| 四衆佛子共勉語 |
この 20 文の共勉語は、決まった前後関係や順番はありませんが、最初の「心仏学法敬僧、三宝萬世明灯(仏を信じ、法を学び、僧を敬す、三宝は萬世で民衆を正しい方向に導く者)」と最後の「処処観音菩薩、声声阿弥陀仏(至る所に観音菩薩、常に阿弥陀仏と唱える)」が最も重要です。 この 20 文を熟読・暗唱し、内容を理解し、自分と他人を励まします。全ての信衆がこれらの理念を理解し、広く伝えられるなら、それは自他を利する菩薩の行いです。 以下、文毎の解釈を紹介します。
信仏学法敬僧(仏を信じ、法を学び、僧を敬す) 「仏」とは悟りであり、大徹大悟・自覚覚他・円満徹底覚悟の聖者を指し、「仏宝」と尊称されます。 私達のこの世界で、成仏できたのは釈迦牟尼仏一人だけです。迦世世尊は仏教の教主で、二千六百年前に、現在のインドとネパールの境界にあった毘羅衛国に誕生しました。王位を継承する皇太子として、彼は世界の全人類が、生・老・病・死の様々な苦痛と弱肉強食の様々な現象を見、衆生の愚鈍さと人類の苦悩を体得したため、王宮の贅沢な生活をやめて出家修行し、世の中の苦難を救い出す道理と方法を求めました。 6 年の修行後、ついに摩竭陀国の菩提伽耶の卒鉢羅樹(菩提樹)の下で悟りを開きました。釈迦成道を記念すべく、後世の人達はこの木を菩提樹と呼ぶようになりました。「菩提」とは悟りの意味です。 釈迦牟尼仏は、悟道の後にこう言いました。全ての衆生が仏の修行方法と道理の通りに修行を行うなら、皆が成仏する可能性があります。また、この世界以外の場所・世界にも多くの仏(薬師仏、阿弥陀仏などの十方三世の一切の諸仏)がいます。将来、多くの衆生が成仏するかもしれません。全ての衆生は成仏する可能性があります。離苦得楽(苦を離れて真実の楽を得る)や自覚覚他(自らの覚りを実現するとともに他を覚りの世界に導く)のために、私達は仏を信じ仏を学ぶべきなのです。 「法」とは、仏が悟った人生宇宙の道理と、仏が経験した離苦の方法です。これらの道理と方法は、私達にどのように修行するか伝えているのでしょうか?どうして修行するのでしょうか?どうすれば離苦得楽の目的に達することができるのでしょうか?ですから、「法宝」と尊称されるのです。仏が世の中に現れたこと、これは世の中を応化することで、世の中のために持ってきた法宝なのです。法宝で私達の離苦得楽を助け、私達に修行の方法を与え修行の道理を習得させ、生・老・病・死などの様々な苦難と苦悩の中から解脱をさせます。仏教の教義は皆に学法を教えることで、僧から学ぶのです。 「僧」とは、釈迦世尊が世の中にいた時代に済度した比丘僧・比丘尼僧を指します。彼らは自分で仏法を修行し、同時に他人にも仏法の修持を教えました。これは仏教を住持する僧団で、「僧宝」と称されます。出家した僧徒が仏法を住持した中心で、仏教の離欲精神及び解脱精神を代表します。衆生の苦悩は様々な貪欲が手放せないとか離れられないことから発生します。出家の形象と生活は、一種の離欲と解脱の象徴です。出家僧の生活様式と生活形態は、仏の心に最も近く、そのため仏教は出家僧によって仏教住持の中心とされています。 仏を学ぶことは、仏法を修学する生活方式と僧徒実践の生活理念で、私達は仏法を聞き、修学します。正常な状況において、僧宝に頼り伝授を受ける必要があるので、僧を敬うことが必要です。
三宝萬世明灯(三宝は萬世で民衆を正しい方向に導く者) 「三宝」とは、仏、法、僧を指します。三宝はこの世に存在するだけで、人類に光明を持たせ、人類は救済が得られ、未来の希望が持てるため、三宝とは萬世で民衆を正しい方向に導く者を指します。 正信の仏教は、必ず三宝を備える必要があり、一つでも欠けてはいけません。仏を信じるだけで、法も僧も信じなければ、神と天に拝むことと等しく、仏の加持・保護・我々に与える幸福を求めるだけで、修行の方法と道理を知らず、盲従の迷信と見なします。 法だけを信じ、仏も僧も信じなければ、一種の学問知識の研究と等しく、決して仏教徒とは言えません。図書館の中で、本を次々と読み、本の知識は持っていても、行為の基準としないのと等しいです。また、料理を注文してもお腹が一杯にならないのと同様で、彼の財物は富んでいません。 僧の一人を信じるだけで、仏も法も信じないなら、英雄を崇拝し、義理の父母や兄を認めることと同様です。仏教では、ある一人の師父を崇拝し信じるだけで自分は仏教徒と言いますが、正信ではありません。正信の仏教徒は、僧に従い仏を信じ法を学ぶのです。 仏法修行の目的は、智慧を増長し自他を利することで、仏教徒は三宝を備える重要性があります。まさに、鼎(古代の銅器の一種で、 3 本脚の丸くて深い器)には三本足があり、一つも欠けてはいけないのと同様です。
提昇人的品質(人の品質を高める) 人の品質とは、人の品格・人徳・気質を表します。気質は変えられます。例えば、ある人は子供の頃は田舎くさく、間が抜けで物事をわきまえていなかったのに、年を取るにつれて、教育を受け社会の経験を経て、気質は良くなります。人の気質を改善することこそが、人の品質を高めることです。 仏を学んだ後と前を比較して、気質が改善されず、立ち振る舞いを慎まず、思想観念が高まらなければ、無駄に仏を学んだということです。仏を学んだ後、仏法の威儀・儀礼・行儀で、自他を利すべきで、自他を傷つけ害す行為はすべきではありません。身体と口の動作はこうで、心念もこうすべきです。 仏教徒として、自分の家庭・社会・国家・すべての人類に対して、責任を負わなければなりません。私達は世の中に存在する権利があり、更に世間を助け改善する義務と責任があります。 仏教徒になった後、ある人が貴方を見てこう言ったとします。「何年か会っていなかったけど、性格と気質が変わりましたね。これにはきっと道理があると思うのですが、どうしてですか?」 この時、貴方は相手にこう伝えるべきです。「阿弥陀仏!他の原因はありません。私が三宝を信じて、身を処して先頭に立ち、自他を利するからです。」 いわゆる自他を利するとは、例えば人の品質を高めるために、まず自分から開始すべきで、一歩進んで他人を助け他人の品質を高めること、自分と他人に利益を与えることです。 また、人と付き合う時、自分に利益が欲しいなら、まず相手に利益を与えること。この関係はお互いに関連があります。自分の家族の態度が改善されたなら、家族も貴方の影響を受けて改善されたといえます。自分はにこやかに、至るところで礼儀正しく対応し、常に他人を思いやり、他人の行いを助け、自分の心を助け物事を処理することで、周囲の人も影響を受けます。私達は仏法の慈悲を学び、内心の智慧を開発し、自分を健全にし、他人に協力し、全体のために心を配り、品行を良くし、努力勉強し、自分に奉献し、力の及ぶ限り努力して、温厚で謙虚で礼儀正しくすべきです。 しかし、仏教徒となることは、私達に偽善者や馬鹿になれということではありません。仏法の目的は、衆生に利益を与える時、本当に相手に利益を与えること、頑固な者に自分の過ちを知らせ、臆病な人には怖がらないように言い、恩人に感謝し、敵を許します。賢人を学び、苦境にいる人を救済します。狂人を調伏し、悪人を感化します。怠慢な人には勤勉に働くよう戒め導き、凶悪で残忍な人には慈悲を持つ人になるよう導きます。様々な最良の方法で他人を助け、私達の環境で共同生活している皆が、利益を得ることができます。これが、真実の自他を利する人で、正に品質が高尚な人と言えます。
建設人間浄土(この世の浄土を建設する) 私達の世界を浄土にするためには、皆さんの努力に頼らなければなりません。外の環境の如何に関係なく、最も重要なことは、まず個人から始めるということです。まず、自分が他人を損なわないことで、人々も自他を損なわないようになります。一人が 10 人を影響し、 10 人が百人・千人を影響し、これで環境の全ての人が慈悲と智慧を運ぶ菩薩となります。たとえ三宝の弟子にならなくても、彼らが三世因果の道理を信じればいいのです。因果が殺人・放火・悪事・社会に不安を与えないと信じます。因果の観念が、人に心から敬服して過ちを改めるなら、心が穏やかに今を受け入れ、さらに努力を重ねて明日を創始します。因果を信じる人は増え、私達の社会は更に光明し、更に安定し、更に調和が取れ、世の中の浄土が実現を開始します。 ある警官の話なのですが、彼が勤務中に、数十人の悪人達が木棒を持って彼を殴ろうとしたそうです。そこで、高い声で、「阿弥陀仏、阿弥陀仏!」と念仏を唱え始めました。悪者が念仏の声を聞くと、皆固まり、それによって安全に苦境から逃れることができたそうです。彼は、「阿弥陀仏は本当に役に立ちます!私の命を救ってくれました。」と言っていました。またある時、彼が北投大度路にて青少年の暴走族の取締りをしていた時、野次馬の群れが彼の道を遮り、パトカーまでひっくり返そうとしており、その時も彼は仏典を取り出して大声で念仏を唱えました。「阿弥陀仏!道を譲りなさい。阿弥陀仏!譲りなさい!」その結果、もともと彼を遮り、攻撃的だった人達が自然に道をあけました。 私達が何かをする時は、まず阿弥陀仏を念じることを忘れないでください。これで全てがうまくいくでしょう。実は、あれは正に我々自身に忠告しているのであり、仏が苦難から救ってくれるのです。念仏を唱える人は、心に慈悲を持ち、他人を助け、他人を許し、他人を尊重すべきです。くれぐれもただ自分の意見を通そうとはしないでください。 それ以外に、「倒れようとする塀はみんなに押し倒される(弱り目にたたり目)」の心理は持ってはいけません。彼はすでに倒れたか、もしくはもうすぐ倒れるところ。彼に生きる一本の道を残すべきで、それを押してどうするつもりですか?この社会は、富貴に媚びる人は多いのに、貧苦を哀れむ人は少ないです。また、不幸の底の人を救う人は少ないのに、人の危急につけこんで打撃を加える人が多いです。ですから、ここは浄土ではなく、濁世か塵世といえます。私達は更に他人の困窮を救うべきで、しかもむしろ縁の下の力持ちとなり、表面で偉い顔をしたりしません。一般の人達は、ただ相手を非難したり相手に要求したりして、自分を検討したり、自分を差し出すことをしたがりませんし、多くの人は人前で他人に賞賛されるのを好み、賢者や善人を賞賛することを好みません。このようでは、浄土は容易に現れません。私達は他人に前に進めるように立ってもらい、人徳のある賢者となり、善人や慶事を賞賛します。多くの人がこうできるなら、私達のこの世界に徐々に浄土が訪れるでしょう。 世の中の浄土を建設するのは、一人一人が自分から作り上げるべきで、平凡と失敗において、力の限りを尽くし、一方で自分を形成し、同時に自分の家族に配慮し、家族に影響させます。一歩進んで自分の仕事環境、また知人や知人でない人に普及させ、仏法の良さと仏法の世の中における限りない用途について体得してもらい、仏教を認め、仏法を修学し、「善有善報(善をなせば必ずよい報いがある)、悪有悪報(悪事をなせば必ず悪い報いがある)」の因果観念を受け入れてもらい、世の中の浄土を広め、世の中の浄土の建設をする最良の方法です。
知恩報恩為先(恩を知り恩に報いるが重要) 凡夫は、多かれ少なかれ恩を仇で返し、恩を忘れます。他の人は私達に恩があり、私達は彼を敵と見たり、相手が私達を手伝わないのはまだ良い方で、助けたら返ってひどくなることがあります(助けが足りないとか、しっかり助けていないと思う)。 ある人は私にこう言いました。「師父!私達は他の人を助けたのに、恩を仇で返されました。自ら災いを招いてしまったのですが、どうしましょう?」私はこう答えました。「これはとても普通なことで、私達自身もこうしたことがあるかもしれません。自分で意識して反省していないだけです。相手が恩返しをするかしないか、それは考える必要はありません。人助けをする人は人助けをします。条件はなく、それに尽くせばいいのです。他人に恩を仇で返されたなら、前世に彼に借りありそれが因果応報だと考えればいいのです。人に恩恵を施す時、目的はすでに達成されたのです。恩を仇で返されたと考えないようにすれば、福が訪れ心が安らかになります。」 しかし、自分が他人の恩を受けたのであれば、必ず恩を知り、恩返しをします。恩はどこから来ているのでしょう?四方八方から来ています。子供から大人になるまで、死ぬまで、私達は色々な人達の助けを受けています。父母・教師・友達・親戚・同僚、また全ての直接的・間接的な人、私達と関係のある人全てが、私達の恩人です。 かつてある一人の若者が私にこう言いました。「師父!誰でも両親の恩に報いることができますが、私は報いられる恩がありません。なぜなら、私は子供の頃に、他の親に養子として出されたからです。私は両親にどうやって恩を返せばいいのでしょう?」 私は彼に答えました。「生みの親は貴方を育てていませんが、それでも恩があります。母親は貴方を 10 ヶ月身篭りました。貴方と父親の関係も過去の計り知れない縁で結ばれています。ですから、過去世から見ると、生みの親も貴方に恩があります。私達は今の幸福の根源を忘れてはいけません。貴方のこの身体はご両親からもらったもので、その親こそ両親なのです。恩を知り恩に報いなければなりません。」それ以外に、ある人が私達に一杯のご飯、一杯の水、一枚の乗車券、更には一つの動作、一文の話を与えてくれるだけで、私達の問題を解決してくれます。このお布施に感謝しなければなりません。 恩返しの仕方は下の二種類があります。 ( 1 )直接の報恩:誰かが貴方に恩があり、恩を施す人に報いる。父母に出来るだけ孝養し、目上の人を出来るだけ敬い、国家に対して出来るだけ忠誠心を持ち、社会に対して責任を尽くし、家族に対して義務を尽くし、友に対して道義を尽くし、衆生に対して出来るだけ心を配り・・・これらは全て直接の報恩です。 ( 2 )間接的な報恩:他人が貴方を育て、貴方を保護し、貴方を助けること、全てが貴方を成就させ、社会に利益を与え、衆生に利益を与えるのを望むためです。貴方も同様の方法で人を育て、人を守り、人を助け、お返しを求めず、恩人に報いることは、間接的な報恩です。例えば、出家者は施主の恩に報うべきで、これはよく修行して衆生を助け、一切の功徳を一切の衆生に返すことが、施主の恩に報いるのです。施主は僧尼に布施し、僧尼がこの金銭を施主に返すというのは、報恩ではありません。仏教徒の報恩観念とは、恩を得たら、まず私達の恩人に報恩し、彼を忘れず、彼を心にかけて思うことです。適当な時に、彼を褒め、賛嘆すべきで、これが念恩(恩を心にかける)です。恩を心にかけた後、一生懸命修行して衆生を助け、人々に利益を与える必要があります。誰かが私を助け、私もこのように人を助け、更に手を差し伸べ、更に多く他人を助け、社会にお返しし、世間の人に影響し、これこそが報恩です。
利人便是利己(人を利する事は己を利する事) 仏を学ぶ人が、常に自己の利益ばかりを考えているなら、悩みが絶えないはずです。全ての事が自分の利益を考えて行われるなら、悩みがとても多く、とても利己的です。非常に利己的な人から、悩みをなくそうとするのはとても難しいことです。 私達は心を広く持つべきです。個人は極めて小さいです。私達が生存する環境と私達の関係が密接なため、時間から見ると、長い歴史と全ての世界に関係があります。更には限りない宇宙、一切の人間、一切の衆生と互いに密接な関係にあります。例えば、中東で戦争が勃発し、イラクがクウェートに侵入、占領しました。一つの小さい場所で戦争が起こったかのようでしたが、全世界が影響を受けました。 そのため、宇宙から個人を見るとするなら、自ら偉そうにはできませんし、個人から宇宙を見るなら、責任を負わないことはできません。ある人がこう言っていました。「私はこんなに小さな一個人で、天から私を見ればゴマほど小さく、いい事をしても悪いことをしても、大したことじゃない。」このような考えは、持ってはいけません。 仏経の中には一つの故事が載っています。ある一つの山林で火事が起こり、火が蔓延して全体の山に広がりました。この時、一羽の鳥が、とても慈しみ哀れんでこう思いました。「この大きな山火事のせいで、山の全ての動物と衆生は焼け死んでしまう。本当にかわいそうだ!」そこで、鳥は山火事を消そうと、海に行って体の羽毛を濡らし、山林まで戻り、その水で鎮火しようとしました。羽毛を水で濡らして山林の大火事を救うのは、「焼け石に水」以下で更に役に立ちません。しかし、鳥は不可能を可能にしました。何度も飛んで、終に帝釋天を感動させました。 天神はこう言いました。「この鳥は本当に偉大だ!こんなに大きな慈悲心がある!これらの衆生達は元々全て死ぬはずだったが、私達がこの火事を消さなければ、この鳥も最後には息絶えてしまう。この鳥を助けるためにも、山林は鎮火させないといけない。」 その結果、大きな雷が鳴り、黒い雲が広がり、大雨が降り、森林の大火事はすぐに鎮火されました。天神は、この鳥を救い、この鳥は全体の山林を救いました。この鳥は、釈迦牟尼が過去世において菩薩道を行う際の一段階であり、釈迦牟尼の実際の故事です。彼はとても慈悲心があり、一心で衆生を助けたので、最後には大悟徹底して仏となりました。 私達、仏を学ぶ人はこの自信を持つべきで、可能を尽くして、利他的なことを行い、少しでも良いことに取り組み、力が大きければ多く、力が小さければ少なく行い、地位が低い者の言は軽いと思わず、少しだけなら、何もしない方が良いという考えは持たないでください。良いことは良いことで、大小の差をつけてはいけません。少しずつ取り組めば、大きな事ができます。それに、一人の人が良いことをすれば、他人を影響して良いことをさせることができ、現在できなくても、将来はきっとできます。 お金と力がある人は天神のように、次回の大雨で山火事を救い、お金がない人もあの鳥を学んで山を助けることができます。山の衆生が成仏する前に、あの鳥が先に成仏します。釈迦牟尼は、自分の問題を考えず、いかに衆生を助けるかを考えていますか?いかに衆生は苦境を抜け出すのでしょう?そこで、釈迦牟尼が成仏したのです。それで、利他的は利己的といえます。他人に利益を図ってこそ真に頼れる利己、二者は密接な関係があります。 貴方が家族の面倒を見て、落ち着いてから、毎回帰宅する時、家族の誰かが貴方と喧嘩しようとしますか?家庭と全てがうまくいき、自分も幸福が得られ、これは利己的といえますか?もしも貴方が自分勝手で、娘のお小遣いで酒を買ったり、奥さんの食費で賭け事をしたりすれば、家族は貴方にどんな態度を取りますか?そこで、真の利己的になりたいなら、まず最初に相手の利益を図らなければなりません。利他的になることで、必ず利己的になれます。これは正しくて、永久に論破されない道理です。
尽心尽力第一(心を尽くし力を尽くす事が重要) 人の身体は、背が高かったり低かったり、力は大きかったり小さかったり、智慧は深かったり浅かったり、才能があったりなかったり、動作は速かったり遅かったりします。これらの異なる人たちが同じ事を行い、同様の成績を修める事ができなくても、一生懸命取り組むだけで、同様の功徳を成就することができます。私は常にこう言います。「聡明な人や健康な人は、頭が悪い人や身体が悪い人達を使おうとしますが、そうではなく、少なくとも彼らのために何かを差し伸べるべきです。有能な人ほど多く働き、仁者ほど忙しく、この世界の一部の人が、専門的に人々の世話をします。また更に多くの人が貴方に助けや世話を勧めます。」普通の人は、他人に面倒を見られたり、他人の面倒を見、私達は、自分の気力、体力、知力と財力を尽くして、私達の助けを必要とする人達を助ける方法を考えるべきです。 釈迦牟尼の時代に、ある一人の富可敵国(国と同等の財産を持つ)の大富豪、須達がいました。彼は、太子から、金の煉瓦が敷き詰められた庭園を購入し、仏と仏の弟子達に布施として法を修行する道場を与え、この功徳は確かにとても大きいです。他にある一人の乞食の女性が仏に供えたいと発願しましたが、彼女は供養の意味がわかりませんでした。そこで、ある人が、彼女に食物の施しを求める割れたお椀で灯油を求めるように言いました。夜、仏陀の説法の時、彼女の油で道場に明かりを灯し、仏陀は彼女の功徳が最大であると褒めました。 ここから、知力の大きい人がわかります。慈善の心が持てれば、三宝護持の願があり、福をこの世に広め、菩薩道を修行する大徳と見なすことができます。ある人達は、力が小さくても、志を持ち、努力を惜しまず善に取り組み、彼らを慈悲心を持つ菩薩と見る事ができるので、身分や能力が低い人、身体障害者もこの世にやってきて人々を助けるよう願をかけます。もちろん、このような人たちにとって、そのような容貌で現れるのは、とても残酷ですが、彼らの偉大さがいっそう現れるのです。どうしてこのような状態でも人助けが必要なのでしょう?彼らにはこのような欠陥があるため、更に多くの同情心と、因果応報の警戒心を生み、人々に過ちを改めさせ、皆を影響し共に善人となり、善事をするよう希望します。そのため、私達がこの世に生き、人々は皆善人となり、善事をすべきで、体力の強弱、心の大小、知力の高低、財力の貧富、権力の有無、地位の高低と関係なく、一生懸命、善を修め福を積むべきなのです。
不争?我多少(些細な事で争わない) 凡夫の習性として、他人と長短を議論したり、多少を争ったりします。実は、仏法の観点から見て、表面の長短・多少は重要ではなく、自分が「一生懸命取り組んだか」が重要です。仏経中にこう記載されています。ある一人の菩薩が一人の衆生を済度するために、天界と地獄にて無量の生死を輪廻し、最後に仏道を成就しました。もう一人の菩薩は、天上天下で無量の衆生を済度し、結果的に仏道を成就しました。数量の多少から言うと、この二名の菩薩は形同天壌(形は同じでも雲泥の差)で、功徳から言うと、相等と言えます。 寄付担当会員が寄付を募る時、一人の護持会員を見つけたのに、他の寄付担当会員に取られてしまったり、苦労して一人の人が仏教を信じるようになったのに、結果、他の道場に連れて行かれてしまったりします。このような状況に出会っても、皆さんは悲しんだりせず、心から喜んでください。同様に皆、三宝を護持しているからです。ただ、一生懸命取り組んでください。お金や人の多少を計算する必要はありませんし、双方で功労を争ったり、土地の奪い合いは止めましょう。皆は、善行をし、功徳を積み、仏法を護持するのであり、もしも多少を論争するのなら、かえって貴方の煩悩を引き起こし、全く馬鹿げています。仏鼓山の内部寄付担当会員もこのようにすべきで、対外や他の団体と協力し合う時も同様で、これは皆が一致で守るべき信念です。 仏教徒として、仏鼓山の寄付担当会員として、ただ一生懸命取り組むのみです。成績がどうだとか考えず、また、他の人にどれだけしたか知ってもらう必要もなく、自分が知ってさえいればいいのです。この帳簿は永遠に貴方の功徳の帳簿上に記述し、誰も拾って持っていったり、消したりすることも出来ません。善業も悪業も、永遠に貴方に従い、そこで、争うことはできず、争う必要もなく、ただ、一生懸命取り組みさえすればいいのです。
慈悲没有敵人(慈悲の心に敵は無し) 人を哀れむ、人を同情する、人を許す、人を愛護する、人に配慮する・・・など、全てが慈悲精神の表現と言ってもいいでしょう。慈悲の主要目的は、心中無敵で、無敵とは心に敵がなく、過去の宿敵がないという意味で、現在仇敵がないということは、更に未来に敵を作りません。ですから、権勢に頼ることでも無敵を語ることでもありません。また、財力に任せたり、更に武力によってすべての人間を打ち負かして無敵と語っているのではなく、慈悲心で配慮し、一切の人を許します。慈悲心が大きくなればなるほど、人を感化することができます。 この世界で、仏陀は例外として、他人に批判されない人はいません。例え罪を犯していなくても、他人に嫌われたり敵対視されることは避けられません。例え貴方が人と争わないとしても、他人が貴方に喧嘩を吹っかけて来たり、競争をしかけてくるかもしれません。しかし、貴方は他人がどうか気にする必要はなく、自分の心には敵を作ってはいけません。 例えば、農禅寺には皆に善人だと賞賛される人がおり、皆が彼を褒め、師父も常に彼を褒め称えています。この時、心の中で、「彼は良い、じゃあ私は悪いのだろうか?師父はいつも彼が良いと言い、どうして師父は私が良いと言わないのだろう?」と心の中で妬む人もいます。このような人は、心に敵ができるのです。敵とは、比較の対象のことです。敵とは敵対で、敵対とは仇とは限りません。例えば、女性が他のきれいな女性を見て嫉妬したりする時、相手に反抗的な態度を取りますか?もし嫉妬でないのなら、それは見賢思斉(賢人を見ると自分も見習って同じように賢明になりたいものだと思う)のことで、すなわち慈悲心です。 どのように慈悲心を用いるのでしょう?常に逆の方向に向かって話し、逆の方向を見て、逆の方向に向かって解釈します。例えば、ある人が何の理由も無く貴方をにらみつけたとします。この時、貴方は逆の方向から解釈をして体得すべきです。「彼は私をにらんでいるけど、私の顔が悪いから、もしくは、今日の私は何かおかしいから。彼が指摘してくれたので、彼に感謝します。」「他人の表情は私の鏡」で、彼が嫌な顔をしていれば、大半の理由は自分の顔も嫌な顔をしています。少なくとも、私の様子が彼を怒らせ、私の気質が彼に嫌な気持ちにさせたため、彼は私をにらんでいるのです。 それ以外にこう考えるべきです。彼は私をにらんでいるけれど、恐らく彼は私に怒っているのではなく、どういった事で気分が晴れないのでしょう?彼はこの時、配慮の気持ちに気付くでしょう。ですから、「睨み返す」ことはしてはいけません。彼から離れ、彼の為に阿弥陀仏と念じ、彼の心が平安になるように願います。これこそ慈悲心です。一旦対立心が起こるなら、貴方は慈悲心から離れます。彼の立場に立って考え、彼を許し、彼を哀れみ、彼に配慮し、こうすることで、敵対心も慈悲心と変わるでしょう。 一人のとても無礼な人が貴方の前に現れたなら、貴方はきっと恐れ、この時こう思うでしょう。「彼はすでに無礼で怒っていますが、私は道理をわきまえ、怒るべきではありません。さもなければ、怒りが怒りを呼び、更に面倒になります。」そこで、時間に関係なく、私達は一種の逆の考えを念頭に置いて、人・事・物の見方を変えればいいのです。これこそ慈悲心です。 しかし、私達がまだ凡夫の段階であるなら、心の中に完全に敵なしというのはとても難しいです。ですから、私達は時々慈悲心を考え、少なくともいつも怒らないように心がけます。
智慧不起煩悩(知恵を用いれば煩悩は生まれない) 開悟を智慧と考えないで下さい。智慧とは頭を冷静にするもので、理智や理性です。人の煩悩は全て情緒と感情から生まれるのであり、特に恋愛の問題は必ず悩みに発展し、理智と理性で処理すれば、煩悩は減少します。 一人の女性が私の所に来て、辛そうに泣きながらこう言いました。彼女は一人の男性と付き合って 7 年経ちますが、一緒にいるとお互いがとても辛く、死んだほうがましだと言います。しかし、別れてもお互いのことを思い、彼女が彼に別れようと言っても、彼が、「お前なしでは生きられない」と脅すのです。しかし彼女は、彼女が本当に彼から離れても、彼は絶対に死んだりしないと思うし、二人がずっと一緒の方が、恐らく二人とも疲れて死んでしまうと言います。私は彼女に理智を持って思考判断すべきだと忠告し、時間が経ったら彼女は納得して、泣くのを止めて笑いました。 多くの問題は、客観的な理性をもって処理をすべきで、比較判断の度合いの智慧で分析しなければなりません。ある人は、困難に遭うと神の前で占い用の一対の赤い木片を投げます。これは結果の方法ではなく、智慧と理智を用いて処理すれば、問題は全く存在しないのです。法を犯して投獄され、弁護士になんとかしてもらい罪と刑罰を軽減してもらうことはできますが、投獄されるなら投獄されるべきで、そうすれば悩みは生まれません。病人は病院に行くべきで、阿弥陀仏や観世音菩薩を念じてもいいです。医者に治す手立てがないと宣告された時、阿弥陀仏や観世音菩薩を念じて奇跡的に回復したという例も少なくありません。 仏法の智慧は、無私無我の観察力・選択力・判断力を指し、いかなる状況に出会っても、すべき方法を取り組むだけで、自分の損得を考えて取り組むのではありません。万事が自分の私利を求めないため、自分に煩悩を招くことはありません。 仏法の智慧は、世事無常を洞察することで、全ての物事が永久不変ではないということを知ります。凡夫は世事の無常を理解しないため、一時的な心身の世界で、自分との大小を比較し、人と争い、多少を争い、内外を争い、間違いか間違いでないかを争い、その結果、多くの煩悩を生むことになります。 実は、天下には元々何事もないのに、庸人が空騒ぎをしているのです。庸人とは智慧・理智・理性を持たずに物事を処理する人のことで、仏法を知るなら、状況は改善できるでしょう。仏法は、因果と因縁を講じます。因果を理解すれば、万事不満が無くなり、因縁がわかれば、万事に強要することは無くなるでしょう。だったら何に悩んでいるんですか?
忙人時間最多(忙しい人の時間は最も多い) 今いらっしゃる在家信者の大半が非常に忙しい方々で、忙しい時間を縫って仏法を聴き、座禅を学び、仏を念じ、拝懺し、法鼓山の護法作業に参加し、多忙な人の時間が最も多いとわかります。私は一人の専業主婦を知っていますが、ほとんど共修に来ないので、原因を聞いたところ、彼女は毎日忙しくて大変だと答えました。何がそんなに忙しいのか聞くと、彼女は毎日、ご主人の世話をし、朝食と夕食の準備をし、家事をし、これで忙しくて仕方ないと言います。暇な人の時間が最も短いとわかります。 実は、私達の日常生活に費やす時間は決して多くありません。何かをするにしても時間は節約でき、だらだらと時間を無駄にしてはいけません。ある人は口をすすぐのに一回 20 分を費やし、一日に 5 回口をすすぎ、これだけで 100 分の時間を費やすことになり、とても無駄な方法です。 私には一人の出家した友達がいますが、彼は毎朝頭を洗う際、ふけが無くなるまで丹念に洗い、それだけに毎日 30 分もかけます。 私は彼に聞きました。「こんなに頭を洗う時間があるんですか?」彼は答えました。「いいえ!私は修行中で、心を穏やかにして、頭がきれいになるまで洗い、私の心もきれいさっぱりです。」 私は彼にとても感心しましたが、私は頭を洗うのにそんなに長い時間はなく、毎回 1 〜 2 分で終わります。皆さんは自分の日常生活で、優先順位を学び、時間を節約すれば、多くのことを早急に処理し終わらせることができます。時間が多い人は、いつも知らないうちに時間を節約しているのです。 身分が高い人や、大事業を経営している人達は、毎日多くの事を処理しなければなりませんが、彼らはどのように対処するのでしょうか?私は以前一人の地位が高く声望のある人に聞きました。彼はどうやってそんなに多くの公務に対処しているのですか?彼は答えました。「君逸臣労(君主は楽し臣下は労す)の通り、管理者は忙しくする必要も、筆を執る必要もなく、口を動かしさえすればいい。私の頭は始終冷静を保ち、何かがあれば、部下に処理の原則を教え、私が着手する必要はないのですよ。それに、私は一本の電話でとても多くのことを処理し、多くの問題が解決できるのです。しかし、物事を処理できない人もいます。元々一本の電話で解決できることも、彼だと 20 回も電話し、何度も話しても、物事は解決できるとは限りません。」そこで、彼はこう言います。「私はこの仕事で、する事はとてもたくさんありますが、決して忙しくはないのです。」 私は聞きました。「座禅を組む時間はありますか?」 彼は答えました。「ありますよ!私は毎朝毎晩座禅を組みます。」 知り合いの仕事で非常に忙しい人は、皆座禅を組む時間があります。彼らはこんなに忙しいのに、時間があるんです!特に忙しい人にも絶対に時間があります。忙しくない人には時間がありませんが、なぜでしょう?生命と時間を大切にしているため、時間を有効に使う事ができます。生命と時間の大切さを知らなければ、時間を有効に使うことはできません。
勤労健康最好(勤労健康が一番) 身体は大切ですが、心の健康も特に大切です。ですから、健康とは心身が正常で、病気と悩みが少なく、積極的に生き、楽しく過ごすことです。 今日の台湾の仏教界において、数名の高僧の身体は非常に悪いです。例えば、印順法師は、今年( 2004 年)既に百歳の高齢ですが、子供の頃から年老いるまで、健康状況は常に良くありませんでした。彼の深く広範囲な学識と、数々の著作は、仏教史上、稀に見るものです。彼は多数の本を読み、多数の著書があり、学問が非常に高く、恐らく最も多忙な人でしょうが、常に病気にかかっています。 また、印順法師の弟子の證厳法師も、常に身体が弱く、彼女の弟子たちはとても心配しています。彼女はそれでも平安無事に生きていますが、毎日非常に忙しくしています。彼女は悲願で満たされ、無窮を願うため、健康状況は何の問題にもなりません。 私の弟子も常に私の健康を気にして、こう言います。「師父、毎日早寝早起きして、食べるものが少なく、仕事が多く、話すことが多く、もしも師父がお亡くなりになったら、私達法鼓山は誰が引き継ぐのでしょうか?また、誰が法鼓山を建てることができるのでしょう?」弟子達のこの気持ちに、私はとても感謝しています。 私の身体の状況は非常に悪く、これは事実ですが、皆さんは心配しなくてもいいです。私自身が、私の身体の弱さをわかっており、時間を見て休んでいますし、心の状態が健康だと思っていますので、病気になっても大丈夫です。皆さんも極端に自分を過小評価しないでください。自分を師父と見ず、師父の程度まで修行してから、再度、勤勉に働き奉献する。これは間違った考えです。まだ修行がしっかりできていないので、更に勤勉に働くべきで、勤労後は健康になります。なぜなら、勤勉に働かないと病気になるからです。そのため、私は皆さんに、病気に罹ったら、いつも自分にこう言いなさいと言っています。「貴方が怠けているから、病気に罹るのです!」皆さんは勤労の精進心を発起するだけで、諸仏菩薩・護法龍天・一切善神が貴方を加持し、貴方の気力が体力を助けてくれるのです。 これは、皆に病気に罹ってはいけないと言っているのではなく、病気になるとは正常なことです。しかし、病気に罹っても、心で自分は既にどうしようもないとか何も出来ないとか思わないで下さい。心の健康を維持して、自分はそれでも何かできると信じてください。もしも本当に病気に倒れてしまって、本当に何もできなくなってしまっても、最低限できることがあります。それは念仏を唱えることです。口が動かない時は、心で念じる事ができます。心で念仏を唱えることも、勤労といえます。
為了広種福田(広く福田に種をまく=布施する) 「広く福田に種をまく」の意味は、多く人付き合いをすることです。福田には二分類でき、合計 4 種類あります。二分類は、「敬田」と「悲田」で、敬田には、三宝恩・国家恩・父母恩があり、悲田には、貧困者と病人があります。 貧困者には物質的と精神的の二種類があり、病人には身体の病気と心の病気の二種類があります。生活の貧しさと精神の苦しみと関係なく、衆生の一切の危急困難に対して、救助することができれば、それは悲田に種をまくことです。 広く福田に種をまきたければ、いかなる人を助け、いかなる人を助ける対象としなければなりません。悲田・敬田に関係なく、私達は田があれば種をまき、随時随所で人々に離苦得楽(苦を離れて真実の楽を得る)を与える手助けをすべきです。 人々に物質を与えることは、一時的に離苦得楽を与える事が出来ますが、人に仏を信じさせ、仏を学ばせ、修行させることで、人々を永遠に離苦得楽に導くことができます。いかなる時間、いかなる場所において、いかなる人に出会う時、私達は、広く福田に種をまく・人に良いことをする・人を楽しくさせる因縁を失ってはいけません。現在、すでに出会った因縁は、先に早急に取り組み、まだ現れていない因縁は、因縁を成熟させる促成方法を考えるべきです。
?怕任怨任労(労苦をいとわず非難を意としない) 「任」は「忍」とも言い換えられ、負責・担任・忍辱負重(恥を忍んで重責を担う)の意味です。 他人に良い対応をしても、相手は貴方を感謝してくれるとは限らず、恩をあだで返される可能性も高いです。しかし、違う方向から、この二文を考えます。「広く福田に種をまくため、労苦をいとわず非難を意としない。」 努力を聞くだけで、収穫は聞きません。他の人がどのように反応するか問題にする必要はなく、それに恐れてもいけません。自分のためでなければ、彼に善行を勧め、彼に福を培うよう勧め、金銭・力・時間を差し出す方法と等しく、彼らの自分の功徳田の中において、極めて大きい利益を産む功徳を植えます。だから心配する必要はないですし、無礼な反応を気にすることもありません。もしまだ気にするようでしたら、この二文を心に唱えてください。「広く福田に種をまくため、労苦をいとわず非難を意としない。」 一回念じても効き目がなければ、二、三回、更に何回か念じてみてください。心の中の嫌な気持ちは自分で消す必要はなくなるでしょう。 仏法は私達にこう告げます。仏を学ぶ人は、慈悲を父とし、智慧を母とし、精神を鎧とし、忍辱を衣とします。誰でも忍耐を持つことができ、誰でも福があり、大きな忍で大きな福を得、小さな忍で小さな福を得、忍をしなければ福もありません。
布施的人有福(お布施をする者に福有り) 未来の安全と幸福の保証のため、私達は貯蓄の習慣を持たなければなりません。貯蓄を理解する人は、どの銀行のどの方法(信用の高さ、利率の高さ)を考慮しています。仏法から言うと、貯蓄には有限と無限、一時的と永久的の二大分類ができます。個人の銀行口座に貯蓄することは、有限で一時的なことです。社会に存在することは、無限で永久的です。三宝に貯蓄するのは無限かつ永久的で、尽きることがありません。個人の銀行に貯金する場合は、貴方個人と数人しか使う事ができませんが、社会に貯蓄すれば全世界に広がり、地球が壊滅する時まで残ります。また、三宝に貯金すれば、十方の無量の世界まで可能性が広がり、限りない未来の三世まで及びます。私達の命は区分を定めており、この三種の預金通帳の中に、すぐに貯金をすべきなのです。 布施とは、衆生を度する最高の方法で、菩薩道を修行する基礎の方法で、更に限りない貯蓄の方法です。布施は、財施・無畏施・法施の三種に分けられます。 ( 1 )財布施:財には内外の二種類があります。 1. 一切の動産・不動産等と等しい附属財物で布施することを、外財施と言います。 2. ボランティアなどの、体力・知力・技術・知能などの身体生命で布施をすることを、内財施と言います。 ( 2 )無畏施:他人に協力し、人に脅威と恐怖のない自由を与えること、これを無畏施と言います。仏を学ぶ人は五戒(不殺・不邪淫・不妄語・不飲酒)が持て、他人に五種の安全感が与えられます。例えば、殺戒を持つ人は、人に殺害されないという無畏を布施することができ、そのため、五戒とか五大布施と呼ばれています。 ( 2 )法施:布施の中で法施を最上とします。自分で理解した仏法で衆生を教化し、直ちに布施を行います。しかし、四聖諦や八正道などの仏法の道理は比較的奥深く、皆さんは理解できなくても大丈夫です。因果の道理を理解し、因果の道理を人に伝える、これが法布施です。もしくは、「布施する者に福あり」「慈悲に敵なし」の言葉さえ知っていれば、この言葉を他人に告げること、これも法施です。もし全てを口に出せないのなら、最も効果がある方法は、「南無阿弥陀仏」と念じることです。仏を念ずれば、災難から逃れ、災いを消すことができ、願いは叶うでしょう。
行善的人快楽(善を行う人には喜びが有る) 善人は寂しくなく、最も快楽です。いつでもどこでも人を助け人を利し、これでいつでもどこでも最高の幸せを感じることができます。 貴方が他人を助け、困難を解決したのを見て、貴方は一種の慰めを持つでしょう。例えば、以前道路でもう少しで自動車にぶつかるところだった子供を助けたとします。その後、その子が成長して、大人になってから再会したら、貴方は子供がこんなに大きくなって、とても嬉しく満足するでしょう。なぜなら、貴方は彼を救ったからです。 また例えば、ある老人の手を引いて道路を渡ったとします。その後、この老人を見た時、以前、手を引いて道路を渡り、良いことをしたことを思い出し、とても嬉しいと思うでしょう。 貴方が以前に良い事をしたなら、心に何も悪い考えも悩みもないでしょう。常に他人の善事を助成する事、これは他人を計算することはなく、善行をしても悪いもくろみはなく、いかなる人を見ても、心はとても嬉しく感じます。いわゆる「人助けは快楽のもと」で、善行する者は必ず楽しく、仏教徒であれば、更に多く善行を行い、人助けをすべきです。
時時心有法喜(常に心に法喜あり) 《法華経》中の凡夫世界は火宅と形容されており、仏法は、火宅を逃れる交通工具として形容されます。私達が仏教を信仰したり、仏法を聞く以前に、常に煩悩で慌てふためき、居ても立ってもいられず、東奔西走し、気が動転して、どうしていいかわからず、落ち着きませんでした。仏法を聞き、仏教を信じてから、煩悩から逃れることができ、まるで、乗船券を得て船に乗り、すがすがしく安楽の世界に向かうようになりました。ですから、私達は常に喜びを感じるべきです。 中国の儒家、聖賢孔子が「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり(もし朝に人生を送る本当の道を体得できれば、その夕方に死んでもよい)」という名言を残しましたが、これは、自分の落ち着き場所がわかった時、安心できるという意味です。それに、仏法が私達に修行の道理・順序・方向・方法・目的を与え、誰であっても学ぶことも行うこともできます。そこで、貴方が仏法と出会った後、きっと喜ぶはずです。 仏法を修行し、貴重さを感じるべきです。仏法から離れなければ、信じるのも修行するのも仏法で、嬉しさと喜びを感じるべきです。仏法に出会うことは、宝くじの一等に当たり、現金化したことと同様です。仏法の一文だけを知っていても、すでに誰よりも富裕といえます。 無量の衆生の中で、人身を得る人は極めて少ないです。人類の中で仏法を見聞きし、仏法を修学した人は少なく、私達はまさにこれらの少数派の中の幸運な者といえます。仏は人身は貴重で、私達はすでに人身を得ていると説きます。仏は、仏法は聞くことは貴重で、私達はすでに聞いていると説きます。一般人にとって、仏法は聞くこと、信じること、修行することは容易でありませんが、私達はすでに修行しています。修福と修慧の意味だけでも知っていれば、すでに慈悲と智慧の道理を知っていることになります。すでに 20 の文が読めれば、心は楽しくいつも喜びに満ち溢れるでしょう。いかなる人に会った時、仏法で皆と結縁できれば、特に喜びの価値があります。
念念不離禅悦(常に禅悦を離れずと念じる) 禅悦は、心の安定・平衡・平静・平和を指します。 聞法・念仏・礼仏等を通した修行方法は、人の心から次第に恐慌・心配事・悔やみ・傲慢狂い・気がかり・貪欲・怒り等の煩悩の現象を減らします。これは一種の禅悦です。 また、常に「四衆佛子共勉語」の 20 文を思い出せば、心は自然に安定・平静・落ち着き、これも禅悦です。 老僧が禅定に入ることや、座禅を組んで数時間というのが禅悦というのではなく、ただ心が混乱せず、心が不安定でないというのが、一種の禅悦です。 禅悦は決して狂喜ではなく、身体に負担と疲れがなく、心に心配がないことです。このような体験が一秒あれば、一秒の禅悦が得られます。常に平静・安定の状態にあるなら、常に不離禅悦を念じるということです。 皆さんが常に 20 文の「四衆佛子共勉語」を念じれば、このような境界を達成することができます。そこで、初歩の禅悦を体験することは、非常に難しい事ではありません。
処処観音菩薩(至る所に観音菩薩) 観音菩薩は、心の中にあります。観音菩薩は人を苦難から救い出し、至る所に現れ、苦難があれば、観音菩薩の名前を念じるだけで、観音菩薩が現れます。事実上、観音菩薩は今まで離れた事がありません。 いかなる困難や問題にぶつかった時、例えば、生死に関わる状況や、大きな災難に遭った時、或いは治療が不可能な深刻な病気に罹ったり、或いは誰の助けも受けられない時、何の希望もない時、全ての問題は、観音菩薩に手渡し、まめに観音菩薩を念ずれば、観音菩薩が私達を助けてくれるでしょう。そこで、常に観音菩薩を念じ、同時に他の人にも念じるよう勧めます。
声声阿弥陀仏(阿弥陀仏と常に口に出す) 私はいつも在家の信徒達に、これらの言葉を言うように勧めます。「師兄・師姉、すみません。」「阿弥陀仏、ありがとう。」相手に会った時、お互いを師兄や師姉と呼び、何かを話したり挨拶するときはいつでも先に、「阿弥陀仏」の一文を言います。話が終わった時も、「阿弥陀仏」と言い、知り合いにも、知り合いでない人にもこのように言います。いつでもどこでも阿弥陀仏が離れず、皆大いに喜びます。 いかなること、例えば、急用、困難なこと、災い、不幸、祝い事などが起こっても、常に観音菩薩か阿弥陀仏を念じることを忘れないようにしてください。一人の女性護法在家信徒の話ですが、ある深夜、家に五人の強盗が入ってきて、彼女は突然「常に観音菩薩を念じる事」を思い出し、縛られる時に大きな声で念じ、結果、強盗は彼女を縛りつけようとしましたが、どうしても縛る事ができず、最後には彼女の家からは現金が取られただけで、一家四人共無事でした。そこで、皆さんもしっかり覚えてください。非常事態が起こったとき、観音菩薩か阿弥陀仏を念じるのです。緊急時に念じれば、必ず感応し、普段念じれば、貴方の安全を守ります。他人に念じるよう勧めれば、広く善縁を結びます。
結び この 20 文を暗唱できれば、必ず役に立ち、全てが万事順調に進むでしょう。暗唱して、その内容の意味を復習して初めて、思い通りにいつでも運用することができるようになります。ある人が愚痴を言ったり、貴方を非難する時、貴方と比べる時、非常に忙しい時、信念が動揺する時、この 20 文をよく運用してください。 私は心の中で、永遠に貴方に祝福を送ります。 ( 1990 年 8 月 22 日農禅寺にて。 2004 年 6 月改訂)
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