四つの環境保護

四つの環境保護総論

近代的な社会の変遷に応じるため、皆さんが落ち着いて生活し、愉快に働けるよう、法鼓山では積極的に四つの環境保護運動を提唱しています。それは、心の環境保護、生活の環境保護、礼儀の環境保護、自然の環境保護です。

一、心の環境保護

いわゆる心の環境保護は、心理の健康、心理の衛生、心理の建設等と非常に近いものです。釈迦牟尼仏はこの世に、膨大な聖典を残してくださいました。その中に記録されている仏法は、全てが、人品の向上、心の浄化、人の環境の改善のためであり、これこそ心の環境保護の内容です。

《維摩経》には、「随其心浄、則仏土浄(その心浄きに随ひてすなはち仏土浄し)」とあります。心は、体と言葉の行為を導き、全ての人の行為は、全体の環境を影響するということです。そのため、法鼓山の具体的な仕事は、観念の上において、皆に「欲を少なく満足を知る、恩を知り恩に報いる」ことを導いています。方法の上で、皆に念仏を唱え、懺悔し、禅修等の項目に取り組み、心理層面の浄化をするよう勧めています。

心がきれいなら、今の環境に対して、安定と安全を感じるはずです。心がきれいでなければ、たとえ仏の国が目の前にあったとしても、その環境は不安で混乱したものとなります。 ある時、あるセキュリティー会社の警備員に、彼らの車に乗るように言われました。彼らは私の両側に一人ずつ座り、拳銃を所持していましたが、それは私を守るためだと言っていました。

私はこう言いました。「元々私は何も持っておらず、それで安全に感じますが、貴方達がここにいると、反対に危険に感じます!」なぜなら、万一拳銃を撃つとか、用心棒を二人も抱えているため、私がお金持ちだと誤解され、結果その期待に反して、私は本当にお金がなかったら、相手を反対に失望させ、相手に悪いじゃないですか。そのため、心に安全感がなかったら、安全を得ることは出来ませんし、安全問題について悩むのです。安心している人、また貴方のいるこの世界は、佛国浄土と言えます。

二、生活の環境保護

生活が清潔・素朴で節約をすれば、自然の資源を無駄にすることはありませんし、安寧、平静、清浄は、環境汚染には結びつかず、人類の生活環境の品質は改善されます。

現在の我々の環境は、空気汚染、土地汚染、水資源汚染、騒音公害など、至るところが、汚れ、乱れ、濁り、穏やかでない状態で溢れ、皆に安全感と安定心を失わせています。そのため、法鼓山では積極的に生活環境を推進しています。

例えば、我々は、古いものの再使用、児童玩具と書籍の交換、ゴミ分類、資源回収を唱え、必要な物は使えなくなるまで使います。必要でない物は出来るだけ少なく買うか買わず、また、環境保護の食器類と買い物袋を勧めます。また、オフィスで使う紙は少なくとも二回は使い、その後は回収して再生紙として利用します。

三、礼儀の環境保護

仏教では礼儀作法と振る舞いを特に重視します。現在、法鼓山が提唱する礼儀の環境保護の内容は以下の通りです。個人の作法として、人に接する時は合掌し、一言一行で、相手を尊敬します。「菩薩」、「南無阿弥陀仏」、「ありがとう」などを使い、下品・低俗・流俗な言葉は避けます。社会団体の方面として、冠婚葬祭では厳かに提唱します。また、《 1994 年礼儀環境保護実録》を出版し、中にはここ数年続けられている仏化の合同冠婚葬祭に関する内容を紹介しています。同時に、他にも、《仏化家族手帳》、《仏化葬祭手帳》、《喪儀の儀式と助念手帳》、《礼儀の環境保護手帳》と《仏化婚姻と仏化家族》等の小冊子を出版しました。

その中の仏化婚礼は、中国人の冠婚葬祭の習慣に焦点を当てています。これらは、次第に騒がしく、無駄に派手に行われ、見栄だけを気にし、尊厳を顧みず、礼儀の機能を失い、品格も低俗となってきています。そこで、昔と現代世界の文明のつながりが切れ、国際メディアにはおかしな風俗だと報道されています。そのため、我々は、礼儀の環境保護の推進に全力を尽くし、今では既にいい反応を得ています。

四、自然の環境保護

仏陀は、かつて我々にこう伝えました。我々の心身世界は、全て仏法を修行する道具と道場です。我々は自然環境に対して、それを自分の体の一部分として扱い、自分の家・寝床・席として扱わなければなりません。そのため、自然環境の保護の観念は、動物を愛護するだけでなく、植物を含む一切の生物の生存環境や、空中・地面から地価の一切の資源まで保護する必要があるのです。

(《平安な世の中》〈いかに 21 世紀に立ち向かうか〉より抜粋)

 

心の環境保護

一、心の環境保護

健康・快楽・平安な心身を持ち、自分・社会・大自然への配慮で、貴方・私・他人全てに、健康・快楽・平安を与え、同一の環境の中で生活すること、これが現代人の心の環境保護です。

「環境保護」という言葉は、 20 世紀末には全世界に伝わりました。しかし、特に科学技術文明の発達した先進国家による、経済資源の度を越した開発が、高スピードで人類の生存環境に悪化をもたらし、自然資源に消耗と汚染を、生態資源に減少と消失などをもたらします。例えば、熱帯雨林が大規模に開発され、各種機械から排気ガスが排出され、各種生活事業が作り出した多くの汚染源が、全地球の空気汚染・水資源汚染・土壌汚染となり、また南北極の氷帽を急速に溶かし、海面の水位が上がり、緑地砂漠化の面積が広がり、人類が生存に頼ってきた世界環境はますます破滅的な危機に面しています。そこで、環境保護運動を提唱するのです。

しかし、人類の私利私欲は、明らかに破壊の環境・製造汚染が自他を害するということがわかります。一旦自分の現実利益と衝突した時や、私欲が満足できる時、公益について忘れ、将来の心配事も試みず、手に入れられるか、罰を受けるか否かだけを問い、生態・環境汚染についてや、他の人がどう不利かを考えず、周りの大環境や、後代の子孫への影響も考えません。そこで、私は常に忠告しています。現在、地球に生きる全人類は、同じ水槽に生きる多くの魚達と同様、一匹の魚が糞をすれば、水槽の水は汚染され、糞をした魚だけでなく全ての魚が汚染されます。

人類の利己心とは、元々は生物が生存を求める本能ですが、人類は科学技術文明によって自然環境の破壊を極度に速く進め、悪化の幅は非常に大きく、この地球環境に空前の苦痛を与え、その結果、自然規律の抑制均衡は、深刻に人類の生存空間に大災難を起こし、脅威となるのです。

そこで、法鼓山は心の環境保護を提唱し、全人類に心の環境保護の原則を呼びかけ、健康で正確な人生観、すなわち自他を利する価値観を築き、自他に、健康・快楽・平安な心身へと導きます。地球環境の一艘の船に同船したように、互いに助け合い、お互いの異なる身分・知能・場所・角度から、自分・他人・社会環境及び自然環境に配慮します。

二、儒道二家と心の環境保護

古今東西の思想は、人間を中心に各種の問題を探索し、重要なのは内在する心の問題・心と体関係の問題・個人と配偶者家族間の問題・個人とグループ社会間の問題、そして、個人と自然環境及び時空宇宙間の生死存亡・一元多元等の問題です。各思想は、これらの問題の探索について、偏りの重さ軽さの差はあっても、個人生命及び全体環境が、出路・回答・バランス、また永久不変を求めるのであり、目標は一致します。

東亜思想の儒家が説く、修身・齊家・治国・天下太平、及び、静・安・慮・得は、人の心身と身を置く大環境を主題としています。また、孔子の説く「性相近也、習相遠也(人間が先天的に持つ性質には個人差はないが、後天的な習慣の違いや教育の違いによって、種々の大きな差が生じてくる。)」から、孟子の「人性本善論」と荀子の「人性本悪論」を引き起こしました。かつて孔子は人間は「未知生、焉知死(まだ生きるということがわからないのに、どうして死ぬということがわかるだろうか)」と説きましたが、人の生前死後等の諸問題に対しては討論せずとも、人がいかに健康で健全な人格の人間になれるか、いかに良好な人間関係を築くかなどの問題に対しては、論述するところが非常に多いです。例えば孔子は、「仁」の定義が多くあると説いています。

1.  言葉の態度から言うと:「巧言令色、鮮矣仁(口先が巧みで、角のない表情をするものに、誠実な人間はほとんどない)」、「剛毅木訥、近仁(物欲に動かされず、果断好くことを行ない、しかも飾り気なく素朴で、嘘を吐かず、裏表もなく、言葉数が少ない人は、仁者そのものではないが、仁者に近い人である。)」。美辞麗句を並べるのではなく、しっかりと誠実なのがいいのです。

2.  内心の態度から言うと:同情・道理に基づく「愛する人」は「仁」です。

3.  自分・他人に対する態度から言うと:「克己復禮、為仁(過度の自己主張を抑制し、礼儀に則ること。これが仁なり)」 また、「出門如見大賓、使民如承大祭(人に会うときは大切な賓客に会うようにし、人民を使うときには大切な祭りを行うかのようにする)」です。

4.  自他を利する立場から言うと:「夫仁者己欲立而立人、己欲達而達人(我が身を立てんとせば先ず人を立てよ)」すなわち、忠誠を尽くす「忠」貞です。「己所不欲勿施於人(自分の望ましくないことは、人にも仕向けてはいけない)」すなわち、寛恕の「恕」道(思いやりがある)です。曾子曰く:「夫子之道、忠恕而矣(夫子の道は忠恕のみ)」忠恕の道はつまり、孔子の説く「一以貫之(一貫して一つの道を貫く)」の仁道です。《論語》中の「臣事君以忠(臣下が君主に仕える時は忠にしたがう)」の文により、後世の人々は「忠」の字を狭義に解釈し、臣が君に、下が上にの忠のみがあるように。実は、《論語》の中には、「為人謀、而不忠乎(人の為に謀りて忠ならざるか)」や、「与人忠(人に与って忠)」などの言葉があり、これは共に、相手の心に立って考え、他人の利益と事故の利益を平行線上に平等において扱うこと、これが良心を中間に置くという「忠」の意味です。

この種の忠恕の道こそが、孔子の提唱する仁道であり、志ある人にとっては、実践は困難なことはありません。そこで孔子はこう説きます。「仁遠乎哉、我欲仁、斯仁至矣(仁遠からんや。 われ仁を欲すれば、ここに仁至る。)」またこう言います。「求仁而得仁、又何怨(仁を求めて仁を得たり。又何をか怨みん)」「無求生以害仁、有殺身以成仁(生きることを望んで仁徳を壊すことはなく、自身の身を殺して仁徳を完成する)」さえあれば、全人格の道徳が完成できます。つまり、仁道の決心が実践できるなら、他人の利益と自己の利益を平等に扱えるだけでなく、他人の利益を絶対優先とし、「求仁得仁(願いのとおりになる)」のために、自己の生存と他人を害さないだけではなく、自身の犠牲で全ての人を助けることこそ、仁道の極致といえます。孔子が「殺身以成仁(命を賭けて人の道を守る)」をする機会がなかったため、謙虚にこう言っています。「若聖与仁、則吾豈敢(聖と仁とのごときは、則ち吾れ豈に敢えてせんや)」

孔子は「成仁(正義のために一身を犠牲にする)」と説き、孟子は「取義(正義を行う)」と説き、これらはどちらも一つの崇高な理念を表現しています。それは、個人利益の私心から追求するもので、グループの利益のために私人の利益を放棄し、至っては自分の生命をいとわず奉献し、全ての「求仁得仁(願いの通りになる)」の人格を成します。この種の思想は、大乗仏教の菩薩行と非常に近いですが、菩薩とは、智慧と慈悲を供える人であり、智慧があれば自分を害することはなく、慈悲があれば衆生を害することはありません。更に一歩進み、衆生に利益を与えるために、自分の利益を放棄することができ、そこで、「自身のために安楽を求めず、衆生の離苦を願う」の菩薩誓願があります。私利・公益の両極、或いは人を利することを利己とするで、最初のちょっとした心得違いや誤った考えは、利己的は精神の汚染であり、心の腐敗です。奉献心で利他的になることが、精神の昇華、つまり心の環境保護です。

道家の老子はこう説きます。「道者、万物の所然なり。」またこう言います。「人人法地、地法天、天法道、道法自然 (人は地を法とし、地は天を法とし、天は道を法とし、道は自然は法とする)」なぜなら、「道常無為、而無不為(道の常は無為にして、而も為さざるは無し) 」だからです。これは自然の法則で、心も自然現象の一つです。老子は、宇宙の人生を見て、互いに反していながら互いに補足する立場に立ち、人々の役に立つことなら、相手の考えと相反する忠告もします。また、かつてこう説きました。「知其雄、守其雌(その雄を知りて、その雌を守る)」、「知其白、守其黒(その白を知りて、その黒を守る)」、「知其栄、守其辱(その栄を知りて、その辱を守る)」。

老子は人の私欲心に対して行った建議は、「見素抱樸、少私寡欲(利己心をおさえて欲望を少なくしよう)」また言いました。「知足不辱、知止不殆、可以長久(足を知れば辱められす、止まることを知れば殆うからず。 以て長久なるべし。 )」これは、人は無私にはなれないが、自私が多少あっても宜しい、人は無欲の必要がないが、欲が多少あっても宜しいということです。知足知止(足るを知る、止まるを知る)を理解すれば、健康に長生きできます。老子が熱望したのは自然主義で、純朴を提唱し、虚浮の繁華に反対し、人類の道徳を望み、素朴で色々な口実を設けお互いを騙さないということです。そこで、「絶聖棄智(聖を絶ち智を棄つ)」、「絶仁棄義(仁を絶ち義を棄つ)」、「絶巧棄利(巧を絶ち利を棄つ)」を主張します。

荘子は天地間の万事万物を観察し、「形は異なるが、同じである」と説きます。この意味は、万事万物の存在は、優劣・尊卑・高低・大小の定義はなく、それぞれであるということです。また、人は「羨望のわずらい」を避けることができます。例えば、〈斉物論〉の言う「天下莫大於秋毫之末(天下で一番大きなものは、秋毫〈秋に抜け変わった鳥獣の細い毛〉の先」、これは万物の中で秋毫が最大というのではなく、また、泰山(一番大きい山)と秋毫の大小を比較する必要はなく、秋毫の先自身が最大ということです。全ての人が尊卑の優越を比較しなければ、自分が相手より劣るとか、自分が相手より勝るとかいう比較の心は生まれません。

荘子の人生観は、儒家の「殺身成人(正義のために死ぬ)」、「捨身取義(身を捨てて義に就く)と異なり、墨子の「兼善天下(天下の人々をも善に導く)」の人生追求とも異なります。学者の説く「重生」、「養生」、「保生」は、《荘子》の基本思想です。いわゆる明哲保身(賢い人は物事の道理に従って行動し、危険を避けて安全な道を選び身を守る)とは、《荘子》の〈養生主〉にある、「為善無近名、為悪無近刑、縁督以為経、可以保身、可以全生、可以養精、可以尽年。(善をなすも名に近づくことなく、悪をなすも刑に近づくことなし。督に縁りてもって経となさば、もって身を保つべく、もって生を全くすべく、もって親を養うべく、もって年を尽すべし。)」から来ています。

儒道両家の人生に対する見方は同じではありませんが、用心とは全て人類心身の健康・快楽・平安の為であり、観点が自己と社会を配慮する為だけではありません。ひいては、順乎自然の目的は同じであり、そこで全てが心の環境保護の範囲にあります。儒道両家の人生に対する問題は、どうして異なる見方があるのでしょうか?これもまさに現代人が考え学習すべき重要点です。古人は、時代と環境が異なる場所にいたため、環境に対する観点は異なり、異なる発明があり、異なる価値観を持っていました。現代人はもちろん型どおりに行動することはできます。現代人の立場に立って、現在の私達の置かれる社会環境と自然環境、各種問題について、慎重に観察し、情況に応じて適宜に処理します。

三、仏教と心の環境保護

《増一阿含経》ではこう説きます。「諸仏皆出人間、終不在天上成仏(諸仏は皆この世から出たもの、天上で成仏したのでない)」仏教の基本的立場がわかれば、人類のために手助けができます。仏教では一切の衆生には皆仏性があり、修行・悟道することができますが、それは人類のみに限られます。釈迦牟尼仏は、この世の肉体で悟りを開き、人の体を持ち、皆が成聖の機会を持つことを表します。仏は悟りを開いた後、まず五人の比丘の法門を度脱し、「四聖諦」と称されます。それは、人類が一切の現象を参悟できないのは全て無常に変化することを指摘します。そこで、衆苦の中に生きることは、苦の為ではなく、無常虚幻の五欲の享受の追及と保障のため、様々な悪業を作ること、「苦諦」、「苦集諦」です。仏陀が悟ったのは、この「無常即空」で、五名の比丘に代わって伝えたのは、戒定慧の三無漏学と、八正道来滅除苦諦及び苦集諦、つまり、「道諦」と「苦滅諦」です。

仏法は人の心身と時空環境を「果報体」と称します。これには二つに分けられ、人の心身は「正報」、時空空間は「依報」と呼ばれ、この正依二報は、人生及び宇宙の全てであり、果報の動力の中心は、業が形成する心識、つまり業識と称されます。業識によって健全な人間になるのですが、色・受・想・行・識の五蘊、その中の色蘊は物質の眼・耳・鼻・舌・身の五根で、この五根が接触するのは、色・香・味・触の五塵を形成します。受・想・行・識の四蘊に至っては、非物質的な心理現象と精神現象です。受苦報・受楽報のは、この五蘊心身で、造悪業・造善業のもこの五蘊心身で、そこで五蘊の成る心身は、造業し感得による果報であり、一人一人の五蘊心身の置かれる時空環境も、造業で感得の果報によるもので、これはすなわち、一人一人の生命は業報体であり、人の生命の置かれる時空環境の善し悪しに関係なく、全ての生命が個別に持つ業報体で、一人一人の宇宙の生命観及び宇宙観です。

しかし、仏の智慧から見れば、個別の心身や全体の宇宙と関係なく、全てが無常を離れない自然法則です。全ての物が無常の暫有であり、長久の恒有ではありません。そこで、不変の無い自性は、「自性是空」と称されます。五蘊の成る心身と時空環境は、自性亦空です。五蘊既空、凡夫の考える我と所有する一切は、もちろん自性即空です。自性空、すなわち不生不滅・不増不減・不垢不浄の真諦です。一切の現象、自性皆空の真諦を悟ることができるなら、無我の涅槃を証明し、苦・集二諦から解脱を獲得します。そこで、《心経》ではまずこう説いています。「行深般若波羅密多時、照見五蘊既空、度一切苦厄(迷いの岸辺から般若 ( 悟り ) の岸辺つまり彼岸へと渡る為の般若の智慧を開くために深い修業をしていた時に、人間の肉体や精神を構成している五蘊のすべてが空であると悟り、人々を一切の苦悩や災厄から救済された。)」これは仏学の基本的な常識で、心を中心とし、一切の事から離れていますが、一切の環境保護の思想からは離れません。

仏教の角度から心の環境保護を話せば、貪り・怒り・愚か・傲慢・疑い等の煩悩の心を避け、智慧心の開発と慈悲心を高める立場に立ち、私達の置かれる環境に向き合います。智慧心があれば、自己の心身をいつでも健康、快楽、平安な状態にでき、慈悲心があれば、他人も健康、快楽、平安な心身が獲得できます。

いかに煩悩を悲智に変えられるのでしょう?五蘊構成の心身をよく理解します。空は我ではなく、これには二つの結果があります。一つは自他を害する悪業を二度としないこと、二つは直ちに苦報を受けず、例え火宅の中に身を置いたとしても、清涼な池の中で沐浴する如くすることです。しかし、無数の衆生がこの道理を理解せず、貪り、怒り、愚かさ、傲慢さ、疑い等の煩悩火窟の中で苦しんでいます。そこで、五蘊心身を用い、世と人を救う人は、菩薩行者と称されます。

東亜思想中の中国大乗仏教には八大宗あります。それは、三論・唯識・天台・華厳・浄土・禅宗・密宗・律宗で、各宗派に、本体論・人生論・実践論の教法があります。各宗派の依拠する経論は異なり、観点も出入りしますが、同様なのは依拠とする衆生の如来蔵心、天台宗が一念心性には三千が備わると主張し(百界千如三世間)、華厳宗は理体清浄は不変(隋縁不変、不変隋縁)であると主張します。

また、天台宗派下の学者は、ある人は妄心観を持ち、ある人は真心観を持ちます。禅宗の五祖門下は、北方の神秀は漸悟を主張し、南方の慧能は頓悟を主張します。禅宗の四祖は「守一不移」を主張し、五祖は「看心」と「守心」を主張し、六祖は「不着心」・「不着浄」・「亦不是不動」を主張し、三代の間でそれぞれ主張があります。修念仏法門では、禅宗は「念仏心是仏」を主張し、浄土宗は西方極楽世界の阿弥陀仏を主張します。馬祖道の一人の禅師はまず即心即仏と説き、その後非心非仏と説きました。類似する例を見たところ、複雑で矛盾しているようですが、実はそれらの功能は全て自他を利するためです。これはすなわち、その時、その場所、その人の状況・情勢に応じて適切な措置をとるためです。異なる時空・異なる人・異なる状況があるため、多元的・多層面の教法で応対し、人の心身健康・快楽・平安さえ得られればいいのです。

禅宗の頓悟成仏の立場から言うと、真っすぐ人心を目指すことであり、文字で広く伝わる仏経祖語により、方向指示を修正するだけで、それら自身は方向が示す目的物を代表するのではありません。禅宗祖師が仏経祖語を、葛藤・絡索に比喩していますが、これは、文字の経教が死執しても、人に困惑を与えるということです。しかし、仏教祖語がなくてもいけません。そこで、禅宗の《六祖壇経》、教人依拠《浄名経》(《維摩経》意訳)の「直心是道場、直心是浄土」の開示、修行者は「一切の処、行・住・座・臥、常行一直心(常に筋の通った心で行く)」つまり、「一行三昧(精神を1つのことに集中し、統一する)」です。

禅宗六祖である慧能大師はまた《金剛経》の説く「応無所在、而生其心(まさに住するところなくして、しかもそのこころを生ずべし)」を依拠として、「心不住法、道即流通。心若住法、名為自縛(心が法に執着しなければ、自分の思い通りになる。心が法に執着するなら自縛する。)」を主張します。「応無所在」は、一切の現象と自我中心の利害得失が結びつかず、「而生其心」は、無我の智慧心で一切の状況に応対処理します。そこで、心不住法(現象)は、仏道の智慧は貴方の心中で効用が生じ、心若住法(現象)は、自己がこの法で束縛され、智慧の機能も現れません。

そのため、六祖以降の禅宗祖師らは、「道在平常日用中(道は日常生活の中にある)」を主張し、飲み食いは全て解脱道と菩薩道で、水を担ぐのも薪を取るのも解脱道と菩薩道で、日が出たら働き日が沈んだら休む、これも修行であると主張します。百丈懐海禅師は、自分に「一日不作、一日不食(一日作さざれば一日食わず) http://www.dinnerservice.co.jp/itiniti.html 」を要求しました。執着のない直心の生活を用いれば、常に心身の健康・快楽・平安な時間が持て、あらゆる場所に心身の健康・快楽・平安の空間があり、出会う人・見る物・する事も、全てが善人・善物・善事です。そこで、雲門文偃禅師も「日々是好日(拘りや囚われをさっぱりと捨て切って、その日一日をただありのままに清々しい気持ちで生きる。日常、朝も晩も・生も死も・楽しくても苦しくても・皆それぞれが、好日なり)」と説いています。

四、仏鼓山が提唱する心の環境保護

多くの現代人は物欲の刺激と誘惑によって、心の防御法がわからず、善心の保護網を張りません。そこで、簡単に自我が制御できなくなり、反抗できなくなり、その結果大多数の社会の大衆が、毎日盲目的に物欲の享受と名利の保有を追及し、意味不明な保障感を追及し、多忙・緊張・恐慌・互いの騙し合いによって、自己の尊厳を失い、人生の価値観が曖昧になり、他人の権益を傷つけ、社会の安寧・調和・バランス・共同の安全保障を害し、皆を不健康・不快楽・不安全に導きます。そこで、多くの人はこう不平をこぼします。「社会の人の心は、一体どうしてこうなってしまったんだろう?」答えは、恐らく心の汚染にあります。人としての精神が、現代の速すぎる発展文明での生存環境によって汚染されてしまったのです。そこで、私は 1991 年から積極的に、「心の環境保護」を提唱しています。目的は、社会大衆に呼びかけ、正確な人生の価値観を作り上げることで、健康・快楽・平安の生活が持てるようにすることです。人心が浄化されれば、社会も浄化されます。現代文明は罪悪ではありません。人の心が汚染されさえしなければ、私達の世界には明日の希望があります。健康は正確な精神で、現代文明の科学技術の生産に合わせることで、人類に幸せをもたらすことができます。さもなければ、物質の享受が豊富でも、精神の心が空虚なら、物質は豊かといえても、心は貧しく、人類社会の今日と明日に対して、害が利よりも多くなり、至っては大災難ももたらしてしまいます。

私自身は仏教徒であり、中国の大乗禅宗の思想を信じることで、人心を浄化するのが手っ取り早く、特に服膺永明延寿禅師の説法は、誰であっても、現在の一念心と仏の悲智願行を相応させるだけで、貴方の一念心は仏心となり、多くの念心と仏の悲智願行が相応し、貴方の多くの念心は仏心となります。全ての一念心と仏の悲智願行が相応すれば、貴方は福と慧の円満な仏果を証明します。仏経から見ると、仏果位は円満になるのは非常に難しく、禅宗の立場から見ると、一念心が刺激や誘惑に悩まされさえしなければ、現在の一念心は、諸仏と全く違いがありません。無常・空・無我の人生観と宇宙観で、環境の観察・心境の標準を観察すれば、直ちに解脱ができます。

心念の生住異滅・肉体生命の生老病死・自然な現象の風雲の雷雨・時間の古往今来・空間の滄海桑田(世の移り変わりの激しい)は無常です。ひいては、花開花謝・月円月欠・栄華富貴と潦倒落魄(落ちぶれる)等、全ては無声の無常法です。

無常を観察・体験し、同時に《金剛経》の「応無所在、而生其心」が運用できれば、積極的な心の環境保護で、一切の現象が無常であると認知します。例えば、自然現象・社会現象・生理現象・心理現象、全てが無常です。

一切が無常なため、一切を変えることができます。悪運に出会ったとしても、悲しみ恨んだり失望することはありません。もしも智慧で因応し、それに時空因素の転換ができるなら、悪運は貴方から去って行くでしょう。幸運に出会っても、いい気になる必要はありません。智慧心と慈悲心で運用できるなら、更に一層優れた幸運が訪れるでしょう。もしも貴方が、大切にする・保養・育成することを知らなければ、自然法則の成敗得失は、往々にしてちょっとした心得違いや誤った考えが重大な結果をもたらすことになります。無住の智慧心で、社会大衆に利益を与える慈悲心が生まれることで、無常の一切の現象に向き合い、無常の一切の現象を観察・体験・運用すること、これが解脱道及び菩薩道の修行です。そこで、六祖慧能禅師が《金剛経》のこの話を耳にした時、直ちに頓悟し、また、悟った禅師達は、日常生活中のいかなる物・草木・色香・人の挙手投足と一言一行が見えるようになったわけです。自分については、順境・逆境に関わらず、ただ諸仏の無声説法とは、無常法に他なりません。無常は即無自性空で、空性は不生かつ不滅です。そこで、全ての物事は、いつでもどこでも、無生無滅・悲智具足の実相法を説きます。一切の現象は、全てが諸仏の無声説法である以上、自己と矛盾が見えず、また、得失利害もありません。しかし、生命の尊重・資源を大切にすること、衆生のための利益・衆生のための苦難は、慈悲を持って救済します。これは心の環境保護の最高の境界です。

仏を学び、禅を修行してから心の環境保護を取り組むのは良いことですが、全人類が仏を学び禅を修行してから、全世界で心の環境保護を開始することはできません。現代人と話した心の環境保護は、多元化の原則の下、人類が共に環境問題に向き合う必要があります。例えば、以前に述べた東亜思想中の儒道二家も、心の環境保護の内容を持っています。実は、人類社会のために智慧を提供し、全人類の心身が健康・快楽・平安の観点と方法を得ることで、健康・快楽・平安の環境を作り出すことができます。これが心の環境保護だと言えます。

そこで、私は国内外にて心の環境保護を推進しています。これには二つの面があります。

一つ目は、学仏・禅修の面で、これは、学仏・禅修に意願と興味のある人を対象としており、学仏・禅修の観念及び方法を用います。これで、参加者に自我認識・自我肯定・自我成長から、個人の自我・家族の自我・財物の自我・事業仕事の自我・グループ社会の自我、至っては全体宇宙時空の自我、最後には幾重にも重なった自我を体験させ、一つ一つを手放し、最高の境界に至った時、宇宙全体の大我を手放します。これが禅宗の説く悟境現前です。しかし、多くの人にとって、先に心身の力を緩め、その後心身を統一させ、心身と環境を統一させ、「無住」・「無相」・「無念」に至り心身と環境を手放した時、ようやく悟りを開くことができるのです。

二つ目は、「四種の環境保護」及び「心五四運動」の面で、まだ学仏の意志がなく、禅修の暇がない一般大衆を対象としています。そこで、出来るだけ仏学の名詞を使わず、宗教色を薄め、現代人の心身と環境のニーズに合わせるだけのもので、心の環境保護を主軸とした「四種の環境保護」及び「心五四運動」を提出します。

いわゆる「四種の環境保護」は、心の環境保護・礼儀の環境保護・生活の環境保護・自然の環境保護を指します。

いわゆる「心五四運動」は、心の環境保護と関係のある五つの類別で、以下のように、それぞれ四点の実践項目があります。

1. 四つの安――安心・安身・安家・安業。

2. 四つの要――需要・想要・能要・該要。

3. 四つの它――它と向き合い、它を受け取り、它を処理し、它を手放す。

4. 四つの感――感恩・感謝・感化・感動。

5. 四つの福――知福・惜福・培福・種福。

以上、二つの面の心の環境保護は、すでに東洋・西洋社会にて、相当に興奮と反響を呼んでいます。

私は、東西両半球にて 300 回以上もの禅修業を行った以外に、 2000 年にニューヨークの国連本部で開催された「世界宗教及び精神的指導者の平和首脳会議」( UNMillennium World Peace Summit of Religious and Spiritual Leaders )の中で、「心の環境保護」の理念を紹介しました。 2001 年にも、世界経済論壇( WEF) の中で紹介しました。 2002 年にも、「地球憲章」( EarthCharter )にて心の環境保護の重要性を紹介し、この組織に明確に受け入れられました。全ての国際的会議に参加している間、毎回この議題を発表して、皆さんと分かち合い、同時に多くの方からプラスの評価をいただいています。

五、結論

以上に述べたことからわかるように、心の環境保護は、古今・地域・宗教・グループ・生活背景の区別はありません。ただ心願を持つ人が、取り組むべきなのです。

そこで、私は全世界の心願を持つ人達に、こう呼びかけたいと思います。一緒に人の心と地球環境を救い、心の環境保護の仕事に投入します。その内容は、極めて広く、大きいものも小さいものもあり、深いものも浅いものもあります。多くの異なる領域も考慮に入れる事ができそうです。例えば、ある宗教と現代人の心の環境保護、ある主義と現代人の心の環境保護、ある哲学思想と現代人の心の環境保護、ある科学技術文明と現代人の心の環境保護、ある経済体系・ある政治体制と心の環境保護、ある生産事業・建設計画と現代人の心の環境保護、ある地区開発或いは重点開拓と現代人の心の環境保護等、全てが私達の衣食住・教育・娯楽等の関連する一切の施設、出来れば現代人の心の環境保護と結合出来ればと思います。そうすれば、多くの相違性の利益を、全地球・全人類の永続の共同性の利益に返すことができるでしょう。

(〈東亜思想から現代人の心の環境保護を話す〉から抜粋)

 

生活の環境保護

仏教の生活観は、知福・惜福・培福・種福があって初めて、「有福(福が有る)」と言います。

皆は福報を望みます。例えば、中国人が旧正月の時、「春」や「福」の字を逆さまに張るのが好きです。これは、春や福の到来を象徴します(中国語で、逆さと到来の発音が同じ)。春が来れば希望も来る、希望が来れば福報も一緒に着いてくるということです。しかし、本当の福とは、まず最初に「有福」を知ることで、福報を大事にできることです。なぜなら、福報を得ることは容易ではないからです。「瓜を植えれば瓜がなる、豆を植えれば豆がなる(因果応報)」と言いますが、瓜を植えても必ずしも瓜が得られず、豆を植えても必ずしも豆が得られるわけではありません。瓜は植えないと得られませんし、豆も植えないと得られません。つまり、善因を植えてこそ、善果がもたらされ、必ず大切にすることで、容易でない福報が得られるのです。

現在の台湾は、数十年前から比べると、生活品質はとても高くなり、現在の台湾で生活できることは、私達の福報は実際に大きすぎます。私達は、自分が福報の中で生活していると知り、福報を無駄にしてはいけません。これは銀行にお金を貯金することと同様で、苦労して貯めたものです。苦労せずに天から降ってきた物ではありません。私達は必ずそれを大切にすることでそれを守ることができます。また、それを大切にすることでそれが増すだけでなく、福報を増やし、生存の保障も更に増えます。さもなければ、福報があるだけ福報を使い切って、生活は安全の保障がなくなります。更なる安全と幸せのために、私達は培福と種福をすれば、必ず福がもたらされます。

しかし、自然資源を手に入れることは非常に簡単に感じ、私達は往々にして浪費してもそれに気付きません。食べたものや使ったものを気にせず、私達は知らず知らずのうちに多くを浪費しているのです。特に今の若者は、惜福の観念はまだ受け入れることも理解することもできていません。

20 数年前、日本で一組の父子がご飯を食べているのを見たのですが、息子が食事の後、デザートとりんごを取って、一口だけ食べて捨てているのを見て、父親はこう言っていました。「お父さんが子供の頃はデザートを食べるのさえ容易じゃなかったし、一人で一つのりんごを食べるなんてことは不可能だった。どうしてお前はこれらを無駄にするんだ?」息子はこう答えていました。「お父さんは昔の人だなあ。お父さんが子供の頃はかわいそうに、食べ物がなかったみたいだけど、今は冷蔵庫を開ければいっぱい食べ物が入ってる。僕はもうお腹いっぱいだし、これらの物はまずいし、どうして捨てちゃいけないの?」

これは、私が日本で実際に見た話で、きっと多くの人もこのような状況を目にした事があるでしょうし、この観念を持っている人もいるでしょう。資源が豊かなため、一日仕事をすればたくさんのりんごが買えます。もしも、それがまずかったり食べ切れなければ捨ててもいいとします。しかし、これらを捨てる事が、資源の浪費、同時に環境汚染に繋がると考えたことはありません。

一日の出すゴミが少なくなれば、私達の生活はもっと清浄に保てます。思うままに資源を無駄にしていれば、環境破壊は更に進みます。これは相互循環の道理です。多くの人が自分の家のゴミを外に捨て、外でこれらのゴミの臭いを嗅いだ時、皆鼻をふさぎます。そして、これらが自分が作り出した悪果だとは気付きません。

台北県と台北市は、ゴミ問題で多くの論争を生みました。台北市はゴミを台北県に捨てたいとのことでしたが、台北県は、「ゴミはいらない。」と答えています。同様の問題がアメリカでも発生したことがあります。ある時、ニューヨークの港に停泊していた二艘の大船がゴミを海に捨てようと思い、どこの島に運べばいいか迷っているうちに、島の人に発見され、その後どこに行くにも厳密に監視され、この二艘の船は海上を彷徨い、数ヵ月後にニューヨークに戻ってきました。これは元々は人を害そうとは思わなくても、最後に自分を害することになると説明ができます。私達がゴミを出す時は、自分と無関係のように感じますが、実は非常に密接な関係があります。

仏教徒のもう一つの生活観念は、寧静・清浄・整潔・簡素であり、これで修行します。

ある一つの統計が示しています。アメリカで食べられる食べ物は 40 〜 60 %、捨てられる食物も 40 〜 60 %、つまり、半分は食べ、半分は捨てられているのです。実は、私達が物を食べる時、食べられる分だけ取ればそれでいいのです。

現在、どこのレストラン(中華・洋食共)においても、一種の習慣があります。全て残さず食べること、それはこの人は食いしん坊で、礼儀を知らないということを表します。このような習慣は良いでしょうか?わかりやすく言うと、このようにすれば、食器を洗う人は面倒ですし、残された食物によって大地・排水溝・海洋を汚染し、資源の浪費は環境破壊し、これは一種の環境保護の悪い習慣です。

台湾では今では餓死する人はいませんが、世界上の三分の一の人口は、飢えの生活をしています。もしも私達が惜福をしなければ、簡素な生活をしなければ、台湾でももしかしたら同様の問題が発生するかもしれません。

「惜福は享福より重し」の習慣を身につけることが一種の美徳で、この観念はずっと人々に受け入れてもらいにくかったです。一部の経済理論家はこう言っています。「消費を勧めることは生産の刺激となり、消費が更に増え、生産量も更に増えます。」

しかし、また反対の意見もあります。なぜなら天然資源には限りがあって、世界上の資源がますます減ることはあっても、増えるということはありえません。現在、私達は大量の鋼鉄で機械を生産し、大量の石油がエネルギーの供給をしています。しかし地球自身が「有限会社」であり、「無限会社」ではないということは考えません。無限の供給はありえず、そのうち底が尽きてしまうのです。

私はいつもこのように比喩しています。人の身体には、皮膚・血・骨・肉があるように、地球にも、皮膚・血・骨・肉があります。私達は自然の資源を使いますが、。これは、骨を少しずつ取り出し、血液を少しずつ出すことと同様で、取りすぎれば貧血を起こし、血がなくなれば死亡に至ります。そのとき地球は一つの死・無人の星となるのです。

資源を宇宙や他の星から持ってこられる可能性も非常に少ないです。世の中の浄土のために地球上で実現できるのは、私達が自然資源を大切にするということです。

社会上の略奪・誘拐・窃盗は、見た目では他人だけを害する行為に見られがちです。奇抜な考えを持っている犯人は、犯罪が発覚することは自分の運が悪く、逮捕されないのは自分が運が良いからと思う人もいますが、このような観念は全くの間違いです。なぜなら私達の自然環境及び社会環境は、まるで同一人物の身体のようで、身体のいかなる部分に怪我を負えば、全身のほかの部分の健康にも影響します。

自他を害することは最も愚かなことで、短時間に見ると、もしかしたら自分が利益を受けているように見えても、長い時間で見ると、必ず相当程度の報いを受けることになります。

(《禅の世界》の〈仏教から私達の居住環境を見る〉から抜粋)

 

礼儀の環境保護

人と人との関係には礼儀が必要ですが、今日の社会には礼儀のある人が少なく、内心から本当に礼儀のある人は更に少ないです。ある人は、自分の商売において、自分と利害関係があれば、礼儀正しい言葉と行為を使い、相手と関係が無かったり疎遠な人に対しては、礼儀がありません。

日本で人に会う時は、必ずお互いに「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」と言いますし、子供が学校に行くときや帰宅の時は、親に挨拶します。

以前、台湾である若者を見たのですが、車を待っている時、不注意に老人の足を踏んだのですが、一言の「ごめんなさい」の言葉も言わず、走って過ぎ去りました。老人は若者を追いかけてこう言いました。「ごめんなさい!私の足が貴方をびっくりさせてしまいましたね。」この老人は、この経験から、若者が今後誰かの足を踏んだ時、一声「ごめんなさい」と言えるように願っているのです。

仏教の立場から言うと、三つの礼儀の項目があります。

1.  身儀の礼譲・礼敬:仏教徒の合掌・軍人の敬礼・一般人のお辞儀、全てが礼儀です。行・住・座・臥など、人や物に接する時、譲り合い・誠意のある態度も一種の礼儀です。

2.  口儀の賛美・励勉:ある時例え相手が過ちを犯したとしても慰め励まし、よく出来た時はそれを賛美すべきです。相手が、二割が正確で八割が間違っていたとしたら、私達は相手の二割の正確を賛美し、間違った八割を慰め励まし、その人に今回は間違いであっても、次回は必ず改善があると告げます。

父母や教師等の年長者に対して、諸仏菩薩や祖先に対して、身儀・口儀で尊敬を表すことができます。生きている人に対しては、賛美と励勉が必要で、死亡した人に対しては、生きていた時の美徳を賛美すべきです。

3.  心儀の真誠・懇切:私達は誠意のある懇切な心で敬上礼下をすべきで、人・事に対しても感恩感謝の心で接します。心に誠意がなければ、外見だけの礼儀は、何度しても人を感動させることはできません。

儀典において、物質を無駄に派手にやるならば、それはただの資源の損失です。資源を損失し、その場を重んじ虚栄の満足だけでは、それは本当の礼儀ではありません。

誠意懇切のある心儀があれば、褒めたり慰め励ます口儀、謙虚できちんとした身儀で、儀典を行うこと、これが真に社会に有益な礼儀です。

目下の台湾は、葬儀や祭儀の礼儀方面において、更に検討・改良の必要があります。私達はよく派手な出棺で、会葬の隊列が数百メートルにも及び交通を妨げる場面を見ます。隊列の中には、洋楽があったり中国音楽があったり、出家者が木魚を叩いてお経をあげたりします。それは全て拡声器やマイクを使って大きな音で流され、近所住民に騒音公害をもたらします。

また、他にも悪い習慣があります。以前、一台の車を見たのですが、車上には位牌があり、恐らく火葬場から戻ってきたばかりなのでしょう。位牌や遺骨以外に、車が一方で前進し、一方で人が一枚一枚冥紙を放っていました。

このような方法はちっとも意味がありません。家族の中に往生した人がいるなら、菩薩の名を念じるべきです。もし自分で念じるのに疲れたり、順番に念じる人がいないなら、「阿弥陀仏」の録音テープを流してもいいです。念仏を唱えることは、亡くなった人と家族に一種の安慰感・平和・祥和を与え、死者を西方浄土に往生させ、家族に自分たちも西方浄土に往生できるよう信じさせます。このように、生と死の間には何も恐れはなく、距離も遼遠ではありません。

台湾にある民間信仰も改進する必要があります。例えば、死んだ犬を水に流し、水の流れに従って海に向かう。とか、死んだ猫を木の上に掛けて、日光と夜露に当てる、台湾語では、「死んだ犬は水に流し、死んだ猫は木に掛ける」です。実は、死んだ犬は水に流されても海まで行かず、反対に川の汚染となります。猫の死体からもウジがわいて、空気中にも死体の臭いが漂い、公衆衛生に危害を及ぼします。

ある人は迷信を信じ、病人の飲んだ漢方薬の煎じかすを交差点に捨てて、歩行者に踏んでもらうという方法もあります。このような方法で、病人を早く回復させ健康にさせるというものです。この意味は、漢方の煎じかすを踏んだ人が病気を持って行ってくれるというものです。この安心は一体何なのでしょう?これらは礼儀の環境保護を通して、次第に迷信を打破し、社会の浄化を図るべきです。

私達は、礼儀で社会生態を守り育み、お互いの摩擦を減らし、お互いの怨恨を取り去ります。礼儀を重視することで、社会は更に調和が取れ、個人も更に健康に楽しく生活することができます。反対に、他人に無礼にすれば、同様の無礼な態度が帰ってきます。自分にこう告げてください。健康に楽しく生活するために、相手にも礼を尽くし譲るべきで、心から正直に相手に礼儀を尽くします。これを信じれば、必ずお互いの怨恨も消えるでしょう。

礼儀で社会の気風を改善させることは、上品で礼儀正しく、富みて礼を好み、礼には礼をもって返し、共存共栄の社会体質です。もちろん、いわゆる「富みて礼を好む」は、豊かになった後礼儀を重んじるということではなく、貧富と関係なく、皆が礼儀と教養を持ち、上品で礼儀正しい気質を表すということです。また、現在の社会において、文化人は非常に少なく、例え教育を受けなかったとしても、大衆文明において見よう見まねで知らず知らずにその影響を受け、お金の有無に関係なく、全ての人が礼儀を持たなければなりません。それ以外に、「礼には礼をもって返す」ことができる人は、必ず他人を尊重し、他人に感謝ができる人です。全ての人が更に礼儀正しい言行ができるなら、暴虐の気持ちを減らし、私達の社会は更に調和が取れ、更に繁栄し、生活も更に安全に、更に安定するでしょう。

(《禅の世界》の〈仏教から私達の居住環境を見る〉及び《仏鼓山の方向》から抜粋)

 

 

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