禅修と信仰

 

通常、禅修に興味を持っていても、宗教レベルの信仰心まで持つことは難しいようです。信仰自身は、感性に属し、禅修者は、自分の修行を重視し、修行によって心身の反応や、禅修経験の体得を求めるため、宗教レベルの信仰を受け入れる事は、容易ではありません。実はこれは絶対的に間違っています。

多くの人は、禅修は全て「自力」に頼り、念仏を唱える人は全て「他力」に頼るべきだと考えていますが、二つの観念とも間違っています。実は、禅修も「他力」に頼る必要があり、念仏を唱える際も「自力」に頼る必要があります。一人の禅修者が、自分の力量だけで完成させることはほぼ不可能です。インド・中国・チベットに限らず、禅修者は、老師・護法神・諸仏菩薩の護持が必要です。そのため、中国の禅宗寺院も天龍八部や諸大天王等の護法神像を祭っています。

かつて、古徳は禅修者に、常に「身体は寺院に託し、生命は龍天に与える」よう勧めました。座禅を組んでいる間は、執事が寺院の生活規範に合わせて、皆に注意を払っているので、自分の体の心配はいりません。また、護法龍天の護持がなければ、心身に障害が出たり、仏道の修行を妨げる魔障が現れたりするため、さらに修行がしたければ、護法龍天の護持が必要です。そこで、禅修では、自分の力以外に、仏菩薩と護法神の力量を信じなければ、仏法の修行をしているとはいえないのです。

また、禅修者は、一生懸命座禅に取り組む以外に、功徳を積む必要があります。座禅を組むだけで、解脱とか悟りが開けるとか考えますが、この考え自身が一種の障害であり、これでは本当に解脱は無理です。利己的な者は、どのように悟りを開くのでしょう?そこで、禅宗も布施と懺悔の修行を強調します。衆生への利益が考慮出来なければ、他人に対する奉献の心がありません。奉献の供養と布施行為がなければ、修行を成功させたくても、非常に困難です。

かつて、禅宗の大寺院において、多くの禅師達が悟りを開く前は、皆、寺院と師父の為に「労力の仕事(厨房内の水汲み、薪割り、料理、野菜栽培、寺院を維持する掃除整理、維持等の仕事)」を行って来ました。

そこで、伝統的な寺院には、出家修行者が担当する 48 の仕事があります。僧徒は、禅七の間は、比較的複雑で気が散る仕事は担当しませんが、他の時間は、長期に亘る仕事が与えられます。そのため、法鼓山でも禅七中は、禅修者は、比較的簡単な仕事に取り組んでいます。

同時に、禅宗の大寺院では、余計な金銭や衣服や身の回り品を、必要な人に布施します。自分に残すのは、わずかな衣服と身の回り品だけです。「禅和子(修業僧)」が得る物は全て布施に出したため、かつて、彼らの所持品は僅かに「1キロ半」でした。

そこで、禅修者は、供養心と布施心を持ち、自分の身の回りの役立つものを、必要な人に与える気持ちを持たなければならないという事がわかります。 残念ながら、現在見かける多くの禅修者は、非常に傲慢で、内心は利己的で度量が狭く、信仰心に欠けています。これではとても可哀想ですし、とても危険な事です。禅修に来る人は、皆、心身の実際の体験を望み、安定・快楽・健康的な効果を求めますが、一旦、それを手に入れてしまうと、諸菩薩の感応・寺院内の護法神・師父や老師の指導のおかげなのに、自分の修行の努力で得た成果だと思ってしまうのです。こうなると、傲慢で自己満足となり、信仰心と恭敬心がなくなってしまうのです。

信仰の意味は、自分には出来ない事とわからない事がありますが、ある種の事実の存在を信じる事です。いわゆる「高山仰止、景行行止、雖不能至、心向往之 ( そびえ立つ山を尊敬するように賢人の高貴な振舞いを尊敬する。達成不能に見えても、心であこがれる。)」であり、これは例えば、非常に高い山を見て、自分の力で頂上まで行った事がないのに、高山の上にはきっと能力の優れた人がいて、いい景色があり、高く登れば登るほど、私達が今までに見た事がない物が発見出来ると信じる事で、これこそ信を「仰」ぐです。私達は、低い場所から高い場所を敬慕し、敬慕の念以外に、自信も生まれ、その中にはきっと未知の力量に助けられていると信じます。もしも信仰心に欠けるなら、仏法の内容も未知のことも信じられず、修行も役に立ちません。

禅宗は自信を主張し、自分の成仏の可能性を信じ、自分は元々諸仏と同一で、何も欠ける物は無いと信じています。禅宗では、自己中心を手放しさえすれば、すぐに自分の目で自己の本来の姿を確かめ、人々は皆成仏出来ると言います。本来の姿とは、自性の仏であり、修行後のみ得られる物でありません。そのため、多くの人が禅宗を誤解し、信仰の重要性を見落としています。

この観念は、基本理論でいえば正しいです。しかし、実践と現実の角度から見るとそれは間違っています。例えば、人々は皆親になる可能性がありますが、生まれたばかりの子供こそ、親なのでしょうか?子供は未熟なただの赤ちゃんなので、もちろん親ではありません。だったら、この赤ちゃんは将来親になる可能性はないのでしょうか?人によって状況は違います。子供の頃に出家した人や、結婚しても生殖能力がない人なら、親になることはないでしょう。ですから、理論上では皆親になれますが、実際には全員が親になるとは限らないのです。

また、民主社会において、全ての人は公民であり、皆が選挙権も被選挙権も持っています。しかし、絶対多数の人は、選挙権のみで、能力不足や縁がないなどの理由で、被選挙の機会がありません。禅宗の説く「人は皆、仏性を持つ」を聞き、自分は智慧円満な諸仏と同等であると言う人がいますが、そのような人自身、何も出来なかったり、単なる愚か者です。例えば、そのような人は、仏像を見ても、拝んだりせず、罵ったり、現在の仏は過去の仏を拝んだりしないと言ったり、自分の中だけに仏がいると思ったり、泥人形、彩色画、木彫りの仏像を否定したりします。

この人達は、自分の心こそが仏で、心以外の仏は信じないのです。もしも他の人が拝んでいるのを見たら、それこそ、「執着」だと言います。ある人が、出家した師父に向かって頂礼するのを見て、独りよがりな禅修者は、首を振ってため息をつきながらこう言いました。「仏に拝む必要はありません。ましてや、僧に向かって拝むとは。」

ある日、ある人が私に向かって頂礼をした時、一人の居士がすかさずこう言いました。「法師に拝んではいけません!法師を害さないように!」拝まれることで害を受ける?私は全然理解が出来ず、聞いてみました。「どんな意味ですか?私は何を害したのですか?」彼は答えました。「貴方が本当に開悟した高僧だとしたら、誰かに拝まれる必要があるのですか?貴方がまだ誰かに拝んでもらう必要があれば、それは貴方の心の中には執着があるという意味です。人が拝めば拝むほど、貴方はさらに自分は偉いと思うでしょう。だったら、この人生は、解脱も開悟も得られると思わないで下さい。」あ、それも一理あります。彼は続けてこう言いました。「もし貴方が確かに解脱し、貴方に拝む人がいれば、その人を責めるべきです。「相」にこだわらないで下さい。我相・人相・衆生相・寿者相はありませんし、もちろん、師父相も従弟相もありません。だったら、何に拝むのですか!」わあ、この居士は本当にすごい。彼にこう聞きました。「貴方は仏を拝みますか?」彼はこう答えました。「私は自分の心にある仏を拝みます。」私は聞きました。「どのように拝むのですか?」彼は答えました。「私は体で拝むのではなく、心を使って拝むのです。」私は聞きました。「心でどう拝むのですか?」彼は答えました。「心が自在を得ること、そして、心に障害が無いのが、すなわち拝むことです。」彼の意味は、仏菩薩を拝む必要は無く、自分を信じる以外、他は一切信じないということです。

実は、これは仏教でも禅宗でもなく、一種の傲慢な魔の見解で、信仰心に欠けています。このような人はほんの少しだけ禅修の経験があるので、この種の自信を持ち、また、ちょっと似て異なる禅書を読んで、間違った見解を持っています。彼らは生きている間に、自分は既に解脱したと考えますが、一旦死亡すると、福報があれば天国に行きますが、正しい知識と視点を持たず、三宝を信じないので、それから地獄に落ちることになります。心がゆがんでいたり、教えを保たず、常に悪いことをしていれば、矢の如く地獄に落ちるでしょう。

そこで、禅宗祖師達は今でも、天国・地獄・仏国・娑婆の存在を信じています。熱心に精進し、禅修の技量が非常に高く、しかし心に何か執着が残る人に対してだけは、こう言います。「仏・法・僧・天国・地獄、全てありません」。なぜなら、もしも心が三宝、天国、地獄に執着していれば、必然と解脱できないからです。禅修の初心者は、必ず因果を明らかにし、一般人と聖賢の違いをはっきりとさせなければなりません。さもなければ、口では執着しないように言っても、結果は因果転倒となったり、一般人が聖賢の振りをしたりします。結果、一般人は一般人で、自分を三世諸仏と考えてはなりません。全ては、相手に対等に振舞う古仏の再来なのです。

禅の修業は、ただ座禅を組む事でも、大声を出すことでもなく、ただ悟りを開き、三世諸仏と平等に論を求めるのです。禅法を発揚し、同時に信仰を提唱すれば、個人の修行は更に容易に役に立ち、人格は更に立派になります。また、禅法は、必ず「我執」を取り除く必要があります。「我執」を取り除くことは、必ず起信・布施・持戒から始めます。慙愧・謙虚・感恩・懺悔心でもって我執を払い、三宝・諸仏菩薩・護法龍天・歴代祖師・修行指導老師を信じなければなりません。さもなければ、禅の法門の知識が浅く、仏を拝まず、法を尊ばず、僧を敬わず、護法諸天を信じません。このように傲慢であれば、根本的に悟りを開き本質を見る可能性すら考えません。

 

Print

按此可放大網頁?容, 重複按可無限放大按此回復標準網頁大小

E-mail | Map | Home |

®2006財団法人聖厳教育基金会
No.56, Sec. 2, Jen-Ai Road, Taipei , Taiwan (Post Code: 10056)
TEL:886-2-2397-9300 FAX:886-2-2393-5610 結縁書サービス専用:886-2-2397-5156