| いかに人生の苦境を乗り越えるか |
生命尊重・未来迎合 最近、軍隊や社会において、自殺の気風がありますが、この現象は大変深刻で、非常にマイナスです。インターネットのサイトで集団自殺を呼びかける人達もいますが、彼らは特別な原因もなく、非常に間違った観念を持っています。 冗談で、「死んだ方がマシだ!」と言う人もいます。このような言葉は軽々しく言ってはいけません。生死とは重要な事なので、冗談でも言わないで下さい。 他にも、激怒する両親が子供に向かって、「早く死ね!」と怒鳴る人もいます。子供の頃、この種の言葉を聞いた人も多いでしょう。これは、周りの気風や習慣から出てきた口癖ですが、もし本当に子供が死んだら、両親はもちろん泣くでしょう。しかし、人々は、子供の頃から両親にこう言われてきたので、大人になって挫折にぶつかった時、「死んだ方がマシだ!」と本当に思ってしまうのではないでしょうか。 現在の社会は非常に混乱し、倫理は秩序を失い、政治が混乱していると多くの人は感じています。また、メディアは生臭い事件を大げさに扱い、人々の価値観を混乱させています。このような社会において、特に若者は、何かに迷った時や挫折した時に、どうやって生きていくか、わからなくなります。 そこで、皆さんに呼びかけたいことが 3 つあります。 正確でない観念は、不健康な人生をもたらす。 正常でない風俗習慣は、混乱した生命の品質をもたらす。 理性のない生活態度は、責任を負わない生命現象である。
( 一 ) 生命の責任 生命の責任とは何でしょう?普通の人は、自分の命は自分で支配できると思っています。そのため、基本的な人権は、各個人の自由を尊重すると主張する人もいます。しかし、生きていく自由の中に、自殺の自由もあるのでしょうか?「自殺とは、個人の自由ですか?」これは議論の余地がある問題です。 また、自分にはこの命と身体以外何もないので、この命を使って何をしてもいいと思う人も多いです。しかし、このような観念も問題です! 感覚的には、生命は個人の私有財産で、自分の考えで決め、自分で管理をし、自分で都合よく処理出来るように感じます。しかし、実は、いかなる個人の命も家庭、社会、国家、人類の公有の財産なのです。なぜなら、母親が身篭ってから、誕生し、慈しみ育てられ、教育を受け、成長し、結婚し、子供を生み、仕事をし、更には病気で死ぬまでに受けた衣食住や交通、管理、教育、養育、防衛などは、全て、公私、新旧、有無形の数々の恩恵から来ているからです。そこで、我々は、家庭と全人類に対して責任があり、全力を尽くして奉献する義務があります。 では、なぜ多くの人が自殺前に、自分の過ちをとがめる内容で遺書を書き、家族、親、友人に合わせる顔がないと表現するのでしょう。そう考えているのなら、それこそ自殺はするべきではありません。自殺とは、責任を負わず、きわめて利己的な行為で、更には気の弱い幼稚な行為です。
( 二 ) 生命の目的 実は、生命とは生活の連続で、全ての人は生まれた後、生き抜く過程こそが目的です。寿命とは関係なく、自分の命を大切にし、無駄にしてはなりません。生きる過程がどんなに苦痛に満ちていようが、絶対に生き続けなければなりません。 生命の方向は、「達則兼濟天下、窮則獨善其身(窮乏の時は我が身だけを善くし、出世すれば天下の人々をも善くする)」であるべきで、自分と他人に災いをもたらさず、他人に損を与えず、幾度と奉献し他人の利益をはかります。これこそ身を持する基本方針といえます。 現在の台湾社会では、多くの人が、名望、権利、財産、地位、気勢を人生の努力の方向とし、愛情、享楽、安逸、不労所得、人への見せつけ、そして、多くの事業、高い肩書き、高貴な身分を人生の目標としています。しかし、欧米の社会においては、仕事の善し悪しの区別は認められておらず、個人の趣味、能力、チャンス次第であり、これこそ最高の目標といえます。 人の一生、子供から年老いるまでの過程において、自分が何をするかしないかを決めるのは、本当に容易ではありません。例えば、兵役中、私よりも優れていると限らない兵士の方が、官位の昇級は速く、私には順番は回ってきませんでした。また、子供の頃、私は学校の勉強は一番出来たのですが、テストの時には一度も一番を取ったことがありませんでした。 現在、多くの人は、私がとても成功していると思っているようですが、 60 歳前には、ほとんどの人が私の事を知りませんでした。 60 歳を過ぎてから、少しずつ知名度が上がってきたのです。私はいつもこう思っています。もしも私の寿命が 60 歳に満たなかったとしたら、聖厳法師を知る人はあまりいなかったでしょう。比較的長く生き、晩年になってから、やっと国家と社会に貢献ができる機会を持ちました。一般人にとって、 60 歳とは定年退職の年齢で、悠々自適に暮らす準備をする時です。しかし、私は出家して和尚になった身分なので、 60 歳を過ぎてもまだ出来ることはあります。これは異なる生命の過程でありますが、これこそが私の生命の目標なのでしょうか? 例えば、私には今、法鼓山という仏教団体があります。この団体こそが私の最終目標なのでしょうか?いいえ違います。私の目的は、現在も未来も和尚を続けると言うことで、いわゆる「做一日和尚、撞一日鐘(一日和尚をし、一日鐘を撞く)」です。 この言葉は、現在の身分によって、職責範囲を行うべきということで、しっかりと行った後は、自然に未来が開けるという意味です。もしも現在しっかりと着実に取り組まず、高望みばかりし、早く目標をつかむことばかり考えるなら、実現は容易ではありません。一つの例を挙げてみましょう。皆さんが車を運転中、目の前の道路の状況に注意せず、あれこれくだらないことや、目的地の事ばかり考えていたら、車はどこに行ってしまうでしょう?これは非常に危険なことで、道を間違えたり事故に遭う可能性大です。 生命の過程である以上は、生命の目的です。そこで、我々は、生命の過程の全段階を捉え、何事も学習と充実を念頭に取り組み、少しずつ目的を達成させれば、少しずつ前に進む事が出来ます。
( 三 ) 生命の意義 人の生命とは、一体どんな意義があるのでしょう?第一に、人の生命とは、動物の生命とは等しくなく、人には善悪を見分ける能力、倫理道徳の観念、学習創造の知恵、社会歴史の責任、過ちを改めたり反省更生する適応性を持っています。 以前、ある医師が私に会いに来ました。彼は素晴らしいお医者さんで、ある時には自分の善悪を疑い、自分が嫉妬、貪欲、怨恨、疑念の心を持っていると、常に反省しています。但し、これらは心の中で考えていることで、他人の前では表しません。私は彼に言いました。普通の人にとってこれはとても正常なことです。しかし、称賛すべき事は、貴方はそれをわかっていて、反省している点です。 人が人であるのは、検討、反省、自分の正し方を知っているためです。また、反省を知っているので、生命の意義が明らかです。 第二に、人の生命は、物の価値で評価することはできず、生命の意義とは人によって異なります。中国の古人は、かつてこう述べていました。「生命は羽毛のごとく軽く、泰山のごとく重く、見方によって変化するなり。決して身分の善し悪しで生命の意義を決めるべからず。」 ある人がとても着実に、自在に、満足に、楽しい生活を送っていたら、貧富とは関係なく、それはとても意義のあることです。もしも、マイナスな事ばかり考え、浮かない顔をし、安全感がなく、永遠に満足せず、心身が不安定で、精神が空虚な生活を送っているとすれば、たとえ大勢に巻かれようと、高価な物を身に着けようと、一国の君主だろうと、天下第一だろうと、それは、意義の無い人生だといえます。 第三に、仏教の観念から、人の生命には二つの大きな任務があります。一つ目は、前世の債務の返済をすることで、二つ目は、前世の願を果たすことです。仏法では、我々の生命は永遠に続くもので、無数の前世と無限の来世があり、現世は、続く生命の中の一瞬の段階だと信じられています。人の生命は最も貴いもので、返済とお礼参りが多ければ多いほど、生命の意義も価値もますます高まります。返済もお礼参りも望まないのなら、生命の未来はますます暗く、苦難に満ちます。
( 四 ) いかに浮き沈みのある人生の過程に向き合うか 人生の浮き沈みや挫折に直面した時、以下の七つの方法を参考にしてみてください。 一、 最悪の予想でもって、最高の準備をする。 二、 何事も正面から読み解き、遡って思考する。 三、 常に着実に、用心深く行動し、方向をはっきりと認識し、全力で事に取り組む。 四、 順縁の助けと逆境の試練に感謝する。 五、 自分とも他人とも比較せず、今のこの時を努力し、常に未来の準備をする。 六、 它(それ)と向き合い、它を受け取り、它を処理し、它を手放す。 七、 事前に備える、努力に努力を重ねる。生命を尊重し善用する。 最後に私が特に強調したい事は、「何事も正面から読み解き、遡って思考すべし。」で、この言葉はとても役に立ちます。これは、私が一生で体得したことで、大乗仏教の精神でもあります。挫折に直面した時は、一貫した考えに沿わず、他人の受け売りの観念に同調したりせず、遡って思考すべきなのです。私はいつもこう言っています。「山は転ぜず道転ずる、道は転ぜず人転ずる、人転ぜず心転ずる。人を変えるのではなく、ただ心と観念を変えれば、希望が見えてきます。」 事が思い通りに行ったとしても、有頂天にならないで下さい。挫折したり悪いことが起こっても、落胆しないで下さい。観念をちょっと変えるだけで、苦境から希望が見えてきます。
◎ 質疑応答 質問: 人生には必ず段階性の過程があります。例えば、今は兵役中で、今後は社会に出て仕事をしたり。もしも我々が全ての事に一生懸命取り組んでいれば、良い結果が出るんじゃないでしょうか? 聖厳法師 ( 以下、法師とする ) : 私が兵役中は、苦しい時期がありました。西暦 1940 、 1950 年代の事ですが、職業軍人になる気力もなく、未来感もなく、当時とても苦悶しました。その時、「乗りかかった船」の気持ちで、いかなる学習の機会も逃しませんでした。これらは、ある物は生活の中から、ある物は観察の中から体験するもので、書籍から得られる物よりも多かったです。絶えず体験するうち、人に対する観察と対人性の理解が身に付き、これは私にとって非常に有効な体験となりました。 その後も、いかなる場所において、学習の機会さえあれば、諦めずに取り組みました。例えば、通信教育や軍の補習、また各種の訓練に参加しました。これらの経験は、和尚の養成には何も役に立たなかったかもしれませんが、この経験がなければ、私は人の理解について、あまり深刻でなかったかもしれませんし、社会現象の体験についてあまり知らなかったかもしれません。そこで、あの経験は私にとって非常に役立ったと言えます。 私の体験を参考にしてみてください。軍隊で学んだことは、退役後の人生と何も関係なく、将来何も役に立たないようですが、実はそうではありません。貴方が現在着実に勉強をし、直ちに取り組みさえすれば、きっと明るい未来が待っています。 質問: 調査によると、自殺は現在の台湾社会の十大死因の第二位となっています。我々が厳しい困難に直面した時、「它(それ)と向き合い、它を受け取り、它を処理し、它を手放す」必要があると法師はおっしゃっていました。このようにすれば問題は解決されるのでしょうか? 法師: 口先だけでこの言葉を使っても、問題は解決されません。それを確実に応用して、初めて役に立ちます。 我々は勇気を持って人生の挫折に向き合わなければなりません。もしも挫折と向き合う勇気がなければ、自殺を選んだ人たちのように、どうしたらいいかわからず、生きることもすごく面倒に感じ、死の選択が全ての解決法だと思ってしまいます。これはとても無責任な態度です。 いわゆる「天無絶人之路(天は人の道を絶つことはない)」であり、自分で先に道を切断するのを恐れるなら、もちろん進む道はありません。ただ、放棄せず、最期まで頑張れば、人生にはまだ希望があります。例え、大きな困難な問題にぶつかったとしても、命を絶とうとは思いません。しかし、この状況で誰かが貴方の命を奪おうとしているなら、「誰かが私を殺すくらいなら、自殺した方がましだ」と思う人もいるかもしれません。しかし、誰かが自分に銃口を向けた時でも、状況が変わることもあり、このような例はとても多いです。少しでも呼吸をしていれば、無限の希望と可能性があります。まだ死期が訪れていない時は、死のうと思わないで下さい。どうしても死ななければならない時は、まずは事実を受け入れて下さい! かつてある人にこう聞かれました。「聖厳法師、もしもどこかに閉じ込められたら、どうしますか?」私はこう答えました。「何も問題ないですよ!私はその場所で修行をすることができます。」彼はまた聞きました。「中で何も許されなければ、どうしますか?」私はこう答えました。「何をする事も許されないのなら、私は念仏を唱えます。口に出して念仏を唱えることが出来ないというのであれば、心の中で唱えればいいのです。それに、誰かに祈祷する事もできます。」 永遠に生命の希望を放棄しない。これこそ、它と向き合い、它を受け入れ、它を処理する事です。どう処理するのでしょう?貴方の持つ全ての資源を運用すればいいのです。もしも何も資源がなければ、その時の状況を受け入れさえすればいいのです。現状を受け入れれば、心に心配事はなくなりますし、それで手放せばいいのです。 質問: 全ての人の人生の目的は異なります。私達はどう自分の長所を見つけ、それを発揮すればいいのでしょう? 法師: 多くの人は、自分の長所は一つ以上あると思っています。ある時は音楽家、ある時は彫刻家、ある時は軍人、教師、商人になりたいと思っているかもしれません。選択は多く、適応性も高いようですが、だったらどうすればいいのでしょう? まず人生の方向を見極め、この方向が必ず自分に無害で、他人に有益かということ考える、これが最も基本的な事です。一つの方向に向かって努力し、その後、それが自分に合わないと気付いたら、ちょっとした調整の時間を与えても構いません。調整の過程において、きっと新しい発見があるでしょう。 質問: 現代の人は、生活周辺の人や物事に対して、いつも冷淡に考えています。人や物事に接する態度の着眼点は、自分の利点ばかりで、「現実的」だと世間から非難されています。しかし、軍隊は戦う団体ですが、各員は互いに関心を持ち、私心のない援助により、愛と誠意のある団体精神を身につけます。どう将兵を励まし、このような生活と生命に対する冷淡な態度を改善すべきか、教えていただけませんか。 法師: 心の環境保護の角度から見ると、人との間の関係は冷淡といえます。主な原因は、皆が安全感を持たず、ただ自分を守り、それぞれに心配事があり、外部との繋がりを断ってしまうからです。なぜ安全感がないのでしょう?自信が足りず、常に誰かに傷つけられるのではないかと疑いの気持ちを持っているからです。自信を十分に持ち、自分を認識・理解し、自分の長所短所を知り、欠点を隠さないことで、長所を十分に発揮出来、これで人々を助け、奉献する事が出来ます。 軍において、皆は自分の出身地や家庭背景で分け、お互いを弟・兄とか同士などと呼び合っていますが、実際は同じ仕事と任務を行っています。最も重要なのは、自分の心の防壁を取ることで、相手に暖かい手を伸ばせば、人々の冷淡さを取り去り、真の友達になることが出来ます。 質問: 30 年の軍隊生活において、将兵の自殺事件を解決してきました。かなり多くの経験がありますが、毎回深く感慨してきました。《生命の価値》にある法師とローマカトリック教の単国璽枢機卿の対話では、生命は最大の資産だと言及されています。また、「生命教育」の話題に触れていますが、仏教の観点でお話しいただけませんか? 法師: 仏教では、身体は修行と善行の際に使うように勧めています。もしも生命を軽く考えているなら、それは罰当たりなことで、自殺は、殺人と同様に罪です。 通常の人は、人を殺すと、厳しい刑罰が下される事を知っています。しかし、自殺した人は、これが犯罪だとわからず、それに当人も既に死んでいるので、法律でもどうしようも出来ません。仏教の観点では、生命は無限に継続するもので、今世と来世は互いにつながっているのです。今世から見ると、自殺した人は制裁を受けないように見えますが、来世には、因果律の制裁を受けることになります。 お経の中には「人の身体は貴重」とあります。この世には色々異なる生命があるため、毎回人として生まれ変わるとは限りません。もしも今世を貴重に扱わず、運用せず、責任を尽くさなければ、来世は人間として生まれることは難しくなります。人間の生命はとても貴いため、我々は生命を大切に扱わなければなりません。 (2005 年 8 月 16 日、陸軍総司令部 関渡営部にて講演 )
生命の衰退期をいかに運用するか
多くの人は、生活の意義と生命の価値を理解していないため、人生の過程での浮き沈みや得意不得意を善し悪しの基準としています。満足し、順調な時は自分が運が良いと喜び、不満足で、不調な時は、運が悪いと悲しみます。もしも本当に人生の意義と価値を理解しているのなら、いわゆる満足と不満足の問題も好調と低調の問題もなくなります。逆境は必ずしも悪いとは限りません。しかし、我々がどう向き合い、運用するかにかかっているのです。 私の人生は他の一般の方々より、苦労を積んでいると思います。幼少の頃、同年代の子供達は学校に行けたのに、私はその機会すらなく、その時期は低調期と言えます。その後、仏学院に入学しましたが、それも長くは続きませんでした。国民党と共産党の戦争が勃発し、寺院は破壊され、多くの同級生は還俗し仕事に就き、私も今後の出家生活を続けるために、一時寺院を離れ、軍隊を選びました。その時期は、私と同年代の人達は、高校、大学、大学院で勉強していたのですが、私は入隊しなければなりませんでした。これも私の人生のもう一つの低調期と言えます。 再度出家してから、ついに勉強の機会がやってきました。日本に留学することになったのです。留学の期間は、経済支援が無かったため、生活は依然として苦しいものでした。日本で学位を取得後、アメリカに渡りました。しかし、それも運悪く、私はアメリカの街頭で流浪することとなり、私の人生でもう一つの低調期でした。しかし、その低調期を運用して、絶えず学習し、大量に本を読み、見識・学問・性格の成長から自分を充実させ、全く何もなくとも、生命を無駄にすることはありませんでした。 十代の頃、環境の関係もあって、生命の低調期を運用して自分を充実させる方法を身に付け、その頃から手探りで文章の投稿を始め、二十代に作品を発表しました。文章を書くため、私は自習で本を読み、勉強する必要がありました。そのため、運命のめぐり合わせは大変なものでしたが、私は生命を無駄にしようとは全く考えませんでした。兵役中も、自己の成長の機会をしっかりと捉えました。長官交代の任務を完成させただけでなく、時間があれば、本を読み、文章を書き、仏教を信仰し続けてきました。退役後、再度出家し、機会があって山中で篭り修行をしました。誰からも供え物も布施もありませんでしたが、私はそこで六年を過ごしました。普通の人であれば、そのような事は耐えられないでしょうが、私はそれでもその環境で楽しく過ごすことが出来、あの時期は、仏学が示す最初の最盛期といえました。 特に、私が日本に留学した時期は、誰からも援助を受けませんでしたが、生涯で自分が最も成長できた黄金の歳月でした。アメリカでは、流浪しつつ、毎日が忙しく酷い状態でしたが、迷いや、空虚、どうしようもないという感情は持ちませんでした。なぜなら、私は逆境に向き合うことに慣れていたので、ちょっとした挫折感はあっても、運が悪いとまでは思わなかったからです。 これらの低調な経験も、私の生命の過程の必然と見なします。私は晩年まで生き、多くの経歴を積んできました。また一つの国際的な団体も創立しました。他人から見ると、私の人生の頂点とも言えるかもしれません。しかし、私は今を一つの過程と見ているので、この状態を高いとも低いとも言いません。なぜなら、全ての人の生命過程はいつも起伏があり、全ての段階は価値があるからです。もしも、我々の気持ちが起伏に左右されれば、生きているという意義に欠けますし、生命も価値がありません。もしも生命の最高点だけを重視し、低調を善用できないのなら、人生の見所は、少ししかないといえます。 ( 本文は《人間世》に収録。法鼓文化出版)
人間の体は貴く、自殺すべからず。
仏教における殺人の定義は、他人を殺すことから自分を殺すことまでです。殺人は慈悲行為ではなく、仏教は自殺も許しません。自分も一人の人間だからです。そこで、殺人は犯罪であり、自殺も慈悲も智慧も欠けるため、同時に有罪なのです。 どうして、自殺で問題を解決しようとする人がいるのでしょう?それは、一人で極度の恐れ、どうしようもない気持ち、倦怠感に向き合う時、自分に対して自信を失ったり、未来がはっきり見えなかったり、運命に自信が無かったり、自分の将来が見えないからです。或いは、今後降りかかる大きな災いを予想して、すでに希望がないとか、死んだ方がましだと考えたりして、自殺の道を選んでしまうのです。自ら破滅への道を歩んでいるようですが、実は、生命で尽くすべき責任を負いたくないと思っているのです。 実は、一人の卑しい人間であっても、その人生も崇高な価値と本分の職務と責任があるのです。事故死、自然死以外は、生きてさえすれば、機能も責任もあります。たとえ、不治の病であっても、機能と責任があり、念仏を唱えたり、寺院を参詣したり、良い人・事を賛嘆する機能があります。また、病気を受け入れたり、生命のこの事実に向かい合う責任もあります。そのため、呼吸さえしていれば、機能も責任もなくなりません。なぜ軽々しく自殺が出来るのでしょうか。 長期寝たきりの重病なおばあさんの知り合いがいました。彼女の娘さんはとても親孝行で、毎日病院にお見舞いに行っていました。長い年月が流れ、おばあさんの病状は悪化する一方でしたが、娘さんは一生懸命面倒を見ていました。おばあさんは、このように生き続けると娘に大きな負担を掛けて申し訳ないと感じ、早く死にたいと言っていました。ある日、彼女のお見舞いをした時、こう伝えました。「念仏を唱えれば、功徳は一切の障害を取り払うことができますし、仏の力に頼れば、悪業も解消することができます。死を期待してはいけません。人は生きなければいけません。生命には機能と価値があるのです。」おばあさんはこう答えました。「私はこの世に生きていますが、娘にとって私は一人のお荷物です。彼女は毎日私のお見舞いに来て、彼女に借りばかりしています。早く死にたいです。」娘はそばで泣きながらこう言いました。「私のお母さんはたった一人です。貴方が生きている間は、私にはお母さんがいます。私のために、絶対に生きてちょうだい。」これでおばあさんは急に明るく悟りました。彼女は、生きる価値を見つけ、その後、私の忠告通り、念仏を唱え始めました。 またある時、服毒自殺を図り、助けられた男性に会いました。死にたいという気持ちを依然として持っており、彼にこう言いました。「どんな因を植え、どんな果を得るのでしょう。貴方は死を生命の終わりと考えていますが、貴方は現実逃避をしているだけです。来世において、この代価を支払わなければなりません。借金取りから逃げる結果、借金返済を迫られ、倍の利息を支払う結果になります。しかし、我々は観念を変える事ができます。返済する態度を、「願ほどき」と変えるのです。つまり、苦しい思いをする事が自分の心から望んだことだと考えるのです。借金をした人も返済が出来るし、自分に尊厳を持たせる事が出来ます。これで更に苦しい思いをしなければならなくても、他人の利益を図り、自分の福を培うため、暮らしは前よりずっと良くなります。」 私はまた彼にこう言いました。「借金が理由で、自殺を選んだ人は、借金は完済していません。そこで、解脱することもできず、死後も、自殺した時の情景と苦痛が絶えず現れます。心の中の問題はまだ解決していないからです。生きている時に出来るだけ修行し、自分で自分を済度するのが一番です。さもなければ、自殺後、代わりに家族や友達の済度を望むことになります。しかし、その力は限りがあります。」彼はこの話を聞いて、行きぬくことに決めました。 周りに自殺傾向のある人がいれば、この観念で伝えてもいいでしょう。多くの人は、自殺の考えを持つ人の心が見抜けません。そこで、皆が三世因果の生命観を持ち、命を大切にし、一生の価値を発揮すべく努力するのが一番です。仏は人の体は大切だと言います。功徳を積まなければ、体を失ったり、永遠に回復はできません。軽々しく自殺を考えないようにして下さい! ( 本文は《人間世》に収録。法鼓文化出版 )
生活の意義と生命の価値
多くの人は、生活の意義と生命の価値をはっきりと理解していません。普通の人は、子供の頃は素朴で無知です。その人が大人になって結婚し、子供を生み、一家をなし業績を積みます。その後、子供は大きくなり、自分は定年退職し、死を待ちます。その他に、子供の頃から志を立て、大人になって大物になり、お金持ちになる人もいます。 一部の賢い人たちは、自分の生涯の計画が出来ており、人生経験をしてから、将来の生活方向を確立します。例えば、 50 歳の人は、今後 10 年間は何ができるか考えます。 60 歳になって、まだ健康であれば、今後 10 年の計画を立てます。しかし、人生の意義と価値はどこにあるか、依然としてあまりわかっていません。これらの人たちは、どう計画を立てるかはわかっていても、生活の意義と生命の価値はどこにあるか知らないのです。 生活の意義は、自己の成長にあり、生命の価値は、他人との分かち合いにあります。生命とは個人の成長で、生命は個人と団体、個人と歴史関係と相互に影響しています。個人の成長では、生活が安定し心のよりどころを得、人格を育成し、社会生活における道徳規範を定めます。生命の分かち合いは、社会と歴史において責任を尽くす事と将来の継続です。そこで、生活の規範は限りがあり、生命の価値は限りがないのです。 生活の意義は、肉体の生存だけでなく、心の成長もあります。成長の過程は起伏があり、金銭で判断できるものではありません。有形の物質レベルと無形の精神レベルは、正比例するとは限りません。ある人の財産と権力の激増するとき、その人の人格が堕落することもあります。しかし、人の人格が上がる時、その人の生命価値も上がります。 人の価値は、人と影響し合う時、顕著に現れます。人との対話には二種類あり、一つは「受け入れる」で、もう一つは「払う」です。受け入れることも払うことも、報いを受けるということです。しかし、報いを受ける事は、受動的で、無意識のように感じられますが、見方を変えると、それは主動的な願ほどきであり、心から望んだことです。親族、社長と部下、技能と知能の育成などを受け入れ、生きていく環境と人類の歴史から、種々の資源を受け入れます。受け入れることは悪いことではなく、人との相互協力の関係で、多くの時に、受け入れる際に確立されます。 払うことは、苦痛でも楽しみでもあります。払うことで、生活の意義と生命の価値がはっきりと現れるため、自分の持つ知能、時間、技術、また、各種の財物資源、社会資源を差し出すのです。しかし、ある時は、払うために、辛い体験を受け入れる必要があるので、このときは、落ち込まずに、常に人を傷つけないように注意します。あるいは、事はすでに過ぎ去り周囲の状況も変わっているかもしれませんが、我々は、このために必ず代価を払うべきで、この種の払いは苦痛であっても、生活を充実させ、生命を更に豊かにしてくれます。そのため、思い通りに行かない支出に出会った時、それを過去に起こった悲願と見なさず、主動は受動ではなくてもいいのなら、この苦痛は快楽に転化することができます。例えば、両親が子供達のために何十年も苦労してきたことで、その中に楽しみがあるように。 ( 本文は《人間世》に収録。法鼓文化出版 )
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