心五四運動

 

21 世紀の生活主張

四つの安:安心、安身、安家、安業

四つの要:需要、想要、能要、該要

四つの它:它と向き合い、它を受け取り、它を処理し、它を手放す。

四つの感:感化、感動、感恩、感謝

四つの福:知福、惜福、培福、種福

 

「心」五四運動は、四つの安、四つの它、四つの要、四つの感、四つの福の五種の方法で、心の環境保護を完成させる初めての「四環」運動です。これは、法鼓山創立 20 年に向けた重要な目標であり、 21 世紀に全世界で必要な社会運動であると信じます。

21 世紀の科学技術文明は人類の為にもたらされ、驚異的なスピードで発展していますが、恐らくこれは福ではなく災いであると言う人もいます。地球資源の損耗と自然環境の破壊は、想像を超えます。そこで、私達は積極的に人類の価値観の転化から人類の心の浄化に着手し、人文社会の配慮から制約と科学技術の発展を誘導し、人類の服務から人類による破滅を食い止める必要があります。

法鼓山の心五四運動は、一つの精神啓蒙運動で、現代人が必要とする生活教育でもあります。法鼓山の現有の基礎と国内の優れた形象や国際間の声望により、心五四運動はきっと世界人類に明るい未来をもたらすでしょう。

「心五四」の項目では、仏教の用語を用いず、宗教色を薄めており、世界上の各種民族・文化・宗教背景の全ての人類に親しんでいただけます。仏法の「心」法は、狭義の宗教信仰ではなく、浄化の人文社会の価値観とその実施の方法です。それは、仏法に深く入り込むことができますが、他の民族文化や宗教背景と衝突することなく、長続きし大きなものとなるでしょう。

( 1999 年 8 月 22 日「法鼓山全球悦衆大会開示」より抜粋)

 

「心」五四運動の時代の意味

「心」五四運動は、仏法の奥深く理解しにくい名相の学理を、一般人にも理解され受け入れてもらえるよう、生活中での運用の観念と方法に変えています。これは、法鼓山が長年に亘って努力・完成させた成果であり、名詞は新しく作りましたが、実質の精神と内包は仏法のままです。

法鼓山は心五四運動を「 21 世紀の生活の主張」と位置づけ、スローガンでも、立派に見せる小細工でもなく、一つの心の建設の工程です。

事実、心五四運動は、釈迦牟尼の時代にすでにありました。仏法を人の生活中に普及させ、人に啓蒙を与え、自己の苦境を改善し、自己が元々持つ心地光明(心智・智慧)を開発させるため、釈尊がこの世の人々に現説法を示しました。同時に、生活中に仏法の観念と方法を使い、自己の煩悩や習気を調伏させ、随時随所に、自己の心中に清涼な浄土を建設します。

「心」とは観念と心智であり、仏法が説くのは「心」法であり、中国の禅法も「心」法を呼びかけています。それは一種の智慧で、一部は先天的、一部は後天的なものです。言い換えると、先天的な条件が備わると、それに後天的な育成と開発が加わり成立します。育成と開発を受け入れにくい人は、自分の改善を願わないためです。

観念は、子供の頃からゆっくりと身に付き、自己の考えを次第に形成していきます。大人になって次第に成熟の観念が身に付き、個人の主張と考えが確立されます。人が既に持っている観念は、改善出来ないというのではなく、特に、苦痛・苦境・災難をどうしても解決できない時、ある人がその人にある観念を教え、問題解決を促す時、新しい観念が受け入れられる可能性があります。心理カウンセラーの相談、宗教家の導き、親友間の心の対話が、環境に適応させ、人とうまくやっていく方法を身につける助けとなります。

 

この世と精神の結合

心五四は、仏法を運用し、私達の観念の調整や心智の開発をします。仏経中の仏教用語は、非常に理解し難いもので、更に、多くの人が仏法を一種の玄妙で奥深い学問にしたり、一種の神奇な体験にとらえたため、かつて、私達の日常生活と観念はあまり適応できませんでした。事実、これは仏陀の本意ではありません。仏陀が説いた法は、性別・年齢・人種・職業とは関係なく、知識や学問の高さとも関係ないもので、今の生活環境に適応すべく、全ての人が法を用いて心智を開発し、観念を変え、行為を改善するのです。

私はかつて、「人の世で生活の仏法を至るところに広め、火宅中に、清涼の浄土を建設する」という文を発表したことがあります。「人の世で生活の仏法を至るところに広める」により、人品を高め、私達の生活品質を改善します。「火宅中に、清涼の浄土を建設する」により、私達を「火」の傷から守ります。

「火宅」とは、欲・色・無色の三界を指し、私達が住むこの世も含まれます。「火」は、憂苦・焦慮・怒り・恐れ・疑い・嫉妬等の煩悩を指します。釈迦牟尼仏は三界で仏法を普及後、人々がいかなる順逆の因縁に出会ったとしても、憂慮せず、恐れず、おごり高ぶらず、落胆せず、失意せず、気落ちせず、人の心に清涼浄土の出現を望みました。これもまさに法鼓山の理念です。

 

宗教の玄妙で奥深い色彩を薄める

心五四の五大要項は、「四つの安」、「四つの要」、「四つの它」、「四つの感」、「四つの福」で、全ての要項には四種の「心」の観念と方法が含まれ、心五四と呼ばれ、これは、法鼓山が長期に亘って努力を積み重ねて完成させた具体的な教材です。「心法」から始まり、「心の環境保護」となり、その後、「儀礼」、「生活」、「自然」の四種の環境保護から、「四つの安」、「四つの要」、「四つの它」、「四つの感」、「四つの福」に発展しました。これらは全て、私が何年も話してきた講座のテーマで、玄妙で奥深く、神秘的な色彩を薄め、仏法を簡単に理解し、運用できるようにしています。

法鼓山はまた、心五四を「 21 世紀の生活主張」と位置付けています。分けて説明すると、「四つの安」とは「人品を高め新しい秩序を築き上げる主張」で、「四つの它」とは、「人生の苦境を解決する主張」で、「四つの要」とは、「煩悩と向き合い人の心を安定させる主張」で、「四つの感」とは、「自己を助け他人を成就させる主張」で、「四つの福」とは、「全人類の福祉増進の主張」です。これらの主張は皆が集まって共同で創作したもので、私個人の主張ではありません。

 

生活化の仏法

「生活化の仏法」、「人間化の仏学」、「世の中化の仏教」が、心五四運動の基本精神です。仏法を生活中に運用するため生活化の仏法といい、仏学が人間性を高める根本なため人間化の仏学といい、仏経が世の中に属すため世の中化の仏経といいます。生活、人間性、世の中の意味は異なり、仏法、仏学、仏教の三者間も異なります。

「生活化」の仏法は、仏法の観念を用いて生活することで、現在、法鼓山が積極的に取り組んでいる「仏法生活化」運動のひとつです。私達は、生活中に仏法を運用する事ができ、山奥に行く必要もありません。仏法は中庸の道を講じ、肉欲の享楽を主張せず、無意味な苦行も主張しません。一定標準の仏化生活を根拠にし、出家者・在家者に関わらず、日常生活中、朝から晩まで仏法を運用します。これこそ、生活化の仏法です。

仏学を「人間化」させる理由は、多くの人が仏学を資料や玄学や一種の奥深い学問ととらえる結果、仏学が現実の生活から離れ、人気のない学問となり、世の中との密接な関係を断ってしまうからです。多くの人は、研究のために研究を行い、仏学を一つの学問とだけとらえ、生活中に運用しないため、学問化され、非人間化の仏学となっています。

「人間化」の指す意味は、人の立場で仏学を研究し、人に向けて研究の成果を表し、人の素質を高め、この世を浄化することです。例えば、法鼓山中華仏学研究所の「所訓」中には「利他を重視、実用を重視」という文があり、利他と実用の仏学を提唱しています。これが人間化の仏学です。

「世の中化」の仏教は心五四の基本精神の一つです。まず、歴史の長い正統宗教は、「教主・教理・教団」の三大条件が必要です。すなわち、宗教を始めた歴史人物・理論基礎・修行もしくは実践教理の団体で、仏教はこれらの三つの条件が必要となります。

いわゆる世の中化は、この三つの条件は人を中心とし、玄学・神崇拝のために作られるのではないため、世の中化の仏教と称されます。現在、多くの人が絶えず開悟と神秘経験の神通感応と、霊界の神との接触を強調します。これは全て、人間の本意を離れたものであり、世の中化の仏教ではありません。

要するに、人間の本意を離れ、仏法を説き仏学の研究や仏教の信仰をしたとしても、これは生活化の仏法でも人間化の仏学でも世の中化の仏教でもありません。心五四運動は、必ず生活化・人間化・世の中化なのです。

 

四種の環境保護の実践

心五四運動は、 21 世紀の生活主張であり、四種の環境保護を確実に行うことです。

ある人は、四種の環境保護と仏法の関係を聞くかもしれません。事実、心の環境保護の「心」とは仏法なのです。礼儀の環境保護から見ると、仏法は非常に礼儀を重視し、その中に、戒律、威儀、持戒が含まれ、律儀を守る事が仏法の基礎です。生活の環境保護は、仏法の生活化です。自然の環境保護は、仏法の視点から言うと、一人の心身は正報で、世界環境は依報で、正報・依報の二報こそが自己の道場で、全ての人が、依報中の正報を用いて修行します。そこで、必要なのは環境への愛護で、自分の体への愛護と同様であり、この四種の環境保護の基礎内包は全て仏法なのです。

 

精神啓蒙運動の生活教育

心五四の目標は仏法の生活化で、一種の生活教育です。これは精神啓蒙運動の生活教育で、法鼓山の唱える三大教育(大学院教育・大配慮教育・大普遍化教育)を実践し、「人品を高め、この世の浄土を建設する」の理念を推進します。

大学院の教育は仏法の生活化であり、クラス課程もキャンパスの境教も、生活化を目標に努力しています。「実用重視」が、世の中化・人間化・生活化の仏法に必要であり、現在、中華研究所は仏法生活化の教育を推進しています。

心五四運動の推進は、二つの方向から考えることができます。一つは、宗教固有の名相色彩を薄め、世に入り俗を化することで、一つは、流俗を避けることです。

宗教の色彩を薄めるとは、霊異現象と神通力等の神秘経験を指すことでも、偶像崇拝を強調することでも、生きた人・霊物・霊力を偶像にすることでもありません。仏法の最高原則は、「まさに住する所なくして、その心を生ずべし」、「非法は非法ならず」、「一切の法は皆仏法で、一切の法は皆仏法ならず」です。釈迦牟尼仏は 49 年間、「私が講じるのは真実の法ではなく、方便法であり、権巧法なり。」と説いています。

大半の宗教は、「創造神」の信仰と、霊異現象の崇拝に属します。しかし、仏法では「創造神」が存在しません。仏経の中に、霊異と神通が紹介はされていますが、仏法が重視するものではありません。特に、中国の禅宗は、霊異と神通で信徒を引き付けることは主張せず、最も世の中化・人間化・生活化の仏教といえます。宗教の色彩が薄くなると考え、元々進んでいた方向を見失うと心配したり、恐れたりする人もいますが、これに対して、大衆は自信を持たなければなりません。もしくは、絶えず仏法の精神を充実させ、世間で世間を影響し、世俗で世俗に転化させます。私達は流れに流されず、中流の砥柱となり、世に入り俗を化さねばなりません。

心五四の推進は、軽率奔放と現実離れを避けるためで、法鼓山の僧団と護法体系からまず開始し、具体案を研究し、模範区を設立し、次第に、家庭・コミュニティー・キャンパス、そして、全世界に成果を推進します。

同時に、インターネットを運用し、心五四を中国語・英語等の各種異なる国際言語に翻訳し、全世界にこの観念を広めます。

( 1999 年 9 月 7 日 「専職菩薩精神対話」より)

 

四つの安:人品を高める主張

── 安心・安身・安家・安業

私達は、仏法をこの世の社会で実行する必要があります。仏法を全ての家庭に送り、仏法の「慈悲の光」と「智慧の光」を接触させ、世の中に温かみを届け、一人一人に、身安・心安・家安・業安を与えます。これこそが信頼できる平安です。

安心 − 欲は少なく

欲は少なく満足を知る、つまり、強い欲望を持たないことで、自分の心を安心させる事ができます。

他人を安心させるのは、一種の菩薩の行為、一種の慈悲願心でもあり、悲願を発起して衆生の福利を図り、追求することです。さもなければ、僅かの欲で満足を知ることは、積極的でないだけでなく、消極的である可能性があります。

上等人は、教義に安心し、菩薩心を発し、菩薩道を進みます。中等人は、事に安心し、その人に適量の比較的忙しい仕事を与えれば、煩悩を探したり、作ったりしません。下等人は、名利物欲の追求に安心します。最低限、事に安心し、名利を追求するだけの下等人にならないようにしてください。

安身 − 勤勉節約に励む

人は仕事をすべきですが、仕事は人生と等しくありません。また、人生は物質の富裕のために仕事をするのではありませんし、物欲の享受を満たすためだけに仕事をするのではありません。

仕事とは健康的な心身と感恩の奉献のためにするのです。一生懸命仕事をすると、体の健康と心の平安のみならず、報酬を受ける事ができますが、節約を心がけなければなりません。さもなければ、物欲のために、心身は不健康な行為をすることになります。言い換えると、勤勉に働いた後は、倹約して質素に暮らすべきです。ですから、「勤労」と「節約」のこの二つの原則は、健康の秘訣といえます。同時に、倹約・質素の結果、多くの福利を手にし、それを他人に提供する事ができます。そうすれば、貴方は全ての人に好かれ、賞賛されるでしょう。

安家 − 敬愛

家庭の温かさはお互いに敬愛し合い、家庭の貴さはお互いに助け合うことにあります。助け合いの意味は、助けを必要としている人に助けの手を差し伸べることです。相手を助ける時、得意にならず、自分が恩恵を与える人だとか相手に感謝されるべきだと思わないでください。代わりに、相手に貢献の機会を与えてもらい、他人への協力から自分が成長できたことに感謝してください。

安家の要領は、相互尊敬・相互学習・相互理解・相互配慮・相互感恩・相互奉献です。物質上自分の家が落ち着けさえすればそれでよし、それは真の安家とは呼べません。真の安家とは、家族の一人一人が力を尽くし、各自の役割を守ることです。

安業 − 廉潔で公正

一般人の言う安業とは、自己の職業や仕事、そして安定と保障を指します。しかし、身口意三業の行為の清浄と精進を範囲とするなら、個人の行為も仕事も含まれます。

私達は自己の行為に注意すべきです。身口意三業の本分に安じ、軽挙妄動(よく考えないで軽々しく行動する)や原則なしをやめ、口からでまかせを言ったり、無責任な放言をやめ、また、意馬心猿(色欲にとらわれて気が落ち着かず仕事に専心できない)や優柔不断をやめましょう。これらは、日常生活中で必ず守るべき修養です。

敬業楽群(職業を愛し、職場に人生の価値を見つけ、従業員が一体となって努力する)とは、特別なことではありませんが、これをやり遂げるのは容易ではありません。たとえ、普段何事も成功し、満足しても、いったんいくつかの曲折・混乱・難題が現れると、今までしてきた仕事を疑い始め、誰のために苦労するとか誰のために忙しいんだとか言うでしょう。このような考えが現れれば、敬業楽群とは言えません。

敬業とは、自分が携わる仕事に対して責任感を持ち真面目に取り組むことです。精進とは努力し、怠らず、全心投入することです。もしも貴方の気力・体力・能力全てにおいて、精一杯取り組めないのなら、敬業精進とは呼べません。

自分の全ての行為に対して、「他人の利益を図る即ち利己」の観点で考えるべきで、自分の利益の追求はせず、他人の福利のために努力し、しかも他人の遠い利益と近い利益で考慮、構想するのです。家の中や会社、いかなる場所で、このような気持ちで向かい合うことができるのなら、貴方は人付き合いが上手で、人の心をつかむ事ができると思います。

 

四つの要:人の心を安定させる主張

── 需要・想要・能要・該要

現代社会は、物質文明の極端な発展と高速な構造変化により、人類の価値観が混乱しています。その結果、何が本当に必要か(需要)、何が欲しいか(想要)、何が自分の能力に合った必要か(能要)、何が責任が伴う当然必要なことか(該要)わからなくなってしまいます。この四つの要(需要・想要・能要・該要)が分別できないため、大半の人達は社会の風潮に従い、他人が持つ物は自分も欲しいと考えるのです。

それに、現代人は往々にして、「必要な物はさほど多くは無い、欲は余りにも多い」です。それに加えて、本当に必要でないものまで欲しがり、手に入れられないものまで欲しがり、その結果、欲しいものが手に入らず、心は安定せず社会問題に発展するのです。

必要なものはさほど多くは無い、欲は余りにも多い。

「必要(需要)」とは、それがないと生きられないもの、例えば、日光・空気・水・最低限の食物・寒さをしのぐ衣服・雨風を遮る家、また現代社会において、基本的な交通手段・コンピューター・電話も必要であり、これらの必需品は決して欲望とはいいません。

欲望とは、必需品以外の贅沢品・装飾品以外に、自分の虚栄を満足させたり、うわべを飾るだけの物です。しかし、それぞれの場所と地位においては、時と場所、場合に合わせ、一定の厳かさは必要になります。それも一種の必要(需要)となりますが、適度の分別は必要です。

生きていく上で本当に必要となるものは決して多くはありませんが、主観的な立場から言うと、それがないと生命が空虚に感じたり、生きていくのが無意義と感じますが、これは純粋に個人の価値の判断といえます。ですから、ただ「必要(需要)」と言っても、定義が非常に曖昧で、「欲しい(想要)」との間に差がある時は、自分の観点から区別し、同時に客観的な立場で考えるべきです。

能要と該要

 「能要」とは、個人が許す範囲内で、努力によって必要なものを獲得する事ですが、能力不足なら、有能な人に譲り、強要すべきではありません。私達の一生は、名前・利益・権利・地位・感情等の多くのことが関連し、人を羨ましがられたり渇望を引き起こしたりしますが、それを考える時、「自分の能力や差し出した物から、実益も名誉も得られるか?条件が備われば物事は自然に順調に運ぶか?過多な要求をしていないか?」と注意深く考えてみるべきです。もし、支払いが足りなかったり、能力・因縁が全て備わってないのに、それを手に入れたいと望み、分不相応に要求するようでは、ただ苦痛と傷を増やすだけです。

「要すべき(該要)」と「要すべきでない(不該要)」にいたっては、今の若者がよく言う「好きなものが何でも手に入らないとイヤだ!」という言葉から見ても、「要すべき(該要)」と「要すべきでない(不該要)」をはっきりと区別していないのです。

多くの人の欲望は限りなく、好きな物事と欲しい物事が多過ぎます。この時、「本当に好きなのか?本当に手に入れる必要があるか?」と、自問すべきです。例えば、名誉・地位・財力・権勢は誰でも好みますが、分不相応な名誉は虚名であり、分不相応な財産は悪銭で不義の金銭です。分不相応な地位は虚位であり、これらは全て必要の無いものです。実益も名誉もあるなら、自然と受け取っても恥ずかしいとは思いませんが、それは一種の励ましです。

実は、私達の日常生活において、必要な物はさほど多くは無く、欲は余りにも多いのです。必要(需要)なものは要すべき(該要)で、欲しい物は重要ではありません。

私達は「心の環境保護」の角度から始めるべきです。一方は、私達の心を環境の汚染から保護をすること、環境の「免疫システム」に対して増強すること。一方は、嫉妬・怒り・恨み・利己的などの色々な良くない心を持たず、環境を更に悪化しないことです。また、自分の心の動きを観察し、自分の「必要(需要)」をはっきりと理解し、個人の欲望である「欲しい(想要)」をなくすことです。

人生の過程において、この「四つの要」がはっきりと理解できれば、自分の行くべき道がわかり、とても平安に過ごすことができるでしょう。

 

四つの它(それ):困難を解決する主張

── 它と向き合い、它を受け取り、它を処理し、它を手放す

生活において、逆境の出現は避けられません。私はいつも、難題を処理する時は、平然と它と向き合い、它を受け取り、它を処理し、它を手放すべきだと勧めています。いかなる困難、苦しみ、不公平な状況に遭っても、逃げないで下さい。なぜなら、逃げても何の解決にもならないからです。智慧を持って責任を負えば、真に悩みの問題から解脱することができます。

煩悩に向き合う方法

いかに問題に向き合うのでしょう?いかなる物事や現象の発生には、全て原因がありますが、私達は原因を追究する暇も必要性もありません。ただ、それに向き合い、それを改善すること、これが最も直接で重要なことです。

多くの人はこう言います。「私はいい人なのに、どうしてこんなに苦しい目に遭わないといけないの?」必ず誰にも因果応報と障害があるということを知らなければなりません。大地山川があれば、雨風雲霧があるのと同じことです。大修行者にも因果応報があります。例えば、仏陀はかつて大きな石に当たり傷を負ったり、重病に罹ったりしました。しかし、因果応報も障害も煩悩を招くとは限りません。大修行者と一般人の違いはここにあります。

一般人は自身の遭遇した苦しみにより、自信を失います。大修行者は自我を手放すことができるので、煩悩に影響されることはありません。仏を学ぶということは、仏の智慧を学習することで、煩悩の原因をはっきりと知り、它と向き合い、它を受け取り、它を処理し、它を手放します。

因果は必ず因縁とつりあいます。いかなる状況について、もしも改善できるのなら、すぐに改善します。改善できないなら、它と向き合い、它を受け取り、絶対に逃げず、改善に向けて全力を尽くします。責任や因果応報を逃れても、何も解決できず、状況の改善こそ、最も聡明です。

計画した物事も完全に頼れるとは限りません。また、予想外の状況が発生することもあります。この時は、それを受け入れるべきで、その後方法を考えてそれを処理します。なぜなら、因縁とはこうだからです。

ですから、しっかり計画をし、過程中に問題が発生しても、悲しんだり失望したりすることはありません。その後もずっと努力し、因縁を促成すれば、成功のチャンスがあります。因縁が促成できないと判断しても、それでも手放してください。これと努力しないで放棄することは全く違います。

自分を手放す、他人を手放す

自分を手放さないのは智慧が無く、他人を手放さないのは慈悲がありません。全ての人に対して、同情心と尊敬心が生まれると考えてみてください。他人に同情するというのはまだ解脱できていないということで、他人を尊敬するというのは独立した人格を持つということです。

普段の生活において、禅はどのように人に安心を教えますか?禅の態度は、事実を知る、事実に向き合う、事実を処理する、そして、それを手放すことです。いかなる状況に遭っても、それが重大なことだと考えません。何か不本意なことが起こる可能性があるなら、それを起こさせないようにします。それが絶対に起こるとしても、心配も憂慮も全く役に立ちませんし、状況を更に悪化させるかもしれません。それに向き合うというのが最善の方法です。

危険な目に遭い、救いを求める人によく会います。通常私は彼らの問題に耳を傾け、苦慮している内容を知りますが、彼らの苦慮が私の悪夢に変わることはありません。

彼らに与える提案には一つの原則があります。感情の問題には理智でもって処理すること、家族の問題には倫理でもって処理をすること、たとえ一大事が起こったとしても、時間を応用してそれを解消・弱めます。どうしても逃れられない不運に出遭ったら、ただそれに向き合い、受け止めます。それに向き合い、受け入れる事ができれば、それを処理したことと等しく、すでに処理できたら、それを心配する必要はなく、手放すべきです。いつも、「どうしよう!」と思わないで下さい。寝るときはしっかり寝る、食べる時はしっかり食べる、このように生活してください。

 

四つの感:人と付き合う主張

──  感恩・感謝・感化・感動

日常生活において、いかに具体的に自助協力の修行を実践するのでしょう?「四つの感」(感恩・感謝・感化・感動)から始めます。

感恩 ― 奉献にお返しや報いを求めない

常にどこにおいても感恩の気持ちを持ち、財力・体力・智慧・心力で一切の奉献をします。奉献をする時、礼儀正しい態度で接します。しかし、喜捨心で差し出すのではありません。さもなければ、自分が恩恵を施し、優れた意識を持つ者だと独りよがりし、多くの功徳を施したと思い込み、一心に相手のお返しを期待するようになります。これを慙愧知らずといいます。かえって、布施や助けを受ける人の方が、相手を恩人と見て、その恩恵に感謝します。また、お互いが奉献・供養・感恩・報恩の心を持ち、一方は感恩の心で奉献し、もう一方は感恩の心で受け入れます。

多くの人が言う奉献とは、実は心で投資計算をしており、今日はこれを与えたから、明日は見返りがあると考えます。事実上、これは利益の交換で、報恩でも奉献でもありません。真の奉献とは何も条件がないのです。

感謝 ― 順境・逆境、皆恩人

感謝の心を持って、順縁と逆縁を受け止めるべきです。少しでも力を貸す人は貴人であり、当然感謝すべきです。逆境で私達の成長を激励する人も貴人であり、同じく感謝すべきです。事実、私達が会う人、見る人全てを貴人、恩人、私達に有利な人達と見るべきです。そうすれば、心は常に平安を保つことができます。

感化 ― 慙愧を知り、常に懺悔し、慈悲と智慧で自己を感化する

多くの仏教徒は皆、経典から他人を教化・感化し、仏法の基準で他人に要求します。

仏法とは私達の修行を助けるもので、人を評価するものではありません。惜しくも多くの人が仏法で人を評価するばかりでなく、世の中の道徳基準で他人に要求し、自ら手本を示すこともできません。このように仏法で自分の助けもできないのに、どうやって他人を助け有益をもたらすことができるのでしょうか?

自己を感化するとは即ち慙愧を知り、常に懺悔するということです。慙愧とは、自分のする事があまり優れず、更に良く、更に努力することです。懺悔とは自分の間違った点を知り、今後は再び過ちを犯さないように注意することです。

経典にはこう書いてあります。大乗仏教を修行する菩薩は、第八地以上まで辿り着いて初めて無学となり、小乗仏教の菩薩も羅漢に行って初めて無学とされます。無学とは、もう学習する必要がないということで、懺悔も慙愧も学ぶ必要がありません。また、ある人はこう言います。「菩薩はなぜまだ過失があるのでしょう?菩薩はまだ慙愧が必要ですか?」事実上、菩薩は常に慙愧・懺悔をすることで、ますます精進し、清浄し、他人を感動させられるのです。

感動 ― 自分が実際にやってみて、仏の慈悲と知恵を学び、他人を感動させる

家族がうまくいかないことに不平をこぼし、思い通りにいかないと満足できない人もいます。また、社会に混乱を感じ、心は安定しません。いつも、他人が良くなってこそ自分は安全で、他人が真面目で責任を持ってこそ、自分が幸せになると思っています。この基準で他人を期待し、他人が良ければそれで自分も福報があると考えます。しかし、自分への要求を忘れ、自分が他人の願いに満たされたかどうかを見ています。

この世界は仏法が必要です。自分が仏法を実践するのが一番信頼できる方法で、人々に実行を望むのは容易ではありません。もし全ての人が智慧をもって物事を処理し、慈悲をもって人に接することができるなら、自然と他人を感動させる力量を生むことができます。

「四つの感」とは自己を感化させ、他人を感動させ、順縁・逆縁に感謝し、奉献に感恩することです。観世音菩薩の慈悲心を学び、地蔵菩薩の大願心を学ぶことで、このように苦難に耐え抜き、苦難を苦難ととらえず、同時に苦難の中から苦難を救う事ができます。これこそ、自分と他人を利し、自他を助ける菩薩の精神です。

 

四つの福:幸福増進の主張

── 知福・惜福・培福・種福

仏法の教義と修行の観念は、福徳と智慧を修めることです。同時に、慈悲を運用して福報を修し、智慧を運用して智慧を修し、智慧を運用して福報を育て、福報を運用して智慧と歩調を合わせます。福報と智慧、或いは慈悲と智慧、この二つが欠けると、修行は円満に進みません。

そこで、福報が円満な人は必ず智慧も円満で、智慧が円満な人は必ず福報が円満です。これこそ「仏」なのです。私達は仏を「両足尊」と尊称し、これは、福報と智慧がどちらも円満な人を指します。

「四つの福」(知福・惜福・培福・種福)が実践でき、他人を祝福できる人は、大福報があります。

知福 ― 知足常楽(足るを知るものは常に幸福である)・安貧楽道(貧に安じて自らの信じる道を楽しむ)

自分が福報を持っていることを知るのがとても重要です。人は世の中に生き、最低限呼吸さえしていれば、一切の希望が持て、人生は一切の可能性に満ち溢れます。そのため、呼吸はとても貴重なのです。「留得青山在、不怕没柴焼(命の綱が切れないかぎり、将来の望みは持てる)」ということわざがあります。これは、福を知ることができれば、こう言うべきです。「私はまだ呼吸をしている。もちろん満足している。」

しかし、多くの人が自分の命の大切さを理解しておらず、これが私達の福報であるということを知りません。特に、現代の社会は衣食が満ち溢れ、多くの人は福の中にいても福を知りません。他の人が持っているのを見て、相手がどう努力してそれを獲得したかは考えず、自分も欲しがります。ひいては、自分の目的達成のためには手段を選ばず、自分と他人を害することになります。もしも私達が福を知る事ができれば、満足を知る事ができます。満足ができれば、常に楽しいのです。しかし、満足を知るというのは、何も必要でないというのと等しくなく、「多いのもいい、少ないのもいい、皆が大いに喜べばそれでいい」これこそ真の知足(満足する)です。

惜福(福を惜しむ) ― 珍惜擁有(所有を大切にする)・感恩図報(恩に感じそれに報いる) 

私達は呼吸以外に、たくさんの物を持っています。例えば、生命や財物を始め、人間関係や人付き合いもそうです。

惜福とは、私達の持つ全ての物(知能資源・健康資源・自然資源・社会資源など)を大切にすることです。大切にし、浪費せず、粗末にしない、特に自分の体を粗末にせず、名誉や品格、ひいては理念や理想を傷つけないこと。これこそが、惜福です。

培福(福を培う) ― 享福非福(福を享受するは福ならず)、培福有福(福を培うは福なり)

培福とは、今生得た福報と同様、田に福を植えることであり、それによって、さらに多くの福を育てることができます。もし全世界・全宇宙のすべての衆生が、福を培う対象になり、絶え間なく福を培えば、それは大きな福報のある人間となり、最後は仏と同様、福徳円満となります。

業障の因果応報は、時には「福報」と間違えられることがあります。例えば、ある人は、贅沢に悠々たる生活を送り、自分は苦労もしないで甘い成果を収めます。これは、仏法の角度から見ると、必ずしも福報とは限りません。

仏法の観念を応用できるなら、諸行無常(現実存在はすべて、姿も本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができない)で、いかなる現象も永遠に変化しないものはありません。福を享受することは福があるとは言わず、惜福や培福こそ、真の福があるといえます。世間の福報を享受する時、それに続くのは苦報の訪れだからです。もし私達が今この機会をとらえることができるなら、苦しみを無視し、侮辱を気にせず、他人の苦難を解決することができます。更に自分の名聞利養(世間の名声と利得。お金と地位に対する欲求)を考えず、絶えず努力し進歩を求め、出来るだけ助けが必要な人に奉献します。これこそが、求福・培福です。

種福(福を植える) ― 成長自己(自己の成長)・広種福田(広く福田に種をまく=喜捨)・人人有福(皆福あり)

釈迦牟尼は私達にこう告げています。人間がこの世界に来るのは、無上の福を受けるためであり、誰でも自分の福田に種をまく(喜捨)ことができます。例えば、自分の家族や友達、社会で貧しく人の助けが必要な人、社会や国家の利益と一切の衆生の幸福、すべては私達の幸福をうけるべき下地です。

随時随所に福を植えることを知っている人は、福のある人です。福を植える為に、かならず努力して自分を成長させ、知識・人格・智慧・技能各方面を高めることで、さらに多くの資源で福を植えることが出来ます。

 

 

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