心の環境保護

全世界的な運動となった心の環境保護

法鼓山はここ数年、心の環境保護を推進しています。国内の提唱以外にも、全人類未来の全世界会議( Y2K 連合国世界宗教及び精神的指導者の首脳会議・世界経済論壇・ 2002 年バンコクにおける世界宗教指導者理事会など)においても、この心の環境保護の理念を提唱しています。心の環境保護が指す内容は、何が人の正確な価値観念か、人生の責任は職責と力を尽くすこと、人の機能は奉献中から成長すること、人の意義はいつでも自我を抑え常に喜び気楽にすること、人の生命は無限の時空に入り無限の時空を超えることです。私達がこれらを全てはっきりわかれば、将来どうしていいかわからなくなったり、空虚で退屈にもなったりしません。

生命の存在から見れば、全ての生命に「将来性」があります。この将来性の発展は人によって異なりますが、必ずその価値はあります。宗教を信仰する人は、生命には永久不変の未来があると信じ、終極の配慮と称されます。宗教を信仰しない人も、一人一人の存在(密接に関係する国家・民族・全体の人類、至っては全宇宙の存在)を体得すべきです。

私達には数十年の寿命しかありませんが、歴史と社会の生命が一つに結合し、永遠に宇宙時空の全体生命を離れることはありません。そのため、一人一人の生命は非常に偉大です。宗教信仰の有無と関係なく、このような考えを持っていれば、生存に対して恐怖感もなくなるでしょう。人との付き合いにも疎遠感はありませんし、衝突も対立もありません。広い度量を持ちさえすれば、随時随所に平安を感じ、人格の安定と成長の助けになります。

しかし、このように偉大な生命は一般人は体得しにくいため、まずは観念の確立と方法の練習から始めることで、次第に体験できるようになります。そこで、できるだけ禅修の観念と方法を練習・運用し、できるだけ環境の影響・誘惑・刺激を受けないようにします。

基礎の禅修観念が知らせるのは、人々は皆、開悟・成仏の機会があり、自我中心の執着をなくすこと、つまり禅悦と法喜です。禅修では、呼吸を体験することで、全ての注意力を呼吸に置き、頭には複雑な情緒がなくなります。或いは、情緒が複雑でも、呼吸を体験することによって、情緒は次第に安定していきます。これはいつでもできる一種の練習方法です。

また、道教・キリスト教・イスラム教・その他の宗教に関わらず、瞑想・唱経・礼拝・祈祷を通して同様に内心の安定と平静に達することができます。 2002 年 9 月 21 日と 22 日に開催された「心の環境保護全民博覧会」に、カトリックの単国璽枢機卿も参加され、共に心の環境保護を推進しました。着想と方向から言うと、心の環境保護とカトリックの推進する心の改革は、互いに呼応するものです。それに、心理学から見ると、心の環境保護と情緒管理及び心理分析も同工異曲(やり方が違っても効果が同じ)です。

心の環境保護は、私達の対立する自我を超えるだけでなく、全体統一の自我の超越を願います。いかなる領域の人であろうと、人と人を超え、人と環境の対立を超えればと思います。そこで、法鼓山が提唱する心の環境保護は、超越宗教・超越民族・超越国境を推進する大運動であり、これらは全人類の心の向上運動に属し、更には宗教を信仰する人とは関係なく、一同に分かち合うことができるのです。

(《人間世》より抜粋)

心の環境保護

慈悲に敵なし、知恵は煩悩を生まず

心の環境保護という名詞は私の創作ですが、心の環境保護とは、実は観念の導きによって人の素質を向上させることで、環境の影響と心の衝撃を受けない以外に、健康な精神で現実に向き合い、問題を処理することができます。人の心境は、環境中の人・事・物の誘惑や刺激を受けてよく変わります。軽い人は障害を受けますが、重い人は自主喪失につながります。心の防御措置を取るなら、いかなる状態においても、冷静・安定・自主・自在の心境を保つことができます。

一人の人間として、三つの修養(身体的・心理的・精神的)を備えるべきで、通常、身・心・精神の健康と称されます。残念なのは、一般の人は自分の身体の健康に注意するだけで、心理のバランスまでは考えず、また、精神面の修養についても忘れています。

平穏な境遇においては、自分の思い通りに取り組めば、克服できない難題がないと感じます。もしも続けざまに逆境に遭うなら、どうしてもため息をついてしまうでしょう。心の環境保護は、私達は勝っても驕らず、失意しても志を失くさないという習慣を身につけることです。

しかし、一般人にとって、勝って驕り高ぶらない人は難しく、負けて臆病にならない人は更に難しいです。心の環境保護の技量と、精神修養の基礎があれば、世界上には永遠の勝利者も失敗者もいなくなります。そこで、因縁の改善さえすれば、状況はすぐに変わります。

一時的な成功は永遠の保障ではなく、一時的な失敗は永遠の絶望ではありません。「平等心で取り組む」を知れば、心の環境保護面の範囲になります。

仏教では因果観念を主張します。通常の説法は、「瓜を植えれば瓜がなる、豆を植えれば豆がなる(因果応報)」ですが、実際、瓜を植えなければもちろん瓜はなりませんし、豆を植えなければ豆はなりません。また、瓜と豆を植えても、種に合った適切な土壌・太陽の光・肥料等がなければ、瓜や豆を植えても必ずしも瓜や豆がなりません。

ですから、仏法中には因果の定律だけでなく、因縁の定律も合わせる必要があります。つまり、万事一切の現象の形成は、因から果への過程の中で、各種の自然と人による要素の促成があります。その中の主な条件は、「因」と呼ばれ、適応条件は「縁」と呼ばれます。最初の因から最後の果まで、可能性はありますが、必ずしも一定の必然性はありません。ここからわかるのは、因果観には必ず因縁論を適応する必要があり、それでこそ正確な現象論となります。

因から果までは、一定の必然性がないため、個人の要素はもちろん、外在する要素も非常に重要です。個人の自主要素は、ある時は突発事件が起こる可能性があり、外在の要素の不確実性は、抑制が難しいです。

そのため、私達は自分の運命に対して希望を持ち、保証をしないことが一番です。前向きに努力するのが一番ですが、最悪な状況を防止する必要があります。さもなければ、行き過ぎた楽観も悲観も、因縁論の原則と反対方向に向かい、全てが完全な健康の精神ではなくなります。

 

観念及び方法

心の環境保護とは、心理のバランスと人格の安定において、観念の導き以外に、方法の練習が必要です。そうでないと、普段の心理状態が健康であっても、一旦拒みにくい刺激や誘惑等の各種の罠に陥ると、気付かない間にそこに入り込んでしまいます。或いは、重大な障害・打撃・挫折・不平に遭うと、限りない悲苦に陥り、起き上がる自信も失ってしまいます。

私の友人は、ある人は、多くの心理学や人格修養の本を読み、ある人は心理治療師だったり、ある人は格言を呼びかける本を出版したりしています。しかし、面倒な問題が起こったり、複雑な感情を持てば、依然として「天人交戦(天と人との戦い)」の悲苦から逃れることはできません。

心理のバランスと人格の安定を得る練習は、まずは、観念の調整(四種のステップ)から始めます。全ては正面から認知をすべきで、マイナスの危機と悲観的な情緒は避けます。人生の道中は常に起伏がありますが、全て前進の過程です。全てを逆の方向から考え、勝っても驕り高ぶらず、負けても落胆しない。成功して最高潮まで上ったら、そこから下りる心の準備も必要です。失敗して谷底まで落ちる時、次の山の頂上の風景を考えます。

全てのことに進退があることを知り、手に入れることも手放すこともできれば、思いのままに手に入れ手放せます。古人はこう言っています。「達則兼善天下、窮則独善其身(出世すれば天下をよく治め、苦しいときには 独りその身をよくする)」つまり、機会があれば理想を広げ、天下に奉献し、自分で担うべき責務はすすんで果たし、全力を尽くし、積極的に取り組みます。万一運が悪く連敗なら、鋭気を養い、力を蓄え、未来を待ちます。成功だろうと失敗だろうと、自我の私利と私欲を空と見、国家・民族・全人類の安否禍福の責任に対して、責任を負います。このような人は、知恵と慈悲のある人です。

しかし、観念の調整だけあっても、本当に心のバランスと人格の安定を保証することはできず、方法の練習で補うことで、ようやく効果が現れます。禅修の基本原則は心身をリラックス・心身の体験・心身の統一・心を手放すの四段階です。心身をリラックスと心身の体験は、自我の肯定と自我認知の範囲に属します。心身の体験と心身の統一は、自我の反省と自我成長の範囲に属します。心身の統一と心身を手放すは、自我完成と自我解きの範囲に属します。

心身のリラックスとは、いつでもどこでも頭の神経と全身の筋肉をリラックスさせることです。最初に練習する時、なるべく邪魔にならない空間を選び、一切の因縁を払う時間( 5 〜 10 分程度)を置きます。あぐらを組むのが一番ですが、椅子に座っても構いません。目を瞑り、眼球に力を入れず、頭で思考せず、冷静な状態を保ち、わずかに微笑み、全身の神経・筋肉・関節に力を入れず、下腹部に力を入れず、身体の重量感はお尻と椅子(座布団)の間に置きます。その後、鼻の穴から呼吸の出し入れの感覚を感じ取り、生命の意識を享受し、直ちに自我を享受します。この時、貴方はすぐに呼吸と全ての生命を感じ取ることができ、新鮮な呼吸が最も真実で親切な自我という以外に、他の物、例えば、損得や毀誉、全てが夢・幻・泡・影ということ、過去の全て消えて無くなった物、未来のまだ予測できないことを享受します。

認知と同時に、自我の自信は極めて脆く、自我の認知は極めて限りがあり、更には自我の管理も不足しているのがわかります。いわゆる偉そうにし、自我を大げさにし、自我をごまかす、或いは一人でくよくよする、自堕落に甘んじる、情緒の起伏、煩悩妄念のために心が乱れて落ち着かない、気が短い、体が思う通りにならない等の問題は、心が落ち着いている時や心身体験の練習中に気付き、一歩一歩改善できます。自分の長所と短所を深く知り、自分を肯定する自信がしっかりと築かれます。

更に心身体験から心身統一までは、自我の身体健康および心理健康に対する的確な配慮です。呼吸の体験では、心の安定・安寧・澄浄が可能で、当面の状態で起こった悩みや刺激を受けません。心身の体験の感覚、心理の体験の反応は、自主的に自分の心身を指揮しようとしても、千軍・万馬に号令をかけるよりも数百倍難しいのです。ナポレオンが戦いに敗れ孤島に追放された時、彼は全世界を支配できたのに、自分の心が指揮できないと嘆きました。

もし心身の安定と心境の体験ができるなら、少しずつ心身の負担を忘れることができます。それは心身の対立による心身の統一です。

簡単には自分の心身のコントロールができないとわかれば、他人の欠点を受け入れ、他人の長所を尊重し、自分の長所を誇張せず、自分の欠点をごまかしたり弁護しません。貴方は謙虚で、誠意があり、過ちを改め、全身で進む人になれます。

ですから、自我の心身を体験することは、「己を知る聡明さ」を意味します。心身統一の体験では、個人の自我が大環境や独立した存在から離れられないと感じられます。個人には限りがあり、大環境の時間と空間にも限りがあります。もし自分が全体の大環境に入られるなら、無限の存在になります。これは哲学家や宗教家の気持ちです。

心身の統一を更に一歩進め、心身を手放します。これは中国禅修のいう「絶観」で、《金剛経》の言う「無相」です。絶観は主観で超越し、客観的な一種の設定しない智慧で超越します。一般人の常識では、主観の判断はもちろん基準に足りません。実は、世の中で言われている客観的な角度は、あるグループ、ある時間中に出た主観の考えです。

いかなる風俗・習慣・法律・学説・信仰は、時代と環境によって変化しています。往々にして古人の生活習慣やある特定グループの風俗習慣は、 21 世紀の多元化・開放された時代において、大環境の試練に受け入れられなくなっています。

例えば、アフガニスタンのタリバン政権は、異分子を敵視し、非イスラム教徒を征服し、更には、国内で全面的に 2000 年もの歴史を持つ石彫刻の仏像を破壊しました。確かにその信仰の根拠はありますが、彼らの考えによるもので、少数の人の主観的な意志ではありません。しかし、イスラム教の基本教義にあった価値観は、必ずしも全人類の価値観を代表しません。そこで、早かれ遅かれ、客観的な環境の制裁に遭うでしょう。

禅修の説く絶観は、無我無相の智慧の機能であり、一切の状況に適応するもので、人・物事・時空環境によって異なる弾性の措置です。当面の衆生に利益を与え、他の衆生に害を与えず、従える例が無かったとしても、思うままに思い切って行います。なぜなら「法無定相(法は必ずしも決まった形を持たない)」が「実相」の真理であるからです。しかし、「無相」はただ消極的な否定ではないので、《金剛経》はこう説きます。「応無所住而生其心(まさに住する所なくして、その心を生ずべし)」「応無所住(まさに住する所なし)」は、固定した形が限られておらず、「而生其心(その心を生ずべし)」は、適切でちょうど良い処理と因応の一切の事情です。この種の「応無所住」の技量は、智慧と慈悲の作用です。「無住」は全ての智慧に悩まされることなく、無我の態度です。「生心」とは、人々の機根に従って対応する慈悲心で、平等な態度です。

この段階に来たら、私利私欲の自我心身を手放すだけでなく、宇宙と同体の無限大我も手放すべきです。さもなければ、小我と大我の経験は依然として相対的で、有相・有住・有我です。禅宗の無相と絶観は、有相と無相を超越し、時間相と空間相で超越し、自我相と非我相で超越します。互いに補完する二つの任務さえあれば、智慧心で煩悩をなくし、慈悲心で衆生に利益が与えられます。

 

慈悲と智慧

慈悲と智慧について話すとき、感性と理性の二つを連想する人が多いようです。実は、感性は決して慈悲と等しくなく、理性も智慧と等しくありません。なぜなら、感性を重んじる人は、とても多感な可能性があるからです。或いは、情熱がほとばしったり、感情がもつれたり、矛盾の衝突に陥ったりします。それは本当に疲れることです。慈悲は条件の無い奉献であり、見返りの支出や、恨むものも親しいものも同等に扱う配慮も考えず、とても気楽です。

理性を重んじる人になると、自分を主張し相手の過ちを許さない人、いわゆる驕り高ぶって威圧的な人は、慈悲も智慧もありません。自分が正しいと思っても相手に三歩譲って、筋を通しても柔らかく話します。自分が損しても構わないと思っても、不意の出来事に厳重に警戒する必要があります。全体の利益の為に、個人の利益を放棄しても構いません。遠い大利益の為に、目前の小さい利益をあきらめても構いません。これこそ智慧で事情を処理する態度で、真の智慧がある人は、必ず真の慈悲心があります。

こからわかるのは、慈悲と智慧は感性と理性に等しくなく、慈悲は感性と理性、智慧は理性と感性の調和で、感性と理性が相互に影響し、感性と理性は衝突しません。もし先の四つの段階で判断するなら、心身の力を抜く・心身の体験・心身の統一の修行過程中、慈悲と智慧の観念と方法の練習・運用をし、心身を手放す段階で、自由の心から生み出された宝物を始めて経験し、それを自由自在に運び、自分に対しても、他人に対しても、おっとりと、自然した態度で臨み、慈悲と知恵の両輪で運行することにほかなりません。

( 2002 年 2 月 25 日 総統府にて講演)

 

心の環境保護

「心の環境保護」は、環境衛生での保護の意味で、人類生存空間の擁護です。なぜ「心の環境保護」というのでしょう?環境汚染は人間が作り出したもので、「環境」自身は何の汚染も生み出しませんし、植物も鉱物も人類環境に汚染はもたらしません。人類のみが汚れと乱れを生み出します。汚染物質環境、更には汚染精神環境だけでなく、言語や文字、様々な形象と各種の思想観念などが、人類の心によって傷を受けています。物質環境の汚染は人為を離れられず、人為でかつ人から離れられない「心」であり、もし人々の「心」がきれいなら、私達の物質環境は汚染されません。そこで、環境汚染について討論し、根源から着手しなければなりません。これも「心」からの開始が必要です。

「心の環境保護」は新しい言葉ですが、中国古代から使われてきた「仁」、「義」、「愛」など、また、仏教の言う「慈悲」、「智慧」もこの範囲に属し、西洋宗教の唱える「博愛」も「心の環境保護」に近いものです。そこで、国家社会の富強康楽は、まず先に「人心」を築かなければなりません。では、どのように築くのでしょうか?

私個人が仏教上と生活上で体得したことを、以下に紹介させていただきます。

 

一、方向感を持つべし

いわゆる「方向感」は「立志」を指し、仏教の言葉では「発願」と言います。「立志」は大きい目標が必要ですが、大きな目標は、時空の移り変わりによって次第に減少するか消失します。人々は幼い頃から大志を抱き、将来どのような人になり、どのような仕事をするのか夢を持ちます。しかし、小学生の時の「願い」は、中学生になるとよく変わります。このように小学生から大学生まで、社会人になっても同様に変化します。皆さんにお聞きします。「皆さんが小学生だった時、大学に入ろうと思いましたか?」最初からこの考えを持つ人もいるでしょうが、このような人は少なく、大半の人は年を取るに従い、環境の変化によって、ゆっくりと今のこの道に到達したのです。ここからわかるのは、人は最初に方向感を持つべきですが、「目標」は必ずしもすぐに立てなくてもいいのです。「方向」も一人の人間を作る基礎であり、この基礎から一歩一歩未来に向けて前進するのです。「方向」も自分の気力・体力の尽力を指し、いたるところで様々な資源やいつもの学習成長を運用し、社会・国家・世界に対して有利な事は、全力で対処します。これが「大方向」です。実は、大方向は決まった目標がなく、かえってそれが最大かつ無限大の目標となります。もしも一つの目標しか立てられないなら、結果はとても苦しいかもしれません。例えば、大学センター試験を受ける時、第一、第二、第三志望を書き、もしも第一志望が不合格の場合は第二志望に、第二志望が不合格の場合は第三希望となります。このような方法が正しいです。一心に第一志望の大学しか考えない人もいますが、それに合格しなければ、第二志望すら叶いません。もちろんこの意気込みはとても良いです。もしくは自分の努力に頼り思い通りになることもありますが、一部の人は大学の門さえくぐれない人もいます。これに基づき、「騎馬找馬(馬に乗りながら馬を探す:現状を維持しながら、更に良い仕事を探す)」が比較的適切です。たとえある時間良い馬が探せなくても、足の悪い馬でも間に合うので、これも悪くありません。このような心構えがあれば、理想の学校に合格しなくても、落ち込むことはなくなるでしょう。

 

二、方向に向かって踏み出す過程には努力が必要

私達は「方向」に向かう過程において努力が必要です。なぜなら、一歩一歩前進する中で、いつでも「窮地に陥る」や「苦境から希望が見えてくる」の現象に遭いますが、「窮地に陥る」は決して進む道がないということではなく、「苦境から希望が見えてくる」もずっと良い前途があるということではありません。私達が前に向かって歩くことはまるで登山のようで、時には平らで広々とした道で、時には曲がりくねった小道で、突然至る所にイバラが現れたり、断崖絶壁に当たったり、自然の美しい風景を楽しんだりします。登山はずっと上に上り続けるわけではなく、時には「紆余曲折」したり、上ったり下りたりして、最終的に頂上に到着するのです。この一切の過程の中で、否定できないのは、私達はみな因縁に頼り成就させる必要があるということです。

「瓜を植えれば瓜がなる、豆を蒔けば豆がなる(因果応報)」という言葉があります。では、瓜を植えれば必ず瓜がなるんでしょうか?もし、「瓜」の種を砂漠に蒔けば、水の恵が得られず、結果はどうでしょう?皆さんはよくわかっていると思います。屏東大橋の下には渓流が流れており、西瓜を植えるのに非常に適した場所です。豊作が目前に迫ったある日の晩、台風が襲いかかり、これまでの苦労が水の泡となりました。このように一生懸命西瓜を植えても、結果は何も得られなかったのです。では、豆を蒔けば豆が得られるのでしょうか?これも同様の道理です。しかし、私達は一つの事実をはっきりと知っています。瓜や豆の収穫を望むなら、必ず瓜や豆を植えなければなりません。栽培に取り組まず、うまい汁だけ吸おうとしても、それは道義に合いません。ある人は「因があればきっと果がある」と考えますが、これは事実とは限りません。実は、「果」は必ず「因」から来るものですが、「因」から「果」の過程において、必然的に多くの条件要素が合わさる必要があります。仏教ではこれを「縁」と呼びます。つまり、主要条件に環境・時間・他人・自分が合わさることを指します。もしも因縁が全て備わっていないとか、成熟していないなら、強要しても得ることはできません。例えば、瓜を植えた後、優れた天候と、瓜を植える様々な技術(深く耕し浅く植え、水・肥料を与え、除草し、土かけをするなどの条件)が合わされば、種・瓜の苗から開花の結果、収穫が望めます。これらは全て各種条件要素に自己の努力が必要で、最後に良い結果が得られるのです。

人生の過程も瓜を植えるのと同様です。私達は自分の運命を握ることは非常に難しいので、人は世間で「尽其在我(その我にあるを尽くす)」が必要です。「耕耘だけを問い、収穫を問わず」の信念に基づき、絶えず前に向かって努力、再度努力します。努力の段階は、自分を成長させることで、自分を成長させると同時に、常に他人に利益を与えることを考慮しなければなりません。自分が良い結果が得られなかったら、他人が得ます。私達は、相手に対して、自分自身が受けたのと同様に、嬉しさ・喜び・慶祝を感じます。これはもう一つの喜びではありませんか?ですから、「因果」の過程には必ず「因縁」の繋がりがあるのです。

 

三、獲得及び奉献

現在、多くの民意の代表者が選挙において、何度も「人民のための奉献を!」と叫び、このスローガンによって選挙の票を得るのですが、内心は「奉献」を唱え、権勢・名誉・地位の獲得を目標としています。社会には本当に理想・抱負を持ち、全民への福祉と奉献の為に取り組む大政治家は確かに多くありません。しかしこのスローガンが言える人は、まだ良いほうです。少なくとも「奉献」という言葉が言えて、選挙に当選したら、政治の場でこの約束を実現しなければなりません。しかし、選挙に落選したら、とても辛いことです。

以前、台北市が選出した国民大会代表が、法鼓山の禅修キャンプに参加し、私にこう言いました。「世界はどうこんなに美しくなったのでしょう!禅修キャンプに参加できたのも自然なことで、また自由自在です。しかし禅修キャンプの生活は辛いですね。」私は聞きました。「国民大会代表の選挙に立ったときの感想は?」彼はこう答えました。「とても忙しく、疲れました。」私は聞きました。「散々な目に遭いませんでしたか?」彼は答えました。「まあ悪くないですね。私はまだ健在ですからね。」これは、彼が如何に緊張し、忙しくした結果勝ち取った仕事で、努力を払う代価も非常に大きいことを示します。私はまた彼に聞きました。「当選後、どう思いましたか?」彼は答えました。「更に忙しく、更に自分の責任は大きいと思いました。」このような観念を持ち、彼は本当に素晴らしい国民大会代表だと思います。

勝ち取るためだけに行動を起こすなら、ややもすれば「奉献」とデマを飛ばし、他人を騙すだけでなく自分を騙すことになります。これに反して、奉献を出発点にすることができるなら、奉献自身が目標となり、見返りが得られるかということは考えません。この観点は、私がさきほど言った、瓜を植え瓜を得るとは限らない道理と同様です。

奉献は自分に利益があるかまた話しますか?一見、貢献とは自分がとても損をしたように見えます。自分の持つものを大衆に奉献し、大衆は一体何を返ししてくれるのでしょうか?自分が差し出す物はこんなに多く、無駄ではありませんか?何も受け取るものがありません。もしも、このよう感じたら、逆の方向から考えてみてください。「人は元々奉献すべきで、奉献こそ私がこの世に来た目的なのです。私の生活の目標は、奉献することで、私は何も欲しくないのです。そのため、他人に奉献できれば、自分はとても楽しくとても満足に感じます。奉献した後、相手から見返りが得られなくても、私は悲しいとか相手が悪いと責めたりする必要はないのです。なぜなら、私は自分がすべきことをしただけだからです。私は奉献中に自ら成長するだけでなく、成長中にも絶えず奉献しています。私は奉献できるというのは、私がすでに持っているという意味です。だからこそ私の体力・心力・智慧力・財力が奉献できるのです。」奉献ができ、また奉献を目的にし、常に生活中に喜びが満ち溢れています。実は、奉献自身が一種の見返りなのです。

また、私達は「名は実に伴う」の意味を理解すべきです。例えば、私は最近いくつかの栄誉の賞を受けています。これは全て国家・社会がくれたもので、これが私へのお返しなのじゃないでしょうか?そうだと言ってもいいし、そうじゃないと言ってもいいです。なぜなら私はずっと賞をもらいたいと思ったこともなく、「受賞」は自然の結果だったからです。私にとって、私がすべきことをしただけです。今までしてきたことをずっと心に掛け、常に受賞を心配したり期待したり、受賞しては有頂天になり、受賞できなかった時は落ち込み、これ以降は何もしたくなくなってしまいませんか?事実、この考えはすべて間違っています。私は、これらの賞を受けて嬉しくてほっとする必要はありませんが、社会に喜びを与えるために取り組んでいます。受賞とは私個人のことではなく、全体の社会環境と気風が私達にこのような一つの機会を与え、私達に奉献をさせ、それで受賞したのです。受賞ができたのは、私一人の力ではなく、私の理念に同意いただける方が皆で力をあわせて、社会の為に支払ったものです。私はこれらの人たちの代表として賞を受けただけであり、因縁促成とも言えます。ですから、私はこう言います。「奉献は目的が必要とは限りません。見返りは必ずあります。」一般人は受賞を努力の出発点にしています。賢者と智者は、「奉献自我」を努力の原動力としています。このように、私の人生は、「万事思い通り」です。

 

四、利他の考えで、自利の目的を達成

利他の考えを持つことで、自利の目的を達成します。これは前に言及した「奉献」であり、同工異曲(やり方は異なっても効果は同じ)です。人々は、自分の成就と成長、大事業・富・名望・地位を求めます。これらの期待は確かに正常です。人間はゆっくりと成長し、成長後は社会の為に「奉献」します。そこで、一般人も自利で他人を助け、社会に参与します。例えば、会社は売り上げを伸ばすため、「大衆へのサービスと会社奉献のために、成果は社会の大衆と分かち合う」の理念を発表します。このような説明をする理由は何でしょうか?それは、会社の利潤のためではないということです。自他を利することを出発点にすれば、会社の成長は更に速まります。例え因縁が成熟せず、思い通りに満足のいく成長ができなくても、力を無駄に使うとも限りません。なぜなら、目的は利他のためだからです。

現在の社会には多くの問題があります。かつて企業界の社長が私に聞きました。「現在の社会は全て利益を念頭に置き、弊社は研究発展に従事し、それによって新しい製品と技術を発表します。残念ながら弊社が育成する人材は、研究の仕事が完成する前に、他の高給の会社に取られてしまいます。それは水面下で行われ、非常にがっかりさせられ、次にどう研究人材を育成するかわからなくなってしまいます。法師の意見を聞きたいです。」私は答えました。「これはとても良いことではありませんか?御社は社会・国家の為にあるのでしょう?御社が苦労して育てた人材は、他の会社で運用でき、これでも一様に社会・国家のために力を奉献してくれるのです。」彼はまた聞きました。「そうですね。しかし、こうなると、この種の投資に価値があるのか考えてしまいます。」私は答えました。「価値がありますよ!しかし、いかに人を引き止め、人材流出させないかを、社員間で共同努力する必要があり、御社の理念・制度から、再び強化しても構いません。そうすれば、人材を流出させずにすむかもしれません。」

私達が利他を目的とするなら、例えある人が離れるとか、自分の思うようにならない時でも、沈み込んだり、落ち込んだり、これが失敗だと思いません。実は失敗は成功の母、失敗も一種の過程であり、失敗そのものは一種の成長です。いわゆる「経験なくして、知識は磨けない。」です。世界上に失敗のないことはありません。つまずいて転ぶことは、失敗ではなく、経験なのです。私はいつも弟子たちに、「起き上がりこぼし」のように、倒れても起きあがることを学ぶように教えています。倒れた後、すぐさま立ち上がる。ここで立てないなら、一歩下がって立ってもいいですし、一回りしてから立ってもいいです。いわゆる「山曲がらず道曲がる」で、山は動かず、人が動くべきなのです。このように、私達の運命は自然に変化するのです。

 

五、全体の情勢に着眼し、個人の成長に着手

仏教ではよくこう言います。無限・無量・無数或いは恒河沙、地蔵菩薩の願心は、「地獄不空、誓不成仏、衆生渡尽、我願無窮(地獄で責め苦に遭う者を悉く済度させねば、成仏せぬことを誓い、またこの世の衆生が悉く済度されねば、我無窮を願う)」地蔵菩薩の救世心願は、尽きる事がなく、彼は永恒無尽の無量の衆生に目をむけます。時間の上から言えば永久不変であり、空間の上から植え場無限です。もしも全てを他人の為に考えられるなら、自己の内心の煩悩は必然的に少なくなり、他人の尊崇が得られるようになります。もしかすると、貴方は団体の中で決して際立って優れていないかもしれませんが、他人のために考えることができますし、例え、リーダーになることができなくても、この人は団体の中で必ず全ての人に尊敬されるでしょう。

ある学校の用務員は、数十年来学校を家とみなし、学校の学生達に対応し、全ての子供達を自分の子供のように可愛がっています。彼はまだ結婚していませんが、彼の子供は誰よりも多いのです。学校の卒業生達も彼を自分の親のように敬愛しています。

あるハンセン病の女性は、 20 代に施設に入り、今は 50 歳を超えています。彼女は結婚をしていませんが、ある日突然孫を連れて農禅寺までやって来ました。私はびっくりして聞きました。「いつの間にこのような可愛らしいお孫さんが?」彼女は答えました。「もう長いですよ。」私は聞きました。「え!誰が生んだのですか?」彼女は答えました。「もちろん私の息子が生んだのです。」私は疑って聞きました。「貴方は結婚していませんよね?」彼女は答えました。「はい!」私は更に聞きました。「未婚なのにどうして息子と孫が?」彼女はこう言いました。「話はちょっと長くなりますが、彼の父親は子供の頃から孤児で、私が彼を大きくなるまで育てたんです。彼は、私をお母さんと呼び、彼が生んだ子供は私をおばあさんと呼ぶんですよ。」この一人の未婚のハンセン病患者は、数名の孫がいます。彼女は以前は息子に、今は孫に手を差し伸べています。毎月の僅かな収入で息子に衣服を作り、自分の事も考えず、常に他人を思いやっています。私は彼女に聞きました。「将来はどうするのですか?」彼女は答えました。「将来を考えたくないと言ったらどうでしょう?今さえ楽しければそれでいいです。」私は一歩進んで聞きました。「しかし、万一将来子供が貴方の面倒を見てくれなかったら・・・」彼女は楽観的に答えました。「私はこの事は考えたことはありません。私はいかに彼らの面倒をみられるか、これだけを考えればいいのです。どのみち死んだ後、誰かが死後の処理をしてくれるでしょう。」このような観念に感動させられました。

ここからわかるのは、私達は社会や団体の中において、名前があがらないとか取りに足りない人間だとしても、全体の為に、他人の為に考えることはできます。自分のことをあまり考えずにでき、生活はきっととても充実し楽しくなるでしょう。それに一生とても安全と感じられます。自分が安全でないと感じる人もいますが、どうして安全じゃないのでしょう?お金や背景や能力が無いとか・・・。そのため、苦心惨憺(無い知恵をしぼる)し、「勝ち取り」、勝ち取ってから終わるまで、結局は両手は空っぽです。どうして「いかに全体の為に奉献する」と考えないのでしょう。こう考えることが安全への道のりです。今日の台湾では、餓死した人や死後に埋葬されなかった人の話を聞きません。だからある人はこう聞きます。「法師、貴方は死んだらどうしますか?」私は答えます。「きっとある人が私の死体を引き取ってくれるでしょう。」また聞きます。「万一誰もいなかったらどうしますか?」私は言います。「いなくても大丈夫です。蟻や他の虫たちが私を運び、私を食べてくれます。これはとても良いことではないですか?」こう言う人もいるかもしれません。「こんな結末はすごく悲惨だ!」実は何も悲惨なことなどないのです。死は死です。根本的に何もありません。

 

六、慈悲で人を包容し、智慧で事を処す

私達人間は、必ず慈悲心で配慮し、思いやり、助けるべきです。世界上には悪い事はありますが、悪い人はいません。悪い事をする人は、悪人という意味ではありません。一般人の観念はいつも強盗、誘拐、暴力、放火する人は全て悪人だと決め付けますが、「大悪人」は一度だけ悪いことをし、その後は悪いことをする機会がありません。悪い事をする前は、良い人で、一度大きな悪事を働いたら、検挙され、捕らえられ、刑罰を下され、牢屋に入れられ、最後には死刑にされる可能性があります。多くの悪人が銃殺刑になる前にこう言うのを見ます。「皆さん、私の真似をしないで下さい。社会、両親、子供達、ごめんなさい。私の次世代の人達は私の真似をしないで下さい。」人が死ぬ前、この言葉はいいです。どうして良心からこのような話が続けていえないのでしょう?実は彼らは決して悪くないのです。一時だけ愚かに悪いことをしただけです。だから、私達は慈悲心を持って全ての人を包容しなければなりません。夫婦、同僚との間、社会の色々な人達もお互いに包容し合い、お互いに思いやるべきです。

もちろん、私達も人を包容するために、お人好しや偽善者や原則の無い人になってはいけません。全ての事に対して二つ返事すれば、全てがうまくいきます。物事は智慧でもって処理すべきです。

かつてある人が私に聞きました。「殺人犯が脱獄し、結果銃で撃たれて農禅寺に逃げ込んだら、師父はどう対処しますか?」私は答えます。「私は、彼が殺人犯だとか脱獄者とかは考えず、まずは病院に送ります。もしも彼が病院に行きたがらなければ、お医者さんに往診してもらいます。まずは命が一番重要です。彼が一体どんな悪いことをしたかは、その時は考えません。万一警察に、寺院の中に誰かいるかと聞かれたら、私は必ずいると答えます。どうしてでしょう?このような人がいるのは事実ですので、いないとは答えられません。彼が銃殺刑に遭うかの問題も考えません。もちろん、もしも彼が過ちを悔い改め生まれ変わる機会があれば、それで良いのです。法律上で人の危急を見て救わないのは、慈悲がないということです。」ですから、私達は智慧で物事を処理するべきです。いわゆる智慧とは、人情の常と社会通念も含まれます。人情の常、社会通念は、同じく人情の常、社会通念によって行うのです。

(《禅門》より抜粋)

 

【付録】

心の環境保護法、語精選

内心の安定を得るために、「心の環境保護」の角度から出発すべきです。一方は私達の心を環境汚染から守り、環境に対する「免疫力」を増強します。一方は、環境が更に酷くならないよう、内心に嫉妬・怒り・恨み・利己的等の悪い心を持ってはいけません。常に自分の起心動念を観察する練習をし、自分の「需要(必要)」をはっきりと知り、個人欲望の「想要(欲しい)」を解消します。

――《仏鼓山の方向》

 

心の環境保護は必ず以下の二つを同時進行させなければなりません。 1. 人心浄化、欲を少なく足るを知る  2. 社会浄化、他人に配慮。欲を少なく足るを知るは、天然資源を節約し、贅沢をしない習慣を身につけます。これは環境保護の推進と等しいです。他人への配慮とは、自分の利益の為に全体環境の破壊を起こさせないことです。

――《聖厳法師の心の環境保護》

 

私達は常に心の落ち着きに気が払えるなら、何かがうまくいかなくても、心を改める事ができます。他人の立場に立って考え、他人の間違いは道理的かもしれないと考えます。これは道理がないとしても、一つの道理です。

いかに問題を解決し、双方の間の更に多くの問題、更に多くの悩みを増やさないこと、これが心の環境保護です。

――《仏鼓山の方向》

 

心の環境保護の原則として、全ての人は、三つの修養を持つべきです。それは、身体・真理・精神のバランスを保つこと、いわゆる身体・心・精神の健康です。しかし、一般人は自分の身体の健康だけを考え、心の健康を見落とし、特に平常心の精神修養の維持を見落としています。そこで、順境中に思うままに振る舞い、克服できないような難題や逆境にぶつかると、ため息をつき、どのように振る舞ったらよいかわからなくなります。必ず「心の環境保護」の修為を浸透させることで、「平常心」が持てるようになり、これで順境と逆境に対応します。

――《人間世》

 

心の環境保護を実践する三つの方法:

一、仏教の禅修と念仏は、人の心を自然に安定させます。

二、常に慚愧心をもち、反省と過ちの悔い改め、儒家のいう「吾日三省吾身(吾日に三たび吾が身を省みる)」を実行します。実は、一日に三回反省するのでもまだ足りません。常に自分の心が何をしているか知るべきです。

三、常に感恩心で、生活環境中の全ての人と全ての出来事に向き合い、全心で奉献します。目的は報恩のためです。

この三種の方法を用いて心の環境保護を実行すれば、随時随所に自分の心身が安定でき、自己の人格を成長させ、同じく社会大衆のために安定の力量をもたらします。

――《平安な世の中》

 

実は心の環境保護はとても簡単で、心理の衛生と心理の健康で、いかに私達自身を落ち着かせ、安定させ、他人の生活を楽しくさせる手助けをすることが、心の環境保護の目的です。

――《仏鼓山の方向》

 

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