| 人生何ゆえに |
人生の意義とは、責任を果たすことと責任を負うこと 多くの人に聞かれることがあります。人生の本質は何か?人生の意義は何か?人生の価値はどこにあるか?人生の目標とは何か?と。人生の意義とは、責任を果たすことと負うことにあります。全ての人間が生まれてから年老いて死ぬまでの人生の過程において、多くの異なる役を演じています。例えば、子女と父母、学生と教師、同僚・上司・部下・友達などです。これらは、人と人との間の倫理関係であり、責任の範囲に属します。 もし、責任を尽くさないと、それを演じた役は、「いい加減」と言われます。通常我々は無責任な様子を「いい加減」と形容します。もし、倫理の標準から我々自身を見ると、自分はいかにいい加減かということがわかります。なぜなら、ある役割で責任が果たせなければ、いい加減ということになるからです。 人生の価値は、献上と貢献にあり 人生の価値とは何か?多くの人は、名声、地位、勢力、金銭を持つことが、価値が高いことだと思っています。しかし、これは本当に価値があるのでしょうか?価値があるとも無いとも言えます。まず、その人が人間社会においてどれだけ貢献しているかを見、何も貢献せず、ただ地位、金銭、名声のみを所有しているのであれば、その人の価値は限られます。 いわゆる奉献と貢献は、責任を負い、尽くし、着手することで、しかも異なる役が責任を果たし、貢献します。 この世界において、我々と直接関係のある人は決して多くありません。記憶にある範囲で、自分に関係のある人の名前を一人一人書き出してみれば、一体何人位いるでしょうか。さほど多くないと思います。千人以上の名前を書ける人は非常に少ないでしょう。また、心の中で思いつく親友とは、色々考えても数人しかいないはずです。ただし、間接的な関係であれば、多数いるでしょう。責任とは、ある事や少数の特定の対象にのみに使う言葉かもしれません。しかし、貢献は、責任を負う役割を演じることとは関係なく、いかなる場所、いかなる対象で、機会があり、貴方とその人が直接な関係かどうかに関わらず、同様に貢献ができるのです。 例えば、道を歩いている時、一人の見ず知らずの子供が道を渡るところを見たとします。貴方はその子供の手を引いて道を渡る責任はありませんが、その時こそ一つの貢献の機会だといえます。多くの人はこう思うかもしれません。「あの子供は一人で道を渡る。まあ、問題はないだろう。私は急いでいるから時間がない。」しかし、その子供が車にひかれたとします。助けられるチャンスをこのように失い、後悔しませんか? 貢献の任務を負う そこで、貢献とは自分の直接の関係の範囲内で起こるのではなく、大きかったり小さかったり、近かったり遠かったりします。広大な全世界において、全ての衆生に対して、我々は奉献と献上の任務を引き受けるべきです。人生の意義とは、責任を果たし、責任を負うことです。ただ、現在の自分の責職範囲に十分取り組めばいいとされますが、これは自分の責務を尽くすだけで、何に大きな貢献をしているかということは言えません。 私が日本に留学をしていた時期、台北の幾つかの寺廟で、財産や権利をめぐって紛糾が起こり、今は亡き東初老人師父より、このような手紙をいただきました。「仏法の発揚は誰もせず、寺廟の財産や権利を争い、現在の仏教は非常に哀れだ。」仏教徒自身の奪い合いだけでなく、政府も寺廟を奪い取りました。言い分としては、これらの寺廟は、日本植民地時代に日本人が建築したもので、敵の財産なので、政府がその全てを回収すべきだというのです。しかし、師父は私をこう言ってくださいました。「現在、皆は寺廟を奪い、仏法を助けるべきという事を考えていません。仏法によって速やかに人々の心を助け、我々は、仏法の運命を助ける責任を負うべきです。」 そのため、仏教界が寺廟を救うというのは、非常に大きな用途であり、弘法の育成に取り組む人材は、社会に対して貢献し、これこそ根本的な方法と言えます。例えば、今日の仏教が、台湾の社会にすでに著しい貢献をしていれば、仏教は存在の価値があります。このような話があります。 Herb 台風( 1996 年 9 号)が上陸した際、農禅寺も被災し、寺全体が浸水 1 メートルの状態で 2 日経ち、損失は甚大でした。私は法鼓山の 4 名の弟子にこう言いました。「寺は浸水してしまいました。我々は台湾全土の信者に、災害援助を働きかける必要があります。」最終的に、皆から 300 万元の義援金が集まりました。これは、法鼓山という仏教団体が、社会に対して正面の価値を持つということを現します。 また、ここ数年、法鼓山禅寺では、各種のキャンプを行っています。小学生から中学生、大学生、中高の教師、大学のトップや社会のエリートまでが参加する、各種段階的な禅修業キャンプ(「教師禅修業キャンプ」や「社会エリート禅修業キャンプなど)を行っています。 その中の「大学主管禅修業キャンプ」は、大学の学長、総務長、学務長、教務長、学部主任が参加しています。我々はただ相手に与えるのみで、回収しようとは思っておりません。そこで、活動が終わる時、ある学員にこう聞かれました。「どのように法鼓山に恩返しすればいいのでしょうか?」 私はこう答えました。「皆さんが禅修キャンプで聞いたこと、学んだことは、有効な観念と心身を調和する方法であると願っています。この内容を家や学校に持ち帰り、受け入れたい人達と分かち合う、これが法鼓山への恩返しです。」 その中にまだそれを理解いただけない教授がいて、こう聞かれました。「もしそうだったら、長い時間を経て、法鼓山は破産してしまいませんか?法鼓山は、まだ建設するお金があるのですか?」 私はこう答えました。「我々がこのような奉献の心が増えれば増えるほど、我々を加護してくださる方も増えるのです。」 私は彼らにこう言いました。「法鼓山の禅修キャンプに参加いただく事は、卸売りメーカーが工場倉庫の品を出荷するようなものです。帰ってから、我々の替わりに卸売業者と小売商としての役割を担ってください。皆様の社会貢献こそ、我々に替わる社会貢献であり、我々の収穫と言えます。また、これも皆様が法鼓山に対する恩返しとも言え、法鼓山が今日の台湾社会に与える価値を示すのです。」 報いを受ける、願ほどき、願掛け 人生の目標は、報いを受け、願ほどき、願掛けをすることです。 過去にした事から報いを受けます。今世、前世、過去にしてきた、計り知れない事、この一生でただ必要なのは、因縁成熟で、因果応報を受けることです。良い事をすれば福報を受け、悪いことをすれば苦報を受け、成仏するまで報いを受け続けることになります。計り知れない災難から衆生との関係が、恩と仇がもつれた状態になるからです。 しかし、人が福報を受ける時、全ては当然の事と感じるようですが、苦報を受ける時は、全く納得がいかず、今まで何も悪いことをしたことがないのに、どうして自分に悪報が訪れるのか考えます。仏鼓山の大学主管禅修キャンプの発起人で、現立法委員の丁守中居士は、ある時キャンプ終了式にて彼の経験談を話されました。内容は、「ある日、息子を連れてプールに行ったのですが、ちょうどその時、排水中でした。息子は一人の同級生が放水孔に吸われてもがき苦しんでいるのを見て、それを助けようとしました。結果、自分の一本の足も引き込まれ、重症を負い、もう少しで足を切断するところでした。私はこの時、最初にこう思いました。『おかしいな、私はこの一生かけて福祉活動を行っているのに、どうして私の息子はこんな目に遭ってしまうのだろう』その時、私はどうしても納得できなかったのですが、しばらく経ってから、落ち着かない気持ちがゆっくりと安定し、心でまたこう考えました。『そうか、これは因果応報というものではないか!恐らく、私が過去に何か悪いことをしたために、息子がこんな目に遭ってしまったのだ。』それから、すぐにまた一つのことが頭に浮かびました。『この子には、恐らくこの災難だけに遭う運命で、こんな大災難でも生き延びられたので、将来は必ず良いことがある。』こう考えたら、もう思い悩まなくなりました。」 彼は、こう考えると心がとても落ち着きました。これはすなわち、「報いを受ける」の観念で、心を穏やかにさせ、災難に直面する力量となります。 それ以外に、我々がこの世に生まれてきたのも、願ほどきからです。過去から今まで、どれだけ多くの願いがあったかわかりません。皆さんは子供の頃、色々な願いがあったでしょう。例えば、「大きくなったら、・・・になりたい。卒業したら、・・・になりたい。結婚したら、・・・がしたい。子供を生んだら、絶対に・・・が欲しい。先生なら、・・・がしたい。」皆は、一生の中で、望みは本当に多いのです。 私は、若い頃読書が大好きでしたが、その時は、本を探すのも難しい時代で、一人の軍隊の仲間がこう言いました。「兄貴!本を読むのが好きなら、私は将来本屋を開いて、多くの本を読ませてあげよう。」 私はこう言いました。「本屋を開いても、本棚には制限があって、置ける本はさほどありません。だったら、なぜ図書館を開かないのですか?」 彼はこう言いました。「本屋を開けば、お金を稼げますが、図書館だと、損ばかりしてしまい、私にとって全く利益がないのです。」 私は、お金の事は全く思いつかずこう言いました。「私は将来図書館を開きたい。」 彼はこう言いました。「なら、そうするといい。」 私がこう話した後、まさか因縁が本当に実現するとは思っていませんでした。三・四十年の時が過ぎ、チャンスが訪れました。私は、中華佛学研究所を創立し、そこには数万冊もの本が並ぶ図書館を併設しました。将来法鼓山の仏教専門図書館には、更に 20 万冊もの本を置く予定です。また、法鼓人文社会大学総合図書館もあります。私の願いはすでに一歩一歩実現しています。そのため、願掛けは一種の動力といえます。しかし、願ほどきも必要なので、仏にお礼参りも一種の人生の目標といえます。 禅修キャンプに参加する人達にも、願を掛けるように励まします。例えば、足がしびれて耐えられない時は、こう願を掛けます。「磬の音も聞かない。足が更に痛くなっても絶対に足をくずさない。」しかし、この願いを発しても、大半の人達は、足があまりに痛くて、やはり途中で足を動かして姿勢を変えてしまいます。 願が叶わないという理由で、いくつか願を掛けた後、もう願を掛けないという人もいます。しかし、私は皆に一つ一つ間を置いて願を掛けるように勧めています。ゆっくりと、更に守り通し、願もだんだんと実現していきます。もし、一つの願さえ掛けないとしたら、その願力は、十分に強くないといえます。 仏教徒は、朝晩の日課として、「四弘誓願」を唱えます。「衆生無辺誓願度 (衆生は無辺なれども 誓ってどせんことを願う)。煩悩無尽誓願断 (煩悩は尽きることなけれども 誓ってだんぜんことを願う)。法門無量誓願学 (法門は無量なれども 誓ってまなばんことを願う)。仏道無上誓願成 (仏道は無上なれども 誓ってじょうぜんことを願う)。(参照: http://members.jcom.home.ne.jp/webchikoin/shiguseigan.htm )」 多くの人は、願を掛けても、その後、家族や同僚に嫌がらせや喧嘩をしたりして、悲しくなったり後悔したりします。つい先ほど、衆生を救い、煩悩を絶とうと願ったばかりなのに、今はまたその誓いに背いたということです。しかし、私は彼らにこう伝えます。願は、一つずつ終わってから掛けるべきで、これで状況は次第に変わり、願力は日増しに強まります。 願掛けの段階 願を掛け、道義心と菩薩心を発し、平凡な人間から仏になるまで、 5 つの段階に分けることができます。 ( 1 )人道 道義心の「道」の字は、まるで人生の旅程です。生命の歴程と方向は、人生の道と呼ばれます。人は世界に生き、自分が進むべき道を持っています。それに、近・中・遠い未来の人生目標を必ず持つべきで、学習は近場から着手し、遠い所は着目します。そこで、旅立つ際、必ず第一歩から始め、一歩一歩着実に前に進まなければなりません。 ここからわかる事は、道義心を発することは、身を持する立場から始め、自分個人の責任を尽くし、品格と人徳を備えるべきという事です。もし、身を持する基本条件すら持っていなければ、人の行為や考えには見えず、このような人を罵る人は、「人間の身なりをした下等な者」といえます。どうしてこうなのでしょう?第一に、彼らはどのように身を持するかもわからず、とても気の毒です。第二に、彼らは自分の意志で決めることが出来ず、環境の誘惑、刺激、脅威の影響を受け、彼らの心も体も思い通りに行きません。 仏鼓山の理念は「人品を高め、世の中の浄土を建設する」です。これは、人間の基礎からの開始であり、皆が現在持つ身分や役割で、適切に程好く表現できればと思います。つまり、道義心を発し成仏したければ、まずは願を掛け、人となりをしっかりする必要があります。 ( 2 )天道 人道を進むことは、わずかに他人のために尽くす責務・責任です。天道を修行することは、自分に貢献し、社会の大衆に服務することで、全世界の全ての人達を、自分の配慮、貢献、服務の範囲だと見なします。このような人は、大きな心量を持ち、多くの良い事をし、全ては積み重なり、天国の功徳を生みます。 しかし、天道を進む人は、我々は地球人だと言うことだけを考え、まだ他の世界のことは考えず、また他の衆生のことも思いつきません。その上、天福を追求する念頭がまだあります。 ( 3 )解脱道 その次は解脱の道です。これは、四大、五蘊の心身世界を手放すことで、悪行が起こらず、煩悩が生まれず、三界の生死苦界を越えることです。 ( 4 )菩薩道 菩薩道を進むことは、人天善道に解脱道の功徳を加え、この世で広く善縁を結ぶだけでなく、更に十方三世で、全ての衆生が服務、貢献、心遣い、配慮の対象として取り組みます。しかも、善を為すのは、福報を求める為ではありません。大乗仏法はこれまで人に菩薩道に進むことを激励し、菩薩道を進むことは、願掛け、願ほどきから始める必要があると言っています。 ( 5 )仏道 最後に、最高の段階は仏道であり、これこそ「無上菩薩心」を発すること、「阿耨多羅三藐三菩提心(無上菩薩心を起こす)」です。《心経》、《金剛経》などの多くの経典では全て、我々に、「無上菩薩心」を発するよう告げます。成就人道、天道の心を発するだけでなく、解脱の心も発する必要があります。更に、菩薩心を発し、菩薩心が円満になってこそ、無上仏道の完成といえます。 ( 1996 年 8 月 13 日、法鼓山農禅寺教師禅修連誼会における演説。本文は、《平安な世の中》に収録。)
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