| 三宝帰依の意義 |
三宝帰依の意義 仏教徒の中の大半は、まだ帰依したことのない人達だと思います。三宝に帰依した人達は、もちろん線香をあげて仏を拝みますが、線香をあげて仏を拝む人でも、三宝帰依の儀式を受けたとは限りません。まだ三宝に帰依していない人も、自分を仏教徒と呼び、私達も彼らの信仰を否定する必要はありません。 仏を信じるのは誠実さだけで十分で、なぜ帰依の必要があるか、と主張する人もいます。このような観念は、一見道理があるようですが、実は要求に合っていません。例えば、学生が学校に通いたければ、まず申し込みの手続きを行わなければ、学校に学籍はありません。聴講したとしても、それは学歴には残りません。通常の学生は、学年に合わせた課程で勉強したり飛び級もあります。最初に小学校に入る前に申し込みをし、高校や大学に入る前に申し込み以外にテストを受け、学校のレベルに合った学生が選ばれます。小学校に入らないで、大学卒業の証書を得ようとしても、それは無理なことです。そこで、仏を信じるなら、まず三宝帰依から着手すべきです。三宝帰依は仏門に入る第一歩ですが、この最初の一歩がなければ、次のステップに進むことはできません。仏弟子の等位は、受戒したレベルによって決まります。三宝帰依は、最初の基本段階です。その上には、五戒・八戒・十戒・比丘比丘尼戒・菩薩戒があり、一切の戒は三宝帰依の根本とします。三宝帰依は、仏信に入る第一歩であり、仏教は一切の衆生を惜しみ、帰依者に求める尺度を、特に寛大においています。六道(地獄・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道〈人間界〉・天道〈天界〉)衆生は、立場に関係なく、帰依を発心しさえすれば、仏教は全てを受け入れます。また、 6 歳になった児童は、貧富貴賎、知愚俊醜と関係なく、一律に小学校に入学することができます。もしも更に一歩進むなら、学校の素質を選択する必要があります。 また、経読の能力があり、直接仏経に向かう時、自己の成仏の道を探究するため、帰依しなくとも同様に学仏の利益が得られると思う人もいます。道理において言うと、融通がきくようですが、事相の規制から話すと、それは間違いです。仏経は仏陀(もしくは仏陀の弟子達)が説いた内容で、更に仏の出家弟子がそれをまとめ、後世に伝えました。仏経だけを知り、説法の仏宝と法宝を広く伝えた僧宝をおろそかにするなら、多く見積もったとしても、法宝だけに帰依し、恩を忘れた行為です。仏教は法宝を主としますが、解脱の道は皆法宝の中からでてきたものです。しかし、法宝が現れるには、仏宝と僧宝から完成させる必要があり、三宝は切り離すことはできないのです。 制度や規定を話すなら、仏を信じ三宝に帰依しない人は、中国の風土や文物を好む外国人、中国国籍を持たず中国に移り住み、自分を中国国民だと呼ぶ外国人と等しいです。その外国人は中国人に歓迎されるかもしれませんが、彼は中国人ではありません。彼は中国国民の義務を尽くすことはできますが、中国国民の権益を享受することはできません。同様に、帰依を認めず、自称仏教徒と呼ぶ人は、いくつかの仏法の有利な点を得るかもしれませんが、身分上の証明をえることはできません。これは余計な執着ではなく、必須の手続きです。世人が善を行っても、祖先の悪業は無くすことはできませんが、三帰戒を受けることができるなら、祖先の悪業を消すことができると仏経では説いています。 帰依を受けるのは、形式上、心性上の問題です。帰依を受ける時、口で念じるだけでなく、身体で拝み、心の中にも思いを込めます。主要はやはり心で受け取ることにあります。三帰戒体を受け、戒体(戒の功徳を生ずる本体・法体)は、すでに三帰戒を受けた人からする必要があり、師々相伝は、法統の一脈相承であり、凡夫曰く、無師自証は不可能なため、三帰依は、仏菩薩像の前で自誓自受してはなりません。ここからわかるのは、三帰依を求受する荘厳性と重要性です。 例えば、三帰依を受けず、一人の正信の仏教徒になりたいとしても、それは不可能なことです。もしも、仏法だけを信じ、僧宝に対して無礼ならば、根本的に最初から仏法に違背しています。仏法の中では、三宝は分家することができず、無理やり三宝を分けるなら、それは仏法の破壊になります。仏法を違背し破壊する人は、依然として学仏の善果が得られる、これは永遠にありえない話です。そうでなければ、三宝を信奉するからには、なぜ三宝に帰依しないのでしょう? また、仏を信じていなくても、仏教に対してとても好感を持っており、それでもまだすぐに三宝帰依は希望しない人もいます。帰依の後、束縛を受けるとか、離脱できないとかを恐れているため、傍観的な態度を取っています。彼らは、帰依の意義を、男女間の婚姻と同一視し、相当な認識を持つまで、軽々しく縁組みをする勇気がなく、もしもお互いの性格も趣味も合わなければ、一生苦痛をもたらすと考えています。実は、三宝帰依は、男女間の婚姻問題と、全く別の性質です。例えば、何か技芸を学びたいと思っても、師に付き利益を請う必要がないとすれば、一流の専門家になるのは難しいです。師に付く利点は、師の学んだことと長所を受け継ぎ、技芸は何代にもわたって継承されます。師は数百、数千年もの経験を身に付けており、この師に付くことで、数千年もの貴重な経験が継承できるのです。しかし、一種の技芸を学んだ後、学んでそれを試さなくても構いません。例え学習期間であっても、興味がなければ、休学しても構いません。しっかり学んだ後でも、終身にわたって師に付いても構いません。しかし、なぜ師から離れず、独立することができないのでしょう?三宝帰依とは、師に付き技芸を学ぶことと似ています。更に仏法を理解したければ、まずは三宝帰依から着手すべきです。もしも傍観だけなら、最終的に門外であり、門外で更に仏理が知りたいと思うなら、それは妄想です。仏門は牢獄ではなく、解脱の大道です。帰依した後、束縛を受けるのなら、仏門も解脱の道と称することができません。仏教はもちろん全ての人が三宝に帰依することを望み、帰依してから、成仏の境に向かいます。しかし、根機における違いから、仏法の勝義が受け入れられず、決まり通りに行えなければ、帰依した後、他の宗教を信じるようになるか、いかなる宗教も信じません。貴重なのは、仏門を出た後、仏教の慈悲の門は、依然として永遠に開いており、いつでも悪い事をした者が改心するのを歓迎します。 そこで、私は一切の世人に、三宝帰依を勧めます。仏教を信じているか、今から仏教を信仰するか、仏教を傍観しているか否かに関係なく、一時的に貴方の先入観や元々の信仰を手放してもかまいません。試しに三宝帰依を試みれば、必ず実益が得られ、貴方の自由が失われるということはありません。もしも真に三宝に帰依すれば、魔障遮心が無い限り、三宝の門を出ることはありません。
三宝帰依とは 帰依とは、文字上の意味は、帰は回転や帰投を、依は依拠や信頼を意味します。回転・依拠や帰投・信頼の行為は、全て帰依と称すことができます。そこで、帰依の二文字は、仏教専門の言葉ではありません。 子供は帰投して母親の胸に抱かれ、母親を頼り、母親を信頼し、そこから安全感が生まれます。この安全感は、帰依から出た力量です。そこで、帰投・信頼によって安全感が生まれるのは、全て帰依と称すことができます。 ここから言えるのは、子供は父母を信頼し、学生は先生を信頼し、企業家は予算を信頼し、部下は上司を信頼し、宿命論者は運命を信頼し、更には暴君は武力を信頼し、政客は策略を信頼し、貧夫は財産を信頼し、皆が多少の帰依の部分を持っています。言い換えると、信頼から生まれる力量の事理はすべて、帰依の群に入れることができます。仏教を信仰することで、帰依と呼ぶことができ、他の宗教を信仰すること、また、妖神鬼怪の信仰・崇拝・奉祀、全てが帰依と称することができます。 しかし、帰依の真義を講じるなら、不究竟で不確実な信仰であれば、真の帰依とは呼べません。例えば、大水害が起こり、人は木や屋根によじ登ったり、小丘に登ることはできますが、水勢が大きく、風波が急で、水位が増せば、木は倒れ、屋根は潰れ、小丘まで水が襲いかかります。そこで、このような状況と環境で、近くに一つの高山があれば、皆はこの高山に登りませんか?白痴でない限り、この救命のチャンスを諦めることは絶対にないでしょう。高山が生む安全効果は、木・屋根・小丘とは比べ物にならないのです。 それでは、世事無常をはっきり認識できる人、一切の世相が全て相対的であるということをはっきり理解している人なら、父母・先生・予算・長官・運命、更には武力・策略・財産などを十分に理解します。一時的な安全の効果を生むことができますが、絶対的に、永遠に頼りにできません。両親は死に、先生の知識は時代遅れになり、予算は超過し、長官は異動し、運命は当てにならず、武力・策略・財産は、幻のようです。今日の南面の王は、明日の階下の囚かもしれませんし、今日の百万長者は、明日の陋巷の乞食かもしれません。 その他の宗教の信仰では、天国に生まれ変わるのは可能ですが、信仰によって天国に生まれ変われるとは決まりません。例えばキリスト教は、信者は救われるかもしれませんが、救われるとも限りませんし、神に寵愛されるとも限りません。貴方が懇切に信じたとしても、天の選ばれた民になることはありません。また、仏教の層別からみると、仏教以外の一切の宗教は、例え最高級の宗教であっても、彼らの最高の理想は、天で生まれ変わる範囲を超えることはできません。天は仏教の中で、例え生まれて最上最高の天界に達したとしても、生死の輪廻の中にいるに過ぎません。天上の寿命はこの世の寿命よりも長いですが、それにも限度があり、天福を最大限享受し、死後は堕落し、結局は頼りになる帰依の場所ではありません。ただ仏教に帰依すれば、人々を次第に離苦得楽の解脱の道に上がらせることができます。仏教の総体、それは仏・法・僧の三宝です。 実際に、帰依とは、身外の三宝帰依から開始すべきで、三宝帰投は、三宝の啓発と導きに依頼し、大涅槃城の大解脱道に向かって進みます。しかし、涅槃(解脱)の城に進み、自身の当下も、理体の三宝です。一切の衆生には皆仏性がありますが、業障の迷いにより、仏性が見えなくなります。私達の三宝帰依の目的は、正に仏性の表れを求めることにあります。私達は本来は仏と同じであり、本来は三宝と同時に存在し、ただ縁が本性を見失い、生死の道を流浪し、家に帰る道を知らないため、衆生と呼ばれます。私達はもし即日に開始し、三宝帰依の懐抱に戻るなら、悪事をした者が改心し、故郷に帰るだけです。 そこで、家への道を歩くだけでも、真正な帰依ともいえます。ただ人に一時的に足を休める場所を提供することは、心の全てが帰依する場所に満足することができません。例えば、泥をぬったはりこの牛に乗って川を渡り、ちょうど流れを下った時、安全だと錯覚するかもしれません。一度流れを下るなら、はりこの牛自身の身が危うく、人に川を渡らせる道具になるわけがありません。 仏・法・僧を合わせて三宝と呼ばれますが、これはとても重要です。人は仏を信じるなら、まず三宝に帰依しなければなりません。しかし、帰依する前に、まず三宝の大意を理解しなければなりません。さもなければ、意味がわからず帰依し、真正の帰依と称することはできません。例えば、私達が大学受験をする時、受験する大学の名前すら知らなければ、それは笑い話でしょう。しかし、私達は隠しだてする必要はありません。今日の三宝弟子が、帰依を受け入れる時、すでに三宝の大意に精通しているとは限らず、師に帰依しても三宝の大意を開示したとは限らず、これは恥ずかしいことです。 三宝は、仏法僧のことであり、仏法僧が無量の功徳を生じ、無尽の妙用を発揮し、しかも取っても使っても尽きることがなく、無極無限で、際限がありません。世の中では、金銀・真珠・宝石類の価値が高く、用途も大きいため、それを宝と称します。仏法と僧の功徳妙用も仏の世界で通用しており、これも宝と称されます。三宝の化導により、人々は世の中で平安に生活ができ、更に人々に離苦得楽を与えることができます。そこで、三宝は宝であり、しかも衆宝の上を越える衆宝の宝です。 三宝は、古来には多くの種類に分別されていましたが、大きく分けると事相と理体に分けられます。 ( 1 )事相には、住持三宝と化相三宝がある。 ( 2 )理体には、三宝一体と三宝理体がある。 三宝の種類の解説をする前に、まず三宝に含まれる意味を知る必要があります。仏は覚者であり、自覚・覚他・覚満です。法は法則で、規範で人々に理解・任持させ、自性を持って自体を失いません。僧は合衆で、事と理において、互いに仲良くします。 いわゆる住持三宝とは、 1. 仏宝:玉琢・石刻・金鋳・銅焼・泥塑・木彫・油漆・墨画・絹繍・紙絵の仏像 2. 法宝:三蔵経典や古今大徳の仏教著述 3. 僧宝:頭を剃り、袈裟を着る比丘・比丘尼です。仏陀の入滅後の仏教は、この三宝によるのみで、仏法の慧命を延長継続させ、仏教の精神を保持し、仏教の教義を広め、住持三宝と称されます。 いわゆる化相三宝とは、 1. 仏宝:釈迦牟尼がインドで成道し、入滅するまでの段階の釈迦 2. 法宝:仏陀が当時弟子達に説いた様々な教示、例えば四聖諦・八正道・十二因縁等の道理 3. 僧宝:当時仏に従い出家した凡聖弟子です。これは仏陀がこの世に住み応化した際にだけあった相状で、化相三宝と称されます。 いわゆる一体三宝とは、仏法僧の三宝の中に、各々が三宝の功徳を供えることです。 1. 仏には覚照(自覚)の能があるため、仏宝。仏は説法ができ、法に於いて自在であり、軌持(軌は軌範、持は任持〈能く保って自性を捨てない〉)の能であり、そこで法宝である。仏は争いの過失がなく、そこで僧宝である。 2. 法の本体は、諸仏の性を生ずることができるため、仏宝である。法自身は、軌持の機能があるため、法宝である。法は平等でお互い妨げることがないため、僧宝である。 3. 僧には観照の智者があり、仏宝とみなされる。僧には軌持の用者がおり、法宝とみなされる。僧は和合の体者で、僧宝である。 いわゆる理体三宝とは、一切の衆生のことであり、各々本来供える三宝には、二種類あります。 1. 修証から言うと、皆「惑・業・苦」で生死を行き来し、迷いを転ずるなら悟ることができ、惑は即般若に、業は即解脱し、苦は即法身になる。般若は仏宝で、解脱は法宝で、法身は僧宝である。 2. 理体(真如)から言えば、能観の理は仏宝で、所観の事は法宝で、事・理は同じ僧宝である。 実は、三宝は四類に分けられますが、性質は二種類のみで、事相と理体を超えない二面です。事相の三宝は、現実的で比較的わかりやすく、理体の三宝は、抽象的でわかりにくいです。すでに開悟したか、すでに自性真如を証得した以外は、いつもよくわかりませんが、これは私の究竟帰依の処です。印順法師がこの解釈をした一段を、以下に紹介します。 「真実を論究する帰依処は、三宝の真実功徳であり、これは古来において多くの分別がありましたが、現在では略説の二類ある。 1. 仏の無漏功徳は仏宝で、声聞に基づいて言うと、五分法身(聖厳案:戒・定・慧・解脱・解脱知見が仏の五分法身)。大乗に基づいて言うと、無上(四智)菩薩が取り込んだ一切の無漏功徳。正法もしくは涅槃は法宝で、有学無学の無漏功徳は僧宝。声聞乗に基づいて言うと、四双八輩(聖厳案:小乗の四向四果、合わせて四双八輩と称される)の無漏功徳。大乗に基づいて言うと、菩薩であり、摂得声聞・辟支仏の無漏功徳。 2. 大乗仏教の説く、究竟円満で明らかな最も清浄な法界(摂得体、相、業用)は、仏宝で、少しの清浄な法界を表すものは、僧宝で、全ての十法界・不増不減、無二無別の法界(もしくは真如や実相など)は、法宝である。通常言う一体三宝・理体三宝・常住三宝は、この一意義の異なる解説に過ぎない。」(《成仏の道》 29 ページ) 私達がこれらの内容を読み、ある程度の仏学の基礎がなかったり、理解できなくても、私達は結局凡夫に過ぎません。三宝を理解・理体するのはもちろんとても良いですが、理解できなくても、事相の三宝だけを信じるなら、ある一段落まで信じれば、理体三宝も自然にはっきりと現れます。正に私達が宇宙旅行に到達する前のように、宇宙の光景について、任意に宇宙飛行士が詳細の報告を行っても、百聞は一見に如かず、自分で宇宙旅行に出かけて初めて、それが明白になります。そこで、私達凡夫は、三宝を信仰・住持つだけで十分です。しかし、私達が明白にしなければならないのは、三宝を住持しなければ、理体三宝は現れませんし、理体三宝がなければ、安立できません。住持三宝は、理体三宝の重要な任務で、理体三宝は、住持三宝の全体です。仏教の信仰は、三宝の信仰・住持から開始すべきで、三宝の信仰・住持の目的は、理体三宝の出現の追及にあります。現在ある在家の弟子がいるのですが、自己はまだ理体三宝を証明しておらず、ただ理体三宝を信じるという理由で、三宝を尊敬・住持しません。これは、本末転倒であり、上昇を求める堕落的行為です。 私達凡夫が見られるものは、事相の三宝だけです。事相中の化相三宝は、仏陀がこの世にいた時だけに存在し、仏滅後は、住持三宝だけが存在します。しかし三宝の中で、仏が最も高貴で尊く、法は最も優れ勝り、僧の地位が最も重要です。仏陀の入滅後、仏教の道場は僧宝によって住持され、仏教の経典は、僧宝によって保存され、仏教の文化は、僧宝によって伝えられ、仏教の信徒は、僧宝が導いてきます。そこで、仏陀がこの世にいた時、仏教は仏を軸心とし、仏陀の入滅後は、仏教は僧宝を中心にしています。そこで、今世では、仏教の信仰は、僧宝を帰依先とすべきで、三宝を恭敬する場合も、僧宝を中心にすべきです。僧侶の中には、玉石混交(善いものと悪いものが入り混じる)で、私の帰依は、善を選択しそれに従いますが、恭敬供養の心で、全て平等にするべきです。仏教の中ではこう説きます。破戒の比丘とはいえ、人と天の師になれ、そこで、高低で分けてはならず、更にはむやみに批判してはいけません。 上でも述べたように、三宝帰依は、信仏学仏の基礎ですが、基礎に足を踏み入れ、仏門に入った後、基礎を捨てることはできず、それにこの基礎の上で、次第に高まり広がります。等級は高まり、層は広がり、三帰依は、この一道業が建築した磐石です。そこで三宝帰依の種類は、計五つあります。 ( 1 )翻邪三帰――最初に仏門に入る。 ( 2 )五戒三帰――信仏後、五戒を受ける。 ( 3 )八戒三帰――六斎日に、八関戒斎を受持する。 ( 4 )十戒三帰――沙弥(尼)が十戒を受ける。 ( 5 )具足戒三帰――比丘(尼)が大戒を受ける。 受戒することで、必ず三帰があります。最初に仏に入り、三帰する必要があります。五戒・八戒・十戒を受ければ皆、三帰後に五戒を得、戒体を受け、式叉摩那戒・比丘比丘尼戒は、羯磨法で受戒しますが、受戒には、三帰依を行わないものはありません。他に大乗菩薩戒を受けた者が、懺悔と発願前にも、まず必ず三帰を受けます。そこで、三帰は戒とは言いませんが、一切の戒の根本(実は三帰の中に戒義を含む)です。 三帰依は、一切の戒の根本であるだけでなく、仏教徒の日常修持中の根本で、寺院での朝から晩までの経読は、皆三帰があり、一切の仏事の終結も三帰を宗本にするべきです。そこで、小乗仏教の地域では、三帰を特別に重要視し、三帰を唱えて行持を行い、三帰を唱えて人を祝福します。
三宝帰依の方法 私達は三宝帰依の概念を理解したら、三宝帰依をすべきです。 三宝帰依の儀式は、仏陀がこの世にいた時代、帰依を受ける者の根器が厚かったため、どんな儀式も必要としませんでした。例えば、釈迦世尊の一人目の三帰弟子、耶輸伽の父親は、仏の前でこう言いました。「私は今、仏に帰依し、法に帰依し、僧に帰依します。唯願世尊聴為優婆塞。」こう言うのも、三帰依を受けるのと同様です。 実際には、仏が五名の比丘を度する前、世の中にはまだ比丘僧宝がなく、仏は二人の商人と龍王の為に帰依を授け、即三帰を言明し、すぐ彼らに未来の僧に帰依するよう求めました。三宝が一体であることを知り、仏と法に帰依しても、僧に帰依しなければ、これは帰依とはなりません。 三宝帰依の言葉は、実際はとても簡単ですが、帰依する前に、できればまずよく知っておくべきです。従来帰依を受ける人は、帰依師が一文一文読み上げるのですが、帰依師の言葉がはっきりしていないとか自分の心が緊張しているため、帰依後もまだ帰依という言葉の内容が何かわからない人もいます。道理上、そのような帰依は、帰依とは言えません。 帰依という言葉には計三帰三結があり、現在このように書かれています。 我(法名もしくは本名)、尽形寿帰依仏。 尽形寿帰依法。 尽形寿帰依僧(命が尽きるまで仏に帰依し、命が尽きるまで法に帰依し、命が尽きるまで僧に帰依する)(三回説いた後)帰依仏竟、帰依法竟、帰依僧竟。(これも三回説く) 前の三帰を三度説き、すなわちこれが三帰依戒の正授で、後が三帰の三結です。帰依の重要なポイントは、三帰を三度説く正授の時、三帰依戒体の納受も、正授の時にあります。三帰正授の時、一種の観想をすることが一番です。三帰依文を説く一回目の時、自己の発心功徳によって、十方大地の震動を感じとり、また、功徳の雲もあり、十方の地面からゆっくりと上ります。三帰依文を説く二回目の時、十方に湧き出す功徳の雲が、ゆっくりと自己の頭上上空に集まり、絹傘の形になります。帰依文を説く三回目の時、この集まった雲の絹傘は、漏斗の形に変わり、ゆっくりと自己の頭上の内に注がれ、全身に満たされ、体の中から広がり出て行き、自己の心身を使って、功徳の雲の広がる弥蓋に従い、十方世界で満たされます。――ここまで、自己は三帰の戒体を受け、自己の心身も戒体の功徳と同様に、宇宙と同等の体量になります。このような帰依は、とても神聖で荘厳です。このような観想ができないなら、最低限、帰依の言葉を明白に耳で理解し、はっきり口に出してください。これは絶対にいい加減にしてはいけません。そこで、弘一大師はかつて非常に懇切な話をしました。 内容は、「出家者、在家者と関係なく、三帰を受ける時、最重要な点は二つある。第一は、三宝帰依にはどのような意義があるかに注意すること。第二に、三帰を受ける時、師父の説く内容を十分に理解すること。師父が説く話は、全てが文語で理解できないなら、決して三帰が得られない。遥か遠くに引き離され、聞いても意味がわからないようでは、三帰は得られない。聞いて大半の意味は理解できても、その中の一つ二つがよくわからないようでは、三帰は得られない。また、正授の時、『帰依仏・帰依法・帰依僧』の三つを説くが、これが最も重要であり、十分に注意しなければならない。後の『帰依仏竟・帰依法竟・帰依僧竟』は名三結で、それは重要ではない。そこで、諸位発心受戒は、まず三帰の意義を知る必要がある。また、正授の時、『帰依仏』などの三語に注意することで、三帰が得られる。」(《律学要略》にて) ここでわかるのは、三帰は簡単であっても、実際に三帰の戒体を得るのは容易なことではありません。これを基準に論じ、現在、多くの三帰弟子は、三帰を得ておらず、もし自分が三帰を得ていないとわかれば、各自の帰依本師や他の人に頼んで、もう一度授かっても構いません。これは、数十人や数百・数千の大規模の帰依儀式において、もっとも信頼できないもので、ただ善根の種を植えるだけです。 宗教情緒の養成と育成から言うと、受戒の儀式は更に厳かで、更に敬虔な心を呼び起こすことができます。受戒の要求は更に厳格になり、更に人生に神聖で荘厳の感を起こさせます。三帰求受とは、本来は一人の帰依師に頼み、仏の前で三説三結をします。この点を厳粛に処するため、明朝末、南京の宝華山の見月弁護士が、《三帰五戒正範》を編集しました。これは、菩薩戒にならい、そこに戒の伝授儀則を合わせて再編集したもので、この書が現在に至ってもまだ流通しており、大多数の帰依師達が原本として扱っています。 三帰正範の中には、計八個の項目があります。 ( 1 )敷座請師――帰依を受ける者が師に法座を敷設し、線香と花をお供えし、あかりを灯し、帰依師に座に着くよう請う。 ( 2 )開導――三帰依の意義を開示する。 ( 3 )請聖――十方の三宝を迎え、受帰を証明し、護法龍天にお願いし、監壇と戒を守る。 ( 4 )懺悔――以前の業障を懺悔し、身口意の三業清浄身のために、その後、無雑無染の三帰戒体を納授する。 ( 5 )受帰――三帰三結、発三誓。 ( 6 )発願――無上の菩薩の心を発し、一切の衆生の済度を願う。 ( 7 )顕益勧嘱――三帰の功徳殊勝を説明し、その教えに従い奉行を指示する。 ( 8 )回向――この受帰の功徳を、一切の耽溺の衆生にも与え、速く生死を脱し、早く仏土に生まれる。 言ってみれば、三帰依を受けるのは、厳粛で円満究竟といえます。しかし、三帰正範は、現在では、実用に合いません。その中で使われる文字は全てが文語体で、文章は上品ですが、帰依師が、本を多読するだけで消化しきれないなら、座について帰依を説く際、書いてある通りにそのまま読み上げ、それでは帰依を受ける人は吸収できません。吸収ができないなら、帰依はできません。そこで、弘一大師はこれに対しても、批判しています。 「宝華山の見月弁護士が編集した《三帰五戒正範》では、全開示に駢体文(六朝より流行した一種の韻文で、4字・6字の句を交互させ辞を対偶にし、平仄を用いて調子を整えたもの)を多く使っているため、聞き手が全く理解できず、虚文に等しい。師は口語文に訳して説いた方がいい。」(《律学要略》より) 実用面から言うと、《三帰五戒正範》に書かれた八項目の中に、絶対に欠けてはいけないものがあります。比丘は説法で在家の人達に説法できず、座る席を用意しなければなりません。三宝の意義を指示し、そこで開導(教え導く)が必要です。帰依師は三宝の代表であり、人に帰依を授け、そこで帰依師の所へ行ってお願いをすべきです。改めて身を持するためには、過去の罪に懺悔して罪を取り除くべきです。三帰三結と三誓は、受帰の重要部分であるため、そのように必ず行います。三帰は三品に分けられ、それは、発心して自他を度する者は上品で、自分だけに気を配り生死を脱する者は中品で、三悪趣に堕ちず、人天にて生きることのみを要求する者は下品とされます。そこで、発心を導くことも必要です。精進の心と堅固な志を増す為、その利益を教えその指示方向を勧めるべきです。利己的でない慈悲胸中を養成する為、功徳を一切の衆生に返すのも正しいです。 ここで私は一点を指摘します。最初の仏教には、大乗・小乗の区別はなく、小乗に近い形式を持っていました。律中における三帰は、非常に簡単で、三帰の文字以外に他はありません。仏教が中国に到着して、一切が大乗に帰り、一切の戒は、大乗にならって受持し、そこでまた多くの項目を増やしますが、この種の増加は、全てが良い事で、悪い事ではありません。今日もし、最初の三帰で大乗行門をしないなら、自分も発願と回向等の項目を使わなくてもいいです。 時間と環境の制限を受けるなら、三帰の儀節を簡素化しても構いません。現在、以下の略式を試すことができます。 帰依師が礼仏し着席の後、帰依を受けた者は両膝を地面につけ上体をまっすぐに立たせ、両手で合掌します。帰依師が一部の三宝帰依の意義を開示した後、すぐ過ちを食い改める偈頌を教え受けます。 「我昔より造るところの諸々の悪業は皆、無始の貧瞋癡(とんじんち)による身語意より生じるところなり一切を我れ今、皆懺悔し奉る。」 三回念じ、毎回その場で一礼します。続いて、三帰依の正授と三結を行います。 「我某甲、尽形寿帰依仏、尽形寿帰依法、尽形寿帰依僧(命が尽きるまで仏に帰依し、命が尽きるまで法に帰依し、命が尽きるまで僧に帰依する)。」三回念じ、毎回その場で一礼します。また、こう念じます。 「我某甲、帰依仏竟、寧捨身命、終不帰依天魔外道。我某甲、帰依法竟、寧捨身命、終不帰依外道邪説。我某甲、帰依僧竟、寧捨身命、終不帰依外道徒衆。 」三回念じ、毎回その場で一礼したあと、四弘誓願を発します。 「我某甲、衆生無辺誓願度(地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するという誓願)。 我某甲、煩悩無尽誓願断(煩悩は無量だが、すべて断つという誓願)。 我某甲、法門無尽誓願智(法門は無尽だが、すべて知るという誓願)。 我某甲、仏道無上誓願成(仏の道は無上だが、かならず成仏するという誓願)。」 三回念じて、毎回その場で一礼します。帰依師は帰依の功徳を略示し、また教えに従って奉行するよう励まし、即ち回向の偈頌を念ずるよう教えます。 「帰依功徳殊勝行、無辺勝福皆回向、 普願 ? 溺諸衆生、速往諸仏浄楽土。 十方三世一切仏、諸尊菩薩摩訶薩、 摩訶般若波羅蜜。 」 ここまで帰依の功徳は円満で、帰依師が経を読み終え礼仏後、帰依を受けた者は、帰依師に礼謝し、通常三拝します。礼仏礼僧、一拝でも良いです。 以上の略式の帰依では、唱える必要はありませんが、文字をはっきり念じれば、帰依が受けられます。 その中に説明するのは、三帰三結の下の三誓「不帰依天魔外道」、「不帰依外道邪説」、「不帰依外道徒衆」です。この三誓の確立によって、三帰も戒の性質と作用を持ちます。これは仏教の排他性ではなく、外道のためです。――仏教以外の一切の宗教学説は、その部分の道理はありますが、それは究竟ではありません。仏は福慧具足の大覚者なので、仏に帰依すれば、天魔外道に帰依する必要はありません。法は一切の智慧の秘蔵の宝で、帰依奉行は、必ず苦と安楽が取り除けるので、外道帰依の邪説が必要ではありません。僧は最も清浄の道を伝授が出来る人天師表なので、外道の徒衆を帰依する必要はありません。この三誓の目的は、すでに正道に入った人が、誤って正道からはずれるのを防ぐために作られました。 三帰依を受けた後、もしも家宅・財物・国土・人民・生命の安全を守るために、神や鬼を祭り、天と神を拝み、このような場合は、帰依の心を持たないのであれば、帰依を失わず、帰依の心を持てば、帰依を失います。 更に戒の問題に触れるなら、三宝に帰依した後、いくつかの戒禁すべき事項があります。上等帰依者、三宝諸戒、自然具足、例え下等帰依者でも、五種浄肉(自分の食用のために殺されるのを見ていない肉・自分の食用のために殺されたと聞いていない肉・自分の食用のために殺されたのではないかと疑わしくない肉・寿命の尽きた動物・鳥の食べ残した肉)のみを食べ、しかも屠業・酒業・淫業・賭業等の悪行業をしてはならず、毎年の正五九月、毎月の六斎日(初 8 ・ 14 ・ 15 ・ 23 、及び月末の最後の二日)に、戒斎を持します。こうすれば、当来の弥勒仏の初会の中で、解脱が可能です。 三宝帰依には、他にも必ず理解しなければない重要な観念があります。私たちが三宝に帰依した後、十方三世の一切の三宝に帰依し、そこで、回向偈の下、「十方三世一切の諸仏、諸尊菩薩摩訶薩、摩訶般若波羅蜜。」第一句は一切の仏宝で、第二句は一切の僧宝で、第三句は無上の法宝を表し、この三句に、理体と事相の三宝も含まれます。私達は現在、事相を主とするので、一切の仏菩薩の聖像、一切の仏教の典籍、一切の仏教の出家者を恭敬供養すべきです。 しかし、私達の本師仏は釈迦牟尼で、私達の本師僧は帰依師です。報恩のために、本師仏と本師僧、常情を重視します。本師だけを仏とみなすなら、他の諸仏は仏ではなく、それは仏教に背くことになります。同様に、帰依師だけを尊敬し他の一切の僧を尊敬しないなら、それも間違っています。まるで、千万の慈善の行為を否定し、一つの慈善の行為だけを肯定するようなものです。一つの田だけに植えて、千万の田に植えず荒れ果てる、これは愚かです。
三宝帰依の利益 三宝帰依の利点は非常に多く、現世楽を求め、その後世楽を手に入れ、更にここから涅槃寂静の究竟楽が得られます。 これを合わせると、約八種類があります。 1. 仏陀の弟子になる。 2. 受戒の基礎。 3. 業障を軽減する。 4. 広大な福徳が積める。 5. 悪趣に堕ちず。 6. 人と非人共、乱れてはならず。 7. 一切の善事は成功する。 8. 成仏道を可能にする。 それぞれ例を挙げるなら、仏経の中に非常に多く、現在 5 種類を選択します。口語体で訳すと下の通りです。 ( 1 )人が三宝に帰依するなら、将来得る福報は、無尽なほど大きい。例えば、一つの秘蔵の宝があり、全国の人民が 7 年掛けて運んでも運びきれない。三帰の功徳は、これよりも数千万倍大きい。(《優婆塞戒経》より) ( 2 )かつて、一人の刀利天の天子がおり、天福を享受し終わった後、身体も衰え、同時に寿命もその 7 日後に尽きた。彼は、命尽きた後、豚に生まれ変わるということを知っており、とても恐怖を感じ、神に教えを請いたが、神もどうしていいかわからず、仏陀に助けを求めるよう伝えた。仏陀は彼に三宝に帰依するよう告げ、死後に豚ではなく人間界に生まれるようにした。また、仏舎利に会い、仏説法を請いこれで聖果を証明した。(《折伏羅漢経》より) ( 3 )かつて、一人の三十三天の天子がおり、天福が尽き、 7 日後にこの世を去ることとなった。かつての歓楽もすべて彼から離れ、美しい天女も彼に近づかなくなり、かつての威厳ある堂々とした顔立ちも、現在では無くなり、身体はすでに衰弱し、しかも酷い垢と汚れで、両脇の下は、一日中流れた汗で悪臭を放っていた。彼も、自分自身豚に生まれ変わるところを見、地面に横たわり、悲しみ嘆き、涙を流し、苦難を訴えた。そこで神は誠心で三宝に帰依するよう指示し、「仏両足尊・法離欲尊・僧衆中尊敬に帰依する」と念ずるよう告げた、彼は神の指示に従い、三宝に帰依した。七日の期限が訪れ、彼はこの世を去った。神は、彼の死後、生まれ変わりの所在を知ろうと、能力を使って出来る限り見たが、天子の行方はわからなかった。仏陀に聞くほかなく、仏陀はこう告げた。「すでに三宝の功徳に帰依し、三悪趣に落ちずに、兜率陀天に昇っていった。貴方達神は、ただ下だけを見て、上が見えないのだ。」(《嗟韈曩法天子受三皈依獲免惡道經》より) ( 4 )もし東西南北の四大部州の中で、全てが二乗果位の聖人なら、ある人は死ぬまで供養し、彼らの為に塔を造り、その人の功徳の大きさは、計り知れないものだが、三宝帰依の功徳には遠く及ばない。(《校量功徳経》より) ( 5 )過去の一人の莎斗比丘がおり、もっぱら三宝の名を唱え、 10 年の歳月が過ぎ、初果須陀桓を証明し、当世の普香世界で辟支仏(仏の教導によらず、自らの力で悟る者)を行った。(《木ケン子経》より) 上に挙げた 5 つの例から、三宝帰依が極めて重要な事だとわかるでしょう。人は三宝に帰依することで、四王天が三十六部の神王を派遣し、三宝に帰依した男女を守護してもらい、また、三帰を受けた後の弟子は、この三十六部の神王の名前を書き、携帯することで、邪悪を祓い、出入無畏です。三十六部の神王の名前は、以下の通りです。 ( 一 )彌栗頭不羅婆(善光),主疾病。 ( 二 )彌栗頭婆呵娑(善明),主頭痛。 ( 三 )彌栗頭婆邏波(善力),主寒熱。 ( 四 )彌栗頭抗陀羅(善月),主腹滿。 ( 五 )彌栗頭陀利奢(善見),主癰腫。 ( 六 )彌栗頭阿婁呵(善供),主顛狂。 ( 七 )彌栗頭伽婆帝(善捨),主愚癡。 ( 八 )彌栗頭悉? ? (善寂),主瞋恚。 ( 九 )彌栗頭菩提薩(善覺),主淫欲。 ( 十 )彌栗頭提波羅(善天),主邪鬼。 (一一)彌栗頭呵裟帝(善住),主傷亡。 (一二)彌栗頭不若羅(善福),主塚墓。 (一三)彌栗頭?闍伽(善術),主四方。 (一四)彌栗頭伽隸裟(善帝),主怨家。 (一五)彌栗頭羅闍遮(善主),主偸盜。 (一六)彌栗頭修乾陀(善香),主債主。 (一七)彌栗頭檀那波(善施),主劫賊。 (一八)彌栗頭支多那(善意),主疫毒。 (一九)彌栗頭羅婆那(善吉),主五瘟。 (二十)彌栗頭鉢婆?(善山),主蜚尸。 (二一)彌栗頭三摩?(善調),主注連。 (二二)彌栗頭戻??(善備),主注復。 (二三)彌栗頭波利陀(善敬),主相引。 (二四)彌栗頭波利那(善淨),主惡黨。 (二五)彌栗頭虔伽地(善品),主蠱毒。 (二六)彌栗頭 ? 梨駝(善結),主恐怖。 (二七)彌栗頭支陀那(善壽),主厄難。 (二八)彌栗頭伽林摩(善逝),主産乳。 (二九)彌栗頭阿留伽(善願),主縣官。 (三十)彌栗頭闍利陀(善固),主口舌。 (三一)彌栗頭阿伽?(善照),主憂惱。 (三二)彌栗頭阿訶婆(善生),主不安。 (三三)彌栗頭娑和邏(善至),主百怪。 (三四)彌栗頭波利那(善藏),主嫉妬。 (三五)彌栗頭固陀那(善音),主咒咀。 (三六)彌栗頭韋?羅(善妙),主厭祷。 以上 36 人の善神は、《灌頂三帰五戒帯佩護身咒経》からの出典で、三帰を受けた者は、四王天王が彼らを派遣した護持を受け、同時に、この 36 人の神王は、それぞれに万億恒河沙の鬼神がおり、その眷属のため、順番に三帰を受けた人を護持します。神王の名を書いて、身に付けるのが一番です。この中の 24 番目と 34 番目の音訳の名前は同じですが、意味は異なります。 私達が知るべきことは、三宝帰依は、現生の平安と快楽を求めるものですが、三宝帰依の最終目的は、三宝を懐に抱くことで、自分も三宝になることです――皆成仏が可能なので、自暴自棄にならないでください。
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