貴方に祝福を

 

≪般若心経≫から、いかに心身を安定させるか

身体とは人の為に有る。この世界の生活は、権利と義務は並行であり、いかなる人も権利を享受することはできないが、全てが義務ではない。しかし、現在の社会においては、多くの人が権利と義務との関係を十分理解せず、ただ獲得するものだと考え、できるだけ獲得すべく努力しているのである。もし獲得できないなら、それは愚かで、一種の損失と考え、結局、責任を軽視し、権利の間違った観念を重視する。また、様々な乱れた現象を誘発することで、結果、人の心は動揺する。心が不安定で、動揺し安全感が感じられない人もいる。もし、適切に処理しなければ、社会全体が不安定になってしまうだろう。例えば、もともと金魚鉢の金魚はお互い仲良くしていても、そこに闘魚が入ってくれば、他の金魚に災いが降りかかり、穏やかではいられなくなるように。

仏法の観点から見れば、権利や義務の享受は因果原理に背いている。まるで、瓜を植えていないのに瓜が食べたい、豆を植えていないのに豆が食べたいなどと言うように、不合理だ。中国語のことわざに「瓜を植えれば瓜がなる、豆を植えれば豆がなる(因果応報)」とあるが、瓜を植えれば本当に瓜が採れるのであろうか?豆を植えれば本当に豆が採れるのであろうか?もし、ちょうどいい気候の肥沃の土地に瓜を植えれば、収穫の時期には、自然と沢山の甘くておいしい瓜が採れるだろう。だが、運悪く、種を植えた後に暴風豪雨や異常気象に襲われれば、収穫に影響がでるだろう。だから、仏法は結果には必ず原因がある事を強調しているだけでなく、この因果関係の中に、さらに因縁を加え、因縁がもしうまくいけば、さらにいい結果を得る事が出来るという。因縁は全て備わらず、例えよい原因があったとしても、いい結果をもたらすとは限らないのだ。

ところが、因縁は複雑で不思議で、予測が付かない因縁に直面した時は、「耕耘だけを問い、収穫は問わない ( 努力を問い、結果を問わない ) 」という心理を持つべきである。一生懸命農作に取り組めば、収穫の希望がある。農作しなければ、たとえ収穫が得られるとしても、それは不分相応な財や悪銭であり、みだりに取るべきではない。農作して収穫が得られるなら、この因果の成功、因縁全ての人、全ての事に対し、感謝の気持ちを示すべきである。惜しくも社会において、多くの人々の因果と因縁の観念、そして、権利と義務ははっきりしておらず、私利私欲な結果で、かえって己に悩みをもたらし、他人にも災害をもたらしている。わがままな行為は、一見有利なようだが、実際は最も損をする。わがままでない人は、一見損をしているようだが、実際は真の利益を得るのである。

 

( 一 ) 正確な人生観の確立

  気持ちを安定させる為、まずは正確な人生観を確立する必要がある。≪般若心経≫で示す仏教の人生観を三点紹介する。

 

1 . 三世 ( 前世・現世・来世 ) の因果、報いを受ける願ほどき

  以前ダライラマが演説中、生命の現象について語った事がある。「なぜある人は悪い行いをしても報いを受けなかったり、反対に良い行いをした人が良い報いをうけないのでしょうか?」という質問に、ダライラマはこう答えた。「これはあなた方が過去と未来を信じていないからです。もし、この世に三世因果があると信じれば、この問題はすぐにでも解決し、憤りも感じなくなるでしょう。」実は、これが仏教の三世因果の観念である。

  人は果報を受け入れる以外、三世の因果観から生命の目的をみて、願掛けや願ほどきを行う。そこで、我々は一生かけて努力を続けるべきなのだ。今が思い通りでも思い通りでなくても、全て、一方は報いを受け、一方は願ほどきをし、不断の努力が必要である。

 

2 . 四大 ( 地・水・火・風 ) で、歓喜自在

  ≪般若心経≫に示すように、我々の生命は、大きく分けて二種類、細かく分けて五種類の項目に分けられる。一つは物質に、一つは精神と心理に属している。物質部分とは身体を指し、地・水・火・風の四大構成である。この身体は、出生前は存在せず、父母が与えてくれた物であり、胚胎から段々一人の人間が形成される。身体が絶え間なく変化し、我々はこの身体を四大集合と呼んでいる。

身体等の物質現象以外に、およそ世の中の諸事が、無常の変化から離れられず、生と死、得と失は相対的となる。生命は、得、失、生、死を擁し、絶え間なく成長するため、我々はこの貴重な生命をさらに運用すべきである。果報を受ける、願ほどきをするなどとは関係なく、楽しく過ごし、自然と直面すれば、このように生死と向き合う事が出来る。

 

3 . 五蘊(色・受・想・行・識)皆空、利他に献上

  ≪般若心経≫で言う五蘊とは、色・受・想・行・識のことであり、この中の最初の蘊は色(身体)、後の四蘊は精神に関係する。仏法の智慧から見れば、五蘊は実際に存在するものではない。ただ衆生が非常に自我を気にし、私利私欲なため、様々な悪行を生み出してしまうのである。

 しかし菩薩は生命は五蘊によって形成されている事を知っている。精神や物質であろうと、永遠に変わらないものはなく、いつも生死があり、いつも変化している。この無常の変化において、唯一変化しないのが智慧である。≪般若心経≫は我々にこう告げている。観世音菩薩を学び、仏の智慧を持って五蘊皆空を見るなら、生命は物質と精神の五蘊で構成されている事が理解出来る。それは、すべて空であり、自我の中心の煩悩から解脱する事が出来る。

 残念なことに、多くの人が無常を見抜けず、因果がはっきりせず、因縁を認識していないため、多くの執着を生み出してしまうのである。執着によって、不必要な物を欲しがり、その結果、様々な罪悪行為を引き起こしてしまう。また、これらの罪悪行為により、来世で報いを受ける事となる。

  逆に、智慧の有る人は、不必要な物は欲しがらず、欲しい物もわざわざ探そうとせず、たとえ手に入ったとしても、他人に与えたりする。しかも、この範囲の衆生の苦厄から見れば、これは正に智慧から来たもので、慈悲を生む。「利他を持って己を利する」の智慧さえあれば、我々の未来には平和が訪れる。

 

( 二 ) 四要が人心を安定させる

  ≪般若心経≫では、すでに何が正しい人生の価値観であるかを我々に伝えている。しかし、当面の人類は、物質的文明の極端な発展により、社会構造の変化は余りにも速く、人間の価値観念は混乱し、何が本当に必要なのか、何が本当に欲しいものなのか、何が実際の名にふさわしい能力なのか、何が責任を持ってやるべき事なのか、はっきりしていない。なぜならこの「需要」、「想要」、「能要」、「該要」の四要の程度が整理できず、大部分の人は社会の趨勢に従い付和雷同するので、他人が持っている物は、自分も欲しがる。

  しかも現代人は「必要なものはさほど多くはない、欲はあまりにも多い」で、不必要ないものを欲しがったり、さほど必要ないものまで欲しがる。また、欲しいものが手に入らないと、心が不安定になり、社会問題が発生する。

 

1 . 需要と想要

生命と生存は区別できず、生命の目的が確定して初めて、生活に価値が持てるようになる。また、生活の価値は主観的な自己の中心から決まり、また、客観的な社会環境が共に生活の価値を構成している。この価値の中で、最も基本な「需要」な物は、物質と精神の両方を含む我々の生存条件である。物質の生存条件は非常にシンプルで、生活上最も基本的な衣食住の生活空間や環境等であり、これは原始人でも簡単に手にする事が出来たものである。現代社会になり、交通機関、コンピューター、電話等などの現代化施設も、社会大衆の必需品となった。

 「想要」とは必需品以外の余計な需要以外に、心の見栄を満足させる物や、贅沢品・装飾品などである。しかし、異なる状況や身分地位で、適度な厳粛さが必要となるなら、これも一種の「需要」と見なされるが、必ず適切な分別を把握する必要がある。

 精神生存の条件は違ってくる。もし主観的精神の欲求が、自己の生活を更に楽しく、自在に、裕福に、満足させたいというものだったら、これも「需要」である。なぜなら、ある人たちにとって、それが無かったら生活がつまらないと感じるからだ。しかし、実際これは一種の欲望で、心の空虚を満足させるための物であるため、これも利己的な「想要」といえる。なぜなら大きな環境の客観的な立場から言うと、それがなくても、生存でき、生命の価値を発揮することができるからだ。

  生きていく上で本当に必要とするものは決して多くない。主観的立場から言うと、それがないと生命が空虚に感じたり、生きていくのが無意義と感じたりするだけで、これは純粋に個人の価値の判断と言える。だから、ただ「需要」と言っても、定義は非常に曖昧で、「想要」との間に差が有る時は、自分の観点から区別し、同時に全体の客観的な立場で考えなければならない。

  実は、何かを選択する時、よく「需要」と「想要」が混乱し、特に金銭にいたっては、収入が多い時は、自然と不必要な物まで買ってしまう。例えば、靴はまだ穿けるのに、新製品を見てしまうと、時代遅れになるのを恐れて買ってしまう。この時、流行に追いつき、個人生活に対しては絶対に「需要」だと考えてしまう。しかし、経済状況が窮迫している時、流行に追いつかなければという「需要」は感じないはずだ。

 

2 . 能要と該要

 「能要」とは、個人が許す範囲内で、努力によって必要なものを獲得する事であるが、能力不足なら、有能な人に譲り、強要すべきではない。

 我々の一生は、名前、利益、権利、地位、感情等の多くのことが関連し、人を羨ましがられたり渇望を引き起こしたりするが、それを考える時、「自分の能力や払ったものから、実益も名誉も手に入れられるだろうか?」と注意深く考えてみるべきである。すでに、物事は自然に順調に運んでいるか?過多な要求をしていないだろうか?もし、支払いが足りなかったり、能力・因縁が全て備わってないのに、それを手に入れたいと望み、分不相応に要求するようでは、ただ苦痛と傷を増やすだけである。

 「該要」と「不該要」に至っては、若い人の間で言われている「自分さえ良ければいい、何がいけないんだ ! 」という言葉から見ても、該要と不該要の区別が更にはっきりしなくなっている。多くの人の欲望は限りなく、好きな物事と欲しい物事が多過ぎる。この時、「本当に好きなのか?本当に手に入れる必要があるか?」と、自分に問う必要がある。例えば、全ての人は、名誉・地位・財力・権勢を好むが、分不相応は虚名である。分不相応な財産は悪銭で不正な金銭であり、分不相応な地位は虚位であり、これらは全て必要の無いものである。実益も名誉も手に入れられるのなら、自然と受け取っても恥ずかしいとは思わないが、それは一種の激励といえる。

 

3 . 心の環境保護

 我々の日常生活には、本当に必要なものはさほど多くはなく、欲しいものは余りにも非常に多い。「需要」な物は絶対に必要で、「想要」なものは重要ではない。しかしこの入り乱れた社会環境の中で、どのようにこの「四要」がつり合うのか?どのように心の安定が得られるのか?

我々は「心の環境保護」から始めるべきである。一方は、我々の心を環境汚染から守り、環境の「免疫系統」を強め、一方では、環境を更に悪化させないために、嫉妬・怒り・恨み・利己的等の様々な良くない心を持つべきではない。常に自分の心の動きを観察する練習をし、自分の「需要」をはっきりと理解し、個人の欲望である「想要」を無くす。

人生の過程において、この「四要」をはっきりすれば、更に自分の行くべき道がわかり、しかもとても平安に過ごせるだろう。

 

< 普門品 > から、いかに己を助け、他人を助けるか

 

  ≪楞厳経≫ではこう言及する。観世音菩薩は計り知れない災難以前に、修行により耳根円通を得、聞思修より三摩地に入り、その後無我と寂滅の境界に入る。その後、諸仏菩薩の慈悲願力を感じとり、一切の衆生の苦難を同情する。そこで観世音菩薩は広く大願を発し、苦難の声に応じ、あらゆる場で現生の身となり、いつでも人を助ける。≪法華経・普門品≫の叙述と同様、観世音菩薩と念ずるだけで多くの苦しみ、災難から逃れることができ、求めれば必ず叶えられる。これこそ、観世音菩薩の普門示現である。 

≪般若心経≫ではこう言及する。観世音菩薩はこの上ない智慧で人々の生命を観察する。これは、五蘊の和合から成り、一時的で、無常である。常に変化しているため、これは空であり、実際には存在しない。 

しかしながら一般の人が苦難を感じるのは、自我に執着するためだ。執着すると、心と体が苦しみを受け、苦難が絶えないと更に感じてしまう。

  実は、心と体の反応と現象を理解すれば、全ては一時的で、実際にあるものではなく、永久に不変ではなく、苦しみを感じることはなく、結果的に全ての苦難から解脱することが出来る。

 そのため、観世音菩薩の修行は、自利・自度から始まる。最終的に、衆生の利益、大菩薩行、大悲悲行まで拡大し、これは一種の己を助け他人を助ける修行の道と言える。

 

( 一 ) 四感で実践する方法

  日常生活において、いかに実際に己を助け人を助ける修行を実践するか?

「四感」(感化・感動・感謝・感恩)から始めてみよう。

 

1 . 感化 ― 慚愧を知り、常に懺悔する

  多くの人が道理と方法を使って初めて他人を感化できると思っており、いわゆる「教護院」や「教護教育」は、愚劣な人達の感化を望んでいる。しかし、もし教護教育に携わる人が、己に智慧と慈悲が無ければ、自ら手本を示す事は出来ず、他人を感化することは口で言うほど容易ではない。

  古人は「人の災い、知識をひけらかしたがる」と言う。多くの人が他人の師範になりたがるが、もし自分に智慧と慈悲が足りなければ、いかに他人を指導できようか?そこで私は常に自我を励まし、あせって他人を感化しようとは考えず、先ずは仏法の智慧と慈悲で自分を感化・修正することで初めて身をもって範を示す事が出来る。 

己を感化するとは即ち慚愧を知り、常に懺悔するという事である。慚愧は己のした事が余り良くないため、更に良く、更に努力できるよう望むことで、懺悔とは己の間違った点を知り、以後同じ過ちを犯さないように注意することである。私個人からすると、都合の良い時、仏法の智慧と慈悲でもって己を感化し、己を調柔し、己を修正し、己を励ますべきである。私の知る事は多くなく、学ぶには限界があるため、社会のためにより多くの献上・慚愧・懺悔は出来ず、更に努力すべく常に自分に言い聞かせている。同時に、私は無智無徳と自覚し、他人の師範にはなれず、また、弟子に対しても慚愧と懺悔を感じる。 

経典は我々にこう言っている。大乗仏法を修行する菩薩は、第八地以上まで辿り着いて初めて無学となり、小乗の菩薩も羅漢に行って初めて無学とされる。無学とは、学ぶ必要がないということで、懺悔・慚愧も学ぶ必要がない。また、ある人はこう言っている。「菩薩はなぜまだ過失があるか?菩薩は更に慚愧が必要か?」事実上、菩薩は常に慚愧・懺悔をすることで、徐々に精進、清浄、人を感動させる事が出来るのだ。 

しかし、あいにく多くの仏教徒が経典をもって他人を教化・感化し、仏法の標準で他人に要求している。たとえば私がアメリカの東初禅寺に居た時、中国大陸出身の居士がおり、長年に渡って常にそばで私を観察していた。なぜなら彼は中国にいた時、一人の法師から、善知識(徳の高い僧)には十の条件が必要だと言われたからだという。そこで、彼はこの十の条件で私を評価し、あちこち評価をしてはずっと満足しないようであった。後に彼は私が主催した禅七に参加した。禅七の期間、私は彼らにこう告げた。「私はとても慚愧、懺悔し、仏法でのみ己を感化し、人を感化することは出来ない。私は己を感化することによって己を励ましているのだ。」彼はこれを聞いて非常に震撼し、益を受け、私に懺悔した。その後、彼の標準で人を評価する事は無くなった。 

仏法は我々の修行を助けるもので、人を評価するのもではない。惜しくも多くの人が仏法で人を評価するばかりではなく、世の中の道徳標準で人にすがり、また、自ら手本を示す事もできない。このように仏法で自らを助ける事も出来ないのに、どう他人に有益をもたらせようか?

 

2 . 感動 ― 人に対する智慧と慈悲 

 ある人は家庭がうまくいかないことに不平をこぼし、思い通りにいかないと満足できない。或いは、社会に混乱を感じ、心は安定しない。他人が良くなってこそ、己は安全で、他人が真面目で責任を持ってこそ、己は幸せになるといつも思っている。ただ他人が良ければ、自分も福報があると思っている。しかし自我の要求を忘れ、己が他人の願に満たされたかどうか反省してみよう。

  仏法が我々に注意していることは、修行は自ら始めるべきで、自ら仏法を学ぶ事によって、学んだ慈愛と智慧で他人を感動させる事が出来る。他人に要求することではなく、これこそ最も信頼できるということだ。智慧とは決して聡明で怜悧で反応が早い、或いは多くの知識や学問を習得しているという事ではない。仏法が言う智慧とは、困惑を煩悩と受け止めず、其れが煩悩かも知らず、たとえ逆境にあったとしても、気楽で心が落ち着けるということだ。

 私は常にこう言っている。「智慧で物事を処理し、慈悲を持って他人に接するべき。」例えば、最近学内で起こった殺人事件は、二人の女子生徒が一人の男性をめぐって起こった悲劇である。その中で、被害者も加害者も、また男子学生も皆被害者といえる。なぜなら彼らは幼い頃から仏法の智慧と慈悲教育を受けておらず、仏法の正しい知識と見解が無いまま今に至った。彼らの問題は社会全体の問題として反映されている。一人の人間が罪を犯すことで、社会に不安をもたらす。仏法の観点に立つと、これは我々共通の業力が形成したもので、全ての人にそれぞれ責任がある。そこで我々は、慈悲心を持って彼らに接する必要がある。しかし、一時的な感情で衝動的にならないように、全ての不公平は将来の遺憾をもたらさないように、物事を処理する時、智慧を持って判断し、感情で物事に取り組んではならない。 

この世界は仏法が必要である。己で仏法を実践する事が最も信頼できる方法で、人々に実行を望むのは容易ではない。もし全ての人が智慧を持って物事を処理し、慈悲を持って人に接することができるなら、自然と他人を感動させる力量を生み出す事が出来るはずである。

 

3 . 感謝 ― 順逆の因縁は皆恩人

  感謝の心でもって、順縁と逆縁の二つの縁を受け入れなければならない。多くの人は、自分に有利な人にだけ感謝し、彼らを貴人とみなす。しかし逆境で我々の成長を励ます人も貴人であり、彼らに対しても感謝すべきである。事実、我々が会う人、見る全ての人を貴人、恩人、我々に有利な人達とみなすべきである。この様にすれば、心は常に平安を保つ事が出来る。

 私が日本への留学の準備をしている時、台湾仏教界で反対の声が上がった。「彼を日本に行かせてはならない。日本に行けば還俗するだろう。彼の留学に賛成するのなら、それは一人の法師を送り出し還俗させる事と同じである。」もともと、マレーシアの華僑が、私の留学資金の全額を援助してくれるという話であったが、皆の反対を目にし、賛助の話を取りやめた。当時、皆の反対を受けて非常に辛かったが、私は考えを一転し、心でこう思った。「皆が私を信用しないというのでもよし。私は絶対に還俗しないと彼らに見せよう!」日本では、生活が窮迫していた為、時間を無駄なく使った。一日を数日と思い、一の金を十と思ったことで、勉強も他の人よりも早かった。皆の反対のおかげで、都合よく勉強も早く終わった。今思えば、この事は私の自信と心願の堅固に対して、大きな助けであったと言うことができる。もしこれらの逆縁が無ければ、私の意志力は鍛えられてなかったはずだ。

  この他に、私の師である東初老人は、私の最大の恩恵に対し、経済的援助ではなく、養蜂式の教育方式で私を教育してくれた。養蜂場の人は蜜蜂を花のあるところへ連れて行き、自分で蜜を取りに行かせ、蜜蜂は自分で取った蜜を自分で食べ、余ったものは他人に提供して食べさせる。私の師はこの種の方法で弟子を教育し、しかも私にこう言った。「多くの人はカナリア方式で子や孫を教育するが、これでは決して子孫は良くならない。なぜならカナリアは毎日美味しい餌を与え、いつも世話をしなければない。それでは他人が必要なものは生み出せないからだ。」師の取った教育方式によって、一人で問題に向き合う能力が鍛えられた。更にどんな問題に遭遇しても、私はそれに向き合い、受け取り、処理し、手放す原則で、智慧を使って物事を処理し、慈悲を持って人に対応し、処理後は手放することで、心に懸念はなくなる。このように逆縁は私にとって、困惑でなく、感謝に値する因縁である。

 

4 . 感恩 ― 奉献返礼報いを求めない

 観世音菩薩は五蘊を皆空と見、一切の苦厄も解決する事ができた。しかし、観世音菩薩は様々な形相と身分をもち、十方世界に来て、衆生の苦難を解決した。これは観世音菩薩の慈悲によるもので、その慈悲の心は感恩の心から来る。

 仏法の恩恵を受ける全ての人は、必ず感恩報謝の心を持ち、三宝の恩徳に感謝する。しかし、三宝はとても抽象的で、例えば仏恩報謝で、仏は智慧と慈悲を我々に与える。しかし仏の化身はすでに存在せず、仏恩報謝したくても、すでに機会は無い。そこで、衆生に転じて献上、救済し、仏の恩恵に答えるのである。例えば観世音菩薩が仏から仏法を学んだ後、その法を全衆生に広めた。これは己が衆生に対して恩恵を施すのではなく、感恩のため衆生に広めるのである。

  三宝の恩以外、人に助けられた時は、感恩報謝をし、返報の心を持つべきである。そこで、我々は国の恩・父母の恩・師の恩に報いる必要がある。これは即ち仏教徒の言う「四恩に報い奉る」である。適時に報恩し、報恩の時を待たず。さもなくば、気付けば既に機会はなく、しかも「子が親孝行をしたくとも、時すでに遅し」の遺憾である。

 常にどこにおいても心に感恩を貯め、財力・体力・知力・心力で一切の奉仕をする。奉仕する際は、礼儀正しい態度で接する。しかし、喜捨心を持って差し出すのではない。さもなくば、自分は施恩者だと思い込み、威張った態度になり、沢山の功徳をしたと思いこみ、しかも、相手の返報を期待するようになる。これを慚愧知らずと言う。逆に、布施や服務を受け入れる人は、相手を恩人と見なし、その人の恩恵に感謝する。それは、お互いに奉献・供養・感恩・報恩の心を持っており、一方は感恩の心で献上し、もう一方は感恩の心で受け入れるのである。

 多くの人が言う献上とは、実は心で投資計算をしており、今日はこれを与えたので、明日は何か見返りがあると考えている。事実、これは利益の交換で、報恩でも献上でもない。献上とは本当に条件がないのである。

 

( 二 ) 大願心を持ち衆生を救済する

 一般的に人は苦難を嫌い、苦難から逃れ、結局、いつも苦難に悩まされている。菩薩は困難も苦難も逃れず、厳しい苦難に入り込み、苦難の衆生を助ける。これが観世音菩薩の精神である。

  発心する菩薩は、他人のために利益をはかることで自分の利益とし、他人の利益を目的とする。自分に有益かどうかは考えず、これも観世音菩薩の法門である。

 「四感」とは、己を感化させ、他人を感動させ、順縁・逆縁に感謝し、献上に感恩することである。観世音菩薩の慈悲心を学び、大きな願心を持つことで、このように苦難に耐え抜き、苦難を苦難と見なさず、同時に苦難の中で苦難が救済できる。これは自他を利し、自他を助ける菩薩の精神である。

 

< 大悲呪 > から、いかに福を祈り福を得るか

 

( 一 ) 現代社会の三つの危機

現代社会は、迅速な変化により、様々な危機が潜んでいる。総括すると以下の三点が挙げられる。

 

1 . 激しい競争、安全感の欠乏

  ビジネス社会において、人との間には、お互い事あらば助け合う精神が不足しているばかりでなく、互いに敵対意識を持っている。その為、人間関係には常に極度の不安全感が存在し、「マーケットは戦場、同業者は敵」とまで言われ、争いは避けられないようだ。

 しかし社会の進歩によって、文明は絶え間なく新しいものを作り出している。その多くは人と自然の、また、人と人の争いの結果である。そこで、ビジネスにおいては競争を重んじ、悪い事でもない様に見える。ただうまく処理しないと、味方同士の殺し合いになってしまう。

 

2 . 功利主義、人間関係の疎遠

  現代社会は功利主義の社会である。いわゆる功利主義というのは、人々が行う一切が、全て利益と成功を目標とするということである。利益や成功を追求するため、手段を選ばず、人々はお互い疑い、衝突し、互いの密接な一体感が欠けてしまう。猜疑によって矛盾が生まれ、矛盾によって衝突が生まれ、衝突によって疎外感が生まれ、最終的には仲たがいし、内部の争いにまで発展する。

 

3 . 利己的にいろいろ気にする、道徳喪失

 現代社会は物が豊富な社会でもあり、皆、物に対する要求のため、互いに争い、自己中心的で、他人を排斥する方法を取る。人間関係は徐々に緊張し、冷めていく。困っている人を見ると、助けようと思う道徳心が不十分で、同情心も同理(同じ道理)心もすっかり消えてしまう。

 

( 二 ) 先ず観念から改善する

  この三種類の趨勢に対し、もし徹底して観念上から改善を始めなければ、社会問題は次々と現れ、永遠に平和な日は訪れない。

 最近、世界各地で天災人災は後を絶たず、有識者は皆このことに関心を持ち、速やかな解決方法を考える。宗教徒の立場に立つと、信仰上の祈願以外に、人々に意識の適切な調整をする助けをすべきである。

  仏教で言う、読経礼拝も法要を行うことも当然意味のあることで、「祝福します」という一言で、祝福を生み出すことができる。厳かな儀式で祝福するのはなおさらである。しかし、心態が正しくなければ、間違った観念を変えられず、ただ祈福の法要だけ参加して、菩薩のご加護を感じ、少しの安全感と安慰感と、一時の心の平静を感じるが、この種の感覚は恐らく長くは続かないだろう。

  結局、意識から修正をする方法が最も良く、間違った考え方や行為を改善し、己のために努力し、他人のために功徳を積む。このように心から祝福の誠意を示せば、我々の社会にも家庭にも本当の平安が訪れる。

 

( 三 )< 大悲呪 > の大悲法門

 観世音菩薩の法門こそ、観世音菩薩自身が修行し、悟りを開いた方法である。 < 大悲呪 > は観世音菩薩がきわめて長い歳月を費やして修得した全ての功徳を集めたものであり、すなわち < 大悲呪 > を読誦する事は観世音菩薩の長い歳月を費やして修得した功徳を持つ事と等しく、この力は非常に大きい。

 しかし、観世音菩薩は < 大悲心陀羅尼経 > でこう我々に告げている。 < 大悲呪 > を読誦する際、まず衆生に対して慈悲心を持つべきである。そこで観世音菩薩の助けを得れば、観世音菩薩の慈悲願力を仰ぐ以外に、我々に平和と力量を与えてくれる。更に観世音菩薩を学びたいなら、先ず無上の慈悲心を発起し、「無縁大慈、同体大悲」で、全ての衆生が苦を離れ楽が得られると良い。衆生の利益の為に、一切の功徳を成し遂げる、これが大悲観世音菩薩の修行法門である。

 「無縁」とは決まった対象は無い事を指す。なぜなら、特定の対象は無く、観世音菩薩の慈悲救済は永遠に至る所にあるからだ。特定の助ける衆生がいなくとも、常に全ての衆生を解決し、平等で親疎を区別しない。

 「同体」とは全ての衆生はみな生命共同体であり、人と人との間は無関係ではないということである。中国の儒家の言う「老吾老以及人之老、幼吾幼以及人之幼 ( 自分の親同様、全ての年配者を敬う、自分の子供と同様、全ての子を可愛がる ) 」や「人飢己飢、人溺己溺 ( 人が飢えれば己も飢え、人が溺れれば己も溺れる ) 」の思想は、即ち同体的な大悲心である。  

一人が唱える < 大悲呪 > の功徳はとても大きく、共修が唱える < 大悲呪 > の功徳は更に大きい。なぜなら、人と人の間の声は互いに通い合っているため、共修の際、全ての修行者の功徳の累積を得る事が出来る。修行の功徳は共に享受するからには、悪い事をした結果も共に分担するのである。だから悪人だけが地獄に落ちるという考えを持たなければ、社会はこんなにも乱れはしない。反対に、この人達がしたことを反省すべきである。これは、我々が全く責任も正しい観念も持たないため、各家庭、各個人の心理にまで広がってしまったのである。

 

( 四 ) 四種の祈福方法

 生命共同体の一員としての責任を果たすべく、我々は更に一歩進んだ祈福観念と行為を具体的に生活の中で実行するべきである。祈福方法は下記の四種ある。

 

1. 知福(福を知る) ― 知足常楽 ( 足るを知るものは常に幸福である ) ・安貧楽道 ( 貧に安じて自らの信じる道を楽しむ )

  自分に福報があると知ることがとても重要である。この世で人間は少なくとも呼吸をして生きている。呼吸とは、一切の希望を擁することと等しく、人生はすべての可能性を満たしている。そのため呼吸は非常に貴重といえる。俗に言う、「木の生えている山があるかぎり、薪の心配はない(命の綱が切れないかぎり、将来の望みは持てる)」である。福を知れば、こう言うべきだ。「私はまだ呼吸をしていて、当然満足である。」 

しかし多くの人は己の命の大切さが分からず、これこそ自分の福報だと理解していない。特に、現在の台湾社会は衣食の生活に満ち足りているが、多くの人は福の中にいて福を知らず。他人の福を見て、相手がどのように努力して得たかは考えず、自分も同様に手にしたいと望み、ひいては目的を達するために手段を選ばず、人を傷付け己も傷ついてしまう。我々が福を知ることが出来れば、満足出来るし、満足できれば常に楽しい。ただ満足とは決して何も必要でないということではなく、かえって「多くもよい、少なくもよい、皆が大いに喜べばいい」こそが本当の満足といえる。 

以前、ある人がこう言った。彼は、「家を持っていないから」、世界で一番貧乏だと。また、憤慨しながらこう言った。「この社会はとても不公平だ。私は一生かけて努力しているのに、自分の家すらない」と。私は彼に告げた。「家を所有することも一種の負担であり、面倒である」。家を持つ人は、家の管理も必要だし、毎日家の事でいろいろ考えなければならない。特に、多くの住宅の所有者は、ある時は、この家の修理だとか、ある時は、あの家のリフォームだとか、毎日家の事で忙しくしている。多くの家に住めないのなら、さらに他人に貸すという方法も考えなければならない。私は彼にこう勧告した。「家が無い事は、かえってとても楽しいことだ。行きたいと思えば、どこにでも行ける。だから、家を持っていなくても、悪くはない。」 

出家した人にとって、「出家とは家が無く、至る所が家となる。」自分の家が無いので、至る所が家であり、なんて気楽なのだろう。

 

2 . 惜福(福を惜しむ) ― 珍惜擁有(所有を大切にする)・感恩図報(恩に感じそれに報いる) 

我々は呼吸以外に、沢山のものを持っている。例えば、生命や財物等を始め、人間関係や人付き合いも我々が持つものである。

 ある人は事業で思うように出世できず、何の金財もないが、彼の人柄は気高く、人に優しい。これも、財産が多い人だと言える。なぜなら、人格の財産は有形の財産より、更に役立ち、大切なものだからだ。

 惜福とは、我々が持つすべての物(自然の資源・社会の資源等すべての資源を含む)を大切にすること。大切にし、浪費せず、粗末にしない。特に自分の体を粗末にせず、名誉や品格、ひいては理念や理想を傷つけず、さらに一歩進んで、幸福になってもその根源を忘れず、恩に感じてそれに報いる。これこそが、惜福である。 

法鼓山が推進する惜福運動とは、必要なくともまだ使える物を持ち寄り、他の人と分かち合い、それをゴミに変えないこと。同時に大衆に質素な節約生活を勧め、必要のない物はなるべく買わないようにする。多くの人は精神が不十分で、心が寂しいために、絶えず買い物をしているが、これはとても愚かだと言える。内の心が充実していないため、家の中には無用な物ばかりで、頭の中は空っぽで思想に欠けている。精神はまだ成熟していないので、心も同様に寂しく、不十分である。

 

3 . 植福(福を植える) ― 成長自己(自己の成長)・広種福田(広く福田に種をまく=喜捨)

  釈迦牟尼は我々にこう告げている。人間がこの世界に来るのは、無上の福を受けるためであり、誰でも自分の福田に種をまく(喜捨)ことができる。例えば、自分の家族や友達、社会で貧しく人の助けが必要な人、社会や国家の利益と一切の衆生の幸福、すべては我々の幸福をうけるべき下地である。有る人は非常にけちで、知識や学問があるにもかかわらず、人に伝授しようとせず、人と分かち合うことを惜しむ。自己の財産を、社会に利益を与えるとか、社会に返すこともしたがらない。このような利己的な者が最も貧しく、たとえ彼が最も裕福だとしても、一人の貧乏人といえる。彼は福田に種をまくと言う事が分からないからである。この話は、例えば、ある人がたくさんの種を持っているが、耕して植える方法を知らず、種を砂漠の中に植えてしまい、発芽しないだけでなく、逆にもともと食べる事の出来る種を廃棄物に変えてしまうようなことだ。

 いつでもどこでも福を植えることを知っている人は、福の有る人である。福を植える為に、かならず努力して自分を成長させ、知識・人格・智慧及び技能各方面を高めることで、さらに多くの資源で福を植えることが出来る。

 

4 . 培福(福を培う) ― 享福非福(福を享受するは福ならず)、培福有福(福を培うは福なり)

 大多数の人は、幸せを享受することを好み、老後は、老いの幸せを享受したいと思っている。例えば、子供が親孝行で、子供の福を享受したり、妻が賢く優しく、妻の福を享受したり、夫が信頼でき、夫の福を享受したいと思っている。一般人は、福があるのに享受しない人はおかしいと思っているが、全ての個人の福報には限りがある。そのため、福を享受する人は、本当に福を持っているということではない。広く福田に種をまき(喜捨)、福を培うのが好きな人こそ、本当に福報のある人間である。

  福を培うとは、今生得た福報のように、田に福を植えることであり、それによって、さらに多くの福を育てることができる。もし全世界・全宇宙のすべての衆生が、福を培う対象になり、絶え間なく福を培えば、それは大きな福報のある人間となり、最後は仏と同様、福徳円満となる。

 

( 五 ) 大衆によって福をもたらす良田ができる

  もし「四福」(知福、惜福、種福、培福)を実践し、他人を祝福できるなら、これこそ大きな福報のある人間である。法鼓山は現在、人品を磨くことに努力しており、この世に浄土を建設している。これはすなわち幸福をもたらす仕事である。すべての皆様が幸せでありますように。

 

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