正思惟です。 正知正見を有した後、正確な修行が必要です。第一に、正当な職業が必要で、殺・盗・淫・妄・酒の五事に関係する職業は、出来るだけ避けなければなりません。第二に、正当な生活方式が必要で、食・飲・売春・賭け事等の贅沢で乱れた生活に深入りしてはいけません。第三に、正当な言語行為が必要で、妄想・二枚舌・悪口・粉飾の多い言葉はいけません。これ以外にも持戒の努力、修定の努力、智慧を求める努力を怠らず、他人に損を与える事は絶対にせず、他人に利益を与える事をしなければなりません。これが菩薩戒の精神です。持戒清浄は、禅定の方法で、心身を常に平衡な状態に保たせることで、自信が堅固になります。懸命に経典を唱え、仏法を聞く等の法修行では、智慧の開発ができ、智慧を有し、苦滅ができます。 苦滅以降に得た結果は、小乗仏教から言うと生死解脱で、この凡夫世界の生死中から出離したものです。大乗の解脱は、凡夫の世界で衆生を済度し、凡夫の煩悩に混乱されないことで、これを大涅槃と呼びます。
四、仏教の特色 仏教の特色は、寛容で段階を有し、正信で迷信的でなく、神聖で神秘的ではないところです。 ( 1 )寛容で段階を有する 仏教は「法」で救済するのであり、人や神が救済するのではありません。仏法の世間に対する一切の法には偏った見方に固執しないため、無我・慈悲・智慧です。そこで、世間の一切の善法は仏法であり、いかなる社会の人心と生活の助けとなる宗教・哲学・知識・技能は排除しません。そこで、仏教は世間全ての善法を寛容に見ます。 仏教は善法を五つの段階(人・天・声聞・縁覚・菩薩)に分ける事ができます。 人は完璧な人格を備えることを指します。人を尽くす責任と義務、これは最下部の条件であり、これに加えて利他布施の修行を行えば、もちろん更にいいです。行善の定義は、貧しい者は自分の事だけを考え、裕福な者は天下に善事を行い、独善は人の善法で、兼善は天の善法です。人天の規準を備え、それに禅定と智慧等の修行を加え、最後に解脱を得て涅槃に進入するのは、声聞と縁覚二乗の段階です。人天の善法を基礎として、大菩薩心を発し、永遠に終わりなく他人の利益のために努力し、お返しを求めず衆生に服務・貢献します。これは自覚覚他(自らの覚りを実現するとともに他を覚りの世界に導く)であり、大乗菩薩の段階で、菩薩の最高段階は仏で、これは以上に述べた四つの段階を基礎とし、空・無相・無願の境界を得たものです。 ( 2 )正信で迷信的でない 「迷信」には四つの特徴(盲目崇拝・不合情理・似て非・邪正不分)があります。 「盲目崇拝」とは、他人の受け売りであり、ある人の神通力が凄いと聞き、理性の思弁を経ずに殺到することです。これは、例えばある時、ヤクザの方が警察よりも頼りになると聞いて、ヤクザに助けを求めるようなものです。ヤクザは一時的に警察より役に立つかもしれません。貴方のために当面の問題を解決しますが、その後遺症は察して知るべきです。 「不合情理」とは、因果の原則に背くことです。例えば、「稲は雨なくして生えず、人は悪銭なくして富ならず」を信じ、手段を選ばず、大いに商売のチャンスを狙い、不合理な利益を図り、高利貸し付けなどをする、これらは全て不合情理です。もたらされる結果は、恐らく地位も名誉も失い、ひいては家の財産を使い尽くし、一家が没落四散します。また、鬼神に媚びたり賄賂を送ったり、道家の秘文やまじないの言葉で悪銭などを求めたりして、一時的にお金持ちになれたとしても、それは来るも速く、去るのも速いです。不合情理のものは、神や鬼や人の力量を借りようと、それが因果の道理に合わないため、迷信なのです。 「似て非」は、いかなる宗教にもそれらの道理があります。神の力量や加持の力量に頼り、それを信じそれに従いさえすれば、必ず効果があり、成仏するように言えば、すぐに開悟し、病気を払うよう言えば、無病息災になると言う人がいます。彼らの万霊保証書の見かけは立派で、「似て非」の理論ですが、本当の原因を嫌い話しません。このような宗教に対しては、将来の災いとならないよう、出来るだけ慎重にしたほうがいいです。 「邪正不分」とは、鬼神現象が作り出した迷信で、邪正を分けないことです。鬼神はよく霊媒や占い台等のツールを通して、人に善をなすよう勧め、人を誘い信服させます。そして、その門まで進むと、素直に従う者は繁栄し、逆う者は滅び、脅したりすかしたり、貴方を怖がらせたり、手なずけたり、そこから離れようとするなら、心身の障害や家庭と仕事において悩みが生じます。彼らの考えは標準外で一般人と異なり、因果観念も曖昧です。仏教の「正信」とは、仏・法・僧の三宝を信仰の対象とすることです。仏を信じることは仏陀の肉体を崇拝することではなく、仏陀の智慧と慈悲、そして仏陀が私達に残した恩恵を崇拝することです。 仏陀の教法を信じ、教に従い実行し、自他を利する目的を達成させます。釈迦牟尼仏が涅槃する時、ある弟子がこう聞きました。「貴方が入滅したら、私達はどうしたらいいでしょう?」仏はこう答えました。「貴方達は法を師とし、戒を師とすべきです。」仏の説いた正法に頼り、自信を持って法の修行をすれば、解脱が可能で菩薩が証明されます。 教団の比丘と比丘尼僧を信じることは、僧から代々にわたって相伝し、法を伝え戒を受け、僧は三宝を代表して仏法を住持することです。僧宝を正信の対象とすることは、出家者を神格化するのでははく、出家者は法を師とし、戒律に従い、定と慧で自修し、また他に修行するように教え、例え彼らがまだ成仏せず、開悟しないとしても、出家者の形象は、既に仏教のために清浄離欲の特徴を作ります。 正信とは、仏・法・僧の三宝を信じることで、一つも欠けてはなりません。仏のみを信じ、法と僧を信じないなら、それは鬼神を信じることと同様です。法のみを信じ、仏も僧を信じないなら、それは本好きと同様です。僧のみを信じ、仏と法を信じないなら、それは義理の家族に敬意を示すのと同様です。仏・法・僧の三宝を備えて初めて、正信の仏教と呼べます。 ( 3 )神聖で神秘でない 「神秘」は容易に到達できませんが、その威力は感じ取ることができます。至る所でコントロールできますが、それはどこから来ているのかわかりません。いつでも世話をしてくれますが、何が理由かわかりません。いつでも懲罰しますが、それを探しても見つかりません。いつも普通の能力を超えるようにしますが、本当に役立つとは限りません。これらの現象は、ある物は人が作り出した幻術で、ある物は自分の心理異常から来る物で、ある物は本当に神鬼の霊力が生んだ物です。 仏・法・僧の三宝は神聖です。仏は偉大な人格の慈悲と智慧を持つ究竟の円満者です。法は煩悩を除き菩薩を証明する道理と方法です。僧は自ら上に無上の正等正覚を求め、下に無上の衆生を救う修行者です。この三者は皆、一般世間の宗教には及ばず、不可思議な神聖であり、鬼神が生ずる神秘ではありません。仏教とは無上の菩提心を発すべきで、仏を学び、法を修し、菩薩道を行じ、仏法で衆生を助け、衆生に生じた悪を即断ち、生じていない悪を起こさせず、これで衆生に即苦から離れさせます。それに、衆生が生じている善を増長させ、生じていない善を速生させれば、衆生にすぐに安楽が訪れます。自己の安楽を求めるのではなく、衆生の安楽を求める、これは無我の大菩提心です。大菩提と生き仏の形象で人を戒め導く必要はなく、衆生相をもって衆生に仏教を学ぶことを勧めます(神秘の手段を使わずに衆生相で勧める)。そこで、神聖とは神秘とは異なります。
五、仏教と非仏教の違い ( 1 )無神と有神の区別 仏教は無神論の宗教ですが、唯物論ではありません。仏教では衆生が接触する一切の現象は、皆因縁起・因縁滅であると主張します。この世界の形成は、この世界に生まれた衆生から、過去に作られた様々な業、また影響を受けた結果であり、これは「業果」や「業報体」と呼ばれています。共同の環境は、共通の業によるものです。各人の環境と心身は、各自が作り出した別業によるものです。衆生が自分で作り、神の創造ではないため、無神論の宗教だからです。しかし、仏教は決して各種の神鬼を否定するわけではありません。仏教が講じる神鬼は衆生の類別であり、宇宙の支配者ではありません。 仏教以外の宗教は皆、有神論者であり、三種類の段階があります。 1. 原始形態の多種信仰:宇宙間の全現象には各種異なる神が司ると考えられていました。例えば、長江には江の神が、海には海の神が、堀には堀の神が、厨房・便所、また草や木に至るまで全てに神がおり、管理していると考えられていました。これらの神と神の間には、指導者がおらず、互いに何の関係もありません。 2. 中央集権式の多神信仰:例えば中国の道教やインドのバラモン教は、衆神の上に一人の最大の神がおり、全ての神を統轄します。中国の道教は元始天尊で、玉皇大帝とも呼ばれます。インドのバラモン教は大梵天で、シヴァ神とも呼ばれます。 3. 唯一神論の宗教:自分が信じる宗教が唯一の創造と壊滅宇宙の主宰神であり、他の一切の霊界霊体の神は全て悪と信じる宗教。例えば、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などです。 ( 2 )浄化と神化・俗化の違い 「神化」は、仏教以外に、他の全宗教が有する特徴です。信者は、神が世の中の禍福を支配すると信じ、自分の運命全てをよくわからない神に手渡します。ある宗教では神は全知全能であると信じ、私達を天国にも地獄にも行かせると信じています。罪を犯せば天国にいけないとか、善を行えば地獄に落ちないとかではなく、神を信じるか信じないかで決まるといいます。つまり、信者は天国に行き、非信者は地獄に落ちるということです。このような人達は信心が堅く、往々にして多くの修養を積んでいても、現実に目を向けることを嫌います。他にも、神の力量に頼り、自己が修行を積み成神するという信仰もあります。仏法外道に付け加えて言うと、彼らの加持力で身を修養鍛練し成仏できます。これらの神化の宗教は、金が無い時、闇金融で借金するのと同様です。一時的にはお金はありますが、それは自分のお金ではありません。その場しのぎの応急措置をとるように、一時の問題は解決しても、もたらされた問題は、結局は解決できません。 「俗化」の信仰に至っては、神に賄賂をおくり神明を切に願い、世俗間の皆が必要とする目の前の利益を求めます。財神に拝んで発財(金儲け)を求め、注生娘娘(生育の神)に拝んで息子を求め、媽祖(海上・航海の女仙人)等の海神に拝んで海上平安を求め、占い師に問い黄石公を求め、更には宝くじに当るために土地神に求め、節句を祝い祖先を祭り、慶事祭神は子孫の平安加護を望みます。これらは俗化の信仰です。 俗化の民間信仰や神化の各級宗教にもある程度の作用があるため、仏教はこれらを否定しません。しかし、浄化の仏教を肯定することで、世道人の心に更に役に立ちます。仏教は、仏・法・僧の三宝により世の中を導き、また、不殺生・不窃盗・不邪淫・不妄語・不飲酒等の五戒で世の中の身口行為を浄化し、更に禅定で私達の心理行為を浄化し、更には理性の智慧で自己を処し、他人に利益を与えます。教えに忠実に取り組めるなら、自己には心身健康を、他人には家庭円満や社会安寧が与えられます。仏教のこの世の浄化も、神化の機能と俗化の力量を備えており、神化と俗化の偏りにより個人の悩みや社会のバランスを崩すということはありません。
六、基礎的な修行方法 仏教の化世機能とは、仏法でこの世を浄化し、人品を高め、衆生に現世の利益と後世の安楽を得させることです。この目的を達成するためには、仏陀の説く教法に従い実践・修行します。 基礎的な修行方法は、福業・定業・慧業です。福業とは布施と持戒を、定業とは禅定を、慧業とは智慧を指します。「布施」と「持戒」の功徳を修することで、人天福報が得られ、更に仏果成就が可能です。仏陀のみが福智円満な人と称することができます。「禅定」の功徳を修することで、現実の生理健康と心理の平衡が得られ、命終の後、禅天、梵天に生まれ、更に仏果が成就可能で、仏陀の禅定の境が最高となり、そこで「如来常在定、無有不定時(如来は常に定に入り、禅定に入らないことはない)」の功力を持ちます。深定と大定があることで、大慈悲と大智慧が生まれます。「智慧」の功徳を修することで、現世で少欲知足(欲を少なく足るを知る)・少煩悩(煩悩を少なく)、それに加えて離苦・断苦で解脱が可能で、最後には大智深慧で無量の衆生を済度できます。 ( 1 )いかに布施を修するか 人類は生活の保障と生命の安全のために、随時貯蓄の観念と習慣を身につけなければなりません。貯蓄の方法には有限と無限の二種類あります。有限は財産を銀行に貯蓄する方法で、無限は財産を社会に貯蓄する方法です。前者は個人と家庭の安全を保障するためのもので、後者は全体社会の安全を保障するものです。個人は全体を離れないため、両者の貯蓄は共に個人に利益をもたらします。 貯蓄の時間にも二種類あり、現世の貯蓄と永久不変の貯蓄です。現世のものは即身の自我において返報を得、永久不変のものは無限の未来において不尽に享用します。一般の銀行預金と現実の社会福利は共に、直ちに効果が現れるため、これは現世の利益と貯蓄向けです。仏教の弘化事業、三宝護持は、仏法で無尽蔵の貯蓄である人心を救済します。一個人が 10 人に仏法を伝えることで、 10 人が益を手に入れるだけでなく、その各々が 10 人に伝えればそれは 100 人となり、 100 人が現世の現在の社会と世界に対して仏法を伝え、後世では無尽の未来社会に対して仏法を伝えます。仏法が到達した場所では、仏法が広く伝わった時、貴方の功徳も広く伝わり、それは永久不変で普遍的な貯蓄ではないでしょうか?そこで、私達は一生懸命貯蓄すべきで、雨だれ石を穿つ(何事も根気よく努力すれば必ず成功する)の方法で、ちりも積もれば山となり、来る日も来る日も続け、私達の有限の物力・知力・体力・心力で絶えず修行を行い、布施の功徳を修します。現在のためにもちろん布施が必要で、永久不変のために更に布施が必要です。布施功徳のみが最も容易に取り組め、力と心に任せることができます。貧乏と病気に布施を行うのは大功徳です。仏法を擁護し、弘法の人材を育成すれば、功徳は更に大きくなります。 ( 2 )いかに持戒を修するか 持戒の目的は過ちを改めることです。過ちを改め、一切の悪業を避ければ、離苦の果報が得られます。過ちを改め、一切の善業に努めるなら、幸福の果報が得られます。離苦得楽だけを求め、心身行為の方面から適切に過ちを改めないなら、常情常理の因果定律と異なります。 仏法は人に持戒の内容を教えます。それには二種段階があり、自利自保の五戒と利楽衆生の四種精進です。前者の五戒が示すのは: 1. 不殺生、主に人を殺さない。 2. 不窃盗、主に分不相応な物と不義の金を取らない。 3. 不邪淫、主に社会秩序に背かない、世の中の倫理に背かない、家庭を害さない、健康を損なわない。 4. 不妄語、主に他人を害する言葉を使わない。 5. 不飲酒、麻薬をこの中に含むべきで、主にアルコールと麻薬に手を出さず、自制能力を失い殺・盗・淫・妄の犯罪行為を行わない。 後者の四種精進は、四正勤とも称されます。それはつまり、一切の悪を除き、一切の善を修すよう他人を導き、また七仏通誡偈の説いた最初の二句、「諸悪莫作、衆善奉行(悪事はせず、善事を実行せよ)」です。すでに行った悪令は中止し、まだ行っていない悪令は行わず、すでに行った善令は増長し、まだ行っていない善令は修行します。努力を怠らず、この四句を修行することが、四種精進と称されます。前の二句は衆生の苦しみを断つためで、後の二句は衆生に幸福をもたらすためのものです。抜苦予楽は、正に大悲心の菩薩行です。いかにこの世の人を導くか、この四句を修行すれば、まず現世の利益と現前の利益で人を感動させ、その後貴方を受け入れ信じるようになるでしょう。そこで、通常布施から取り掛かるのが便利です。 ( 3 )いかに禅定を修すか 禅定の意味は、心無二念で、練習を開始する際に必ず方法があり、方法の作用は、心念を散乱状態から集中状態に導き、集中状態から統一状態に導きます。統一状態に達したものは定と称されますが、統一状態にも異なる段階があります。心身の統一から内心と外境の統一で、更に一歩進んだのは、前念と後念の統一です。前念と後念の統一が必須なら、念を何度も繰り返す必要があります。その後、前後に念じた間隔が消化でき、一念の存在のみが残り、この時、一念に集中し、これを定と名付けます。その一念が頭から生じない時、すなわち定は慧です。 禅定を初めに修行する際、礼拝・経読・念仏・持咒・梵唄・経行等の方法を用いても可能で、これで安心・静心・浄心の目的に達します。主に修行において心身が平衡に保て、定の効果です。優れた技能を持つ老師がいなければ、以上の各項目が、仏経中至る所で見られる修定方法であり、安全で信頼でき、何の副作用も後遺症も生みません。しかし、これらは全て、散心で定を修(修定)します。 禅定の経験を持ち、仏法に対して正知正見を具える師に出会えば、師について余念なく修定の方法が学習できます。それは禅観法や止観と呼ばれる方法で、禅宗は参禅と呼ばれる方法です。 禅観の方法は、調身の姿勢、調息の呼吸、調心の専心を厳守します。身体の筋肉を解すことで、頭の神経をリラックスさせるのが基本的な要求です。正しい姿勢には、行・座・立・臥の四種があり、気楽かつ端正を原則とします。正しい呼吸は、自然の速度を原則とします。正しい専心は、方法だけに配慮し損得を問わないのが原則です。もし企図心が強く、目前の成功と利益を求めようとするなら、魔境の混乱を招くでしょう。仏来仏斬・魔来魔斬の心の準備をして初めて、安全です。斬仏斬魔の意味は、喜ばしいことや恐るべきいかなる光景や感受が出現しようとも、それを幻の現象や幻覚として処理することです。それでも悪境に遭い退心が生じやすいなら、三宝を誹謗し、修行しても良報が得られません。善境に遭い慢心が生じやすいなら、大神通を得、聖果成仏が証明されたと公言し、これは非常に哀れです。 ( 4 )礼拝と経読 礼拝と合掌の方法は異なります。その動作を行うには、法師や居士に直接模範を示してもらうのが最適です。 礼拝とは何でしょう?なぜ礼拝なのでしょう?初めて仏門に入る人は、何か目的を持って礼拝するか、形ある物(仏像)に礼拝します。平安・智慧・幸福を求めるのは、正常の意識です。有相とは、対象と目的があることを指します。仏菩薩聖像に向き合う、或いは特定の仏経に対し、毎日定時に決まった回数礼拝し、自他のために、業障と煩悩を取り除きます。仏を学んですでに長く、無求無相が修行の究竟の目標であると知っており、毎日型通りに仏菩薩の聖人に向かって礼拝しますが、これは永遠の課題です。 仏経は時間と目的によって選んで唱えます。通常仏教徒が唱える経典は、《心経》、〈普門品〉、《阿弥陀経》、《金剛経》、《薬師経》、《地蔵経》、があり、比較的時間が長くあれば、《法華経》、《華厳経》を唱えます。経を唱える際、一人であれば木魚を使っても使わなくてもよく、二人以上で同時に唱える場合は、必ず木魚を使います。できれば一組の経を確定し、一定期限内にいくつか詠み終えるようにし、今日この経を唱えず、明日は他の経に換えるようにします。経を唱えるのは求解のためではなく、字音が正しいということだけを求めるのであり、何ゆえの経義かを知る必要はありません。 看経(経文黙読)とは、経書の意義を理解するために行い、上記の諸経以外に、《無量寿経》、《観無量寿経》、《楞厳経》、《円覚経》、《勝鬘経》、《維摩経》、《楞伽経》、《解深密経》、《涅槃経》、《大般若経》などを読みます。私自身は四種の《阿含経》から始め、その後、順番に《雑阿含経》、《増一阿含経》、《中阿含経》、《長阿含経》を読みます。論典には《大乗起信論》、《宝性論》、《倶舍論》、《瑜伽師地論》、《中論》、《大智度論》、《六祖壇経》等があり、これらの経論を読み終えれば、貴方は仏学通となります。 ( 5 )念仏と持咒 念仏と持咒は、本来は修定の方法の一つでしたが、浄土教及び密教が独立して派を成した後、修定の方法と分家しました。全体の仏法の立場から言うと、依然、互いに呼応しています。 念仏を唱える方法は、阿弥陀仏のみでなく、一切の仏と菩薩の聖号を含んでも構いません。例えば、一週間阿弥陀仏のみを念じるのは、弥仏七と称され、薬師仏のみを念じるのは、薬師七と称されます。他にも、弥勒七・地蔵七・観音七・文殊七・普賢七等があります。 念仏の唱え方には、大きく分けて、散心念と専心念の二つがあります。散心念とは、いつでもどこでも、声を出すか心の中で念仏を唱え、誰かと話をする時も一方で常に念仏を唱えることです。専心念は、特定の専修期間で修する方法で、通常は連続念・高声念を用い、自分でその声念を聞き、印光大師は人々に数数の念を勧めます。数数(数を数える)と計数(数を数える)は異なり、計数は数珠を用いて計算し、数数は、仏号を念じる毎に、心の中で数を数え、十念じる度に再度一から数えます。このように循環することで、集中できます。「一心不乱」に念仏し、必ず念仏に専心し、散心(集中しない)で念仏を唱えるのではありません。 また、多くは持咒は密法の修行だと考えますが、実はそうではありません。正規の密法は、上師から代々相伝するもので、必ず儀軌修法があります。一般の持咒は、仏の名前を持して唱えることと類似しており、そこで顕教(天台・華厳・禅・浄土の諸宗)各派において、明朝時代以下の中国禅宗でも多く明咒を用います。持咒は、口で唱え、耳で聞き、心で考える法で、身口意の三業と相応し、持咒は真に効果があり、それも定の一種です。散心で持咒しても、功徳と感応が得られます。どんな持咒を持するのでしょう?それは、それぞれの心、習慣、及び因縁によって決められます。通常の人は〈大悲咒〉、〈観音咒〉、〈準提咒〉、〈吉祥咒〉、〈薬師咒〉、〈地蔵咒〉、〈往生咒〉、〈楞厳咒〉等を多持します。数珠で数えながら念じても、時間を数えて念じてもいいです。 ( 6 )いかに智慧を修すか 大小乗経論に基づいて紹介される智と慧は、異なる点があります。「智」には、世間智と出世間智があり、世間の知識と世間の聡明才智は「我」を中心とします。固体の小我もしくは全体の大我であろうと、共に我を脱離しておらず煩悩に固執し、そこで世間の有漏智と称されます。自己中心の一切の心理や精神の働きを超えることは、出世間の無漏智と称されます。 開悟とは、無漏智の機能の現れで、開悟時に自己に対して煩悩と執着を断ち、開悟後に衆生に対して法雨(仏法の恵みが慈雨のように人に降り注ぐこと)を施し、苦難を救います。自他を度し、自知自覚することは、無我で無衆生です。 「慧」には、聞・思・修の三種あります。三慧とは: 1. 聞慧は、仏法を聞き、仏教経論を読み、仏法の説く道理と修行の原則を理解することに基づきます。 2. 思慧は、聞いた内容で得た智慧であり、法に従って修行し、更に経典の教えに従いながら、修行する過程で得た体験です。 3. 修慧は、思慧から更に一歩進み、経典の教えに従わず、重要な境界を目前とする時、経典の教えに相違はありません。 ( 7 )誰が正知正見を持つか 最初に仏法を学ぶ人は、正知正見を持つ法師や居士の説法を多く聞き、仏経経論を多く読み、正統仏教の現代著作を多く読み、同時に理解によって修行を始める、すなわち、仏門に入ることで、知恵を開く最適の手段です。 正知正見を備える法師と居士が誰かというと、人の立場と理性の角度から判断すると、神話や霊の話ばかりする人は、よく神通を表現したり神秘を話す人で、自分を聖・仏・神・菩薩と言う人は、占い(こっくりさんの類)で霊を呼んだり、霊を開き神を呼び起こすなどの霊媒形態の人であり、例え仏経や仏語を用いても、実際は全て仏法の外道です。現代の正統仏教の著作に至っては、《現代仏教学術叢刊》などの叢書やシリーズ本は、専門家が厳選したものであり、信頼ができます。 仏教徒の仏を学ぶ目的は、智慧と慈悲で自他を利することで、怪力乱神(神通力)や自己を聖や仏と名乗ることで衆生を戸惑わせることはありません。 智慧は必然的に因縁観念及び因果観念に合うもので、必然的に情理にかないます。慈悲の表現は、親切心で気に入られようとするのではなく、恩人を感謝し、仇を許し、生活に苦しい人を助け、傲慢な人を調伏し、愚人を導き、悪人を感化させ、善人を励まし、怠け者に警告し、迷人の目を覚まさせることで、これらは全心で一切の衆生を配慮する菩薩精神です。 ( 1990 年 10 月 27 日 アメリカカリフォルニア州南湾華僑文化センターにて。《仏教入門》に収録)
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